藤田旭山句碑住所 旭川市東旭川町倉沼社団法人旭川観光協会 旭川文学資料館 旭山の山頂へ向かう道路を上がると途中にある碑。 向かいには「立木大師堂」があり、古くは大木に大師像が彫られていた。 現在は立派な祠が建っている。 西山東渓とともに「旭川ゆく春会」を発足させた、旭川俳壇の草分的存在の一人である。 碑は高さ1.3mの蛇紋岩、門下生の手で1979(昭和54)年10月7日建立された。 雪虫の 夕ぐれ 青し旭川 旭山 藤田旭山(ふじたきょくざん)とは、1903(明治36)年1月16日 - 1991(平成3)年3月6日、俳人。 士別市生まれ、本名国道。1915(大正4)年家業の移転により、旭川区四条通十六町目に移転。 1924(大正13)年、「雲母」「同人」「ホトトギス」等に投句する。 1927(昭和2)年、明治大学卒業する。在学中より室積徂春に師事。 1927(昭和2)年、10月俳誌「ゆく春」創刊する。西山東渓と共に「旭川ゆく春会」を発足する。 1938(昭和13)年、「旭山第一句集」を上梓。 1944(昭和19)年、北海道立旭川工業高校教諭となる。 1947(昭和22)年頃から、北海道日々新聞俳壇選者、旭川市公民館俳句講座講師、旭川俳句連盟理事、北海道俳句協会顧問などで後進の育成に努める。 1953(昭和28)年、第六回旭川市民文化賞受賞。 1966(昭和41)年、「虚心妙」刊行。 1968(昭和43)年、北海道立旭川工業高校退職。「俳海」創刊する。 1979(昭和54)年、旭山公園に「雪虫の夕ぐれ青し旭川」の句碑建立する。 西山東渓(にしやまとうけい)とは、1899(明治32)年、2月 - 、俳人。 1899(明治32)年、2月東旭川兵村屯田兵軍曹の長男として生まれる。本名は勲。 1913(大正2)年、3月公立旭川小学校高等科卒業。 1919(大正8)年、12月徴兵のため旭川歩兵第二十八連隊入営。 1921(大正10)年、11月除隊後病気で1年療養する。 1923(大正12)年、3月株式会社絲屋銀行本店勤務する。 1927(昭和2)年、10月俳誌「ゆく春」創刊する。室積徂春門に入る。藤田旭山と共に「旭川ゆく春会」を発足する。 1928(昭和3)年、4月旭川信用組合勤務(現・旭川しんきん)。10月父の戦友の娘と結婚する。 1941(昭和16)年、1月俳誌「ゆく春」同人に推薦。4月旭川信用組合専務理事に就任。 1965(昭和40)年、10月黄綬褒章を受ける。 1968(昭和43)年、10月藤田旭山氏、俳誌「俳海」創刊に参加する。 1969(昭和44)年、5月叙勲五等賜双光旭日章受ける。6月句集「年輪」自家版1200部上梓。 1977(昭和52)年、1月俳誌「俳海」百号記念文化賞を受ける。 1978(昭和53)年、句集「渓音」上梓。 室積徂春(むろづみそしゅん)とは、1886(明治19)年12月17日−1956(昭和31)年12月4日、明治-昭和時代の俳人。 滋賀県出身で、旧姓は増永。本名は尚(たかし)。 岡野知十に師事。のちに佐藤紅緑の門下となり「とくさ」を編集する。 1927(昭和2)年から「ゆく春」を主宰した。妻は俳人の室積波那女。 立木大師堂とは、1920(大正9)年春、阿波の国から仏師、福山礼蔵がやってきた。 この礼蔵は、後に旭山寺の檀家となる川上儀太郎宅を訪れ、居座り寝食を共にするようになり昼間から酒を飲むようになった。 川上儀太郎は困ったが酒を飲んだ後、夜な夜などこかに姿を消す礼蔵を不思議に思っていたという。 毎晩、どこかに消える礼蔵はローソクの火を頼りに直径1.5mもあるナラの大木の中腹(地上から約6mほど)にノミ一丁で修行大師を彫っていたのである。 修行大師を彫り続け、4ヶ月目のある秋の日、礼蔵は忽然と姿を消したそうだ。 後日、この修行大師を見つけた川上儀太郎は村の有志と共に浄財を集め、1920(大正9)年10月開眼法会を執行したそうだ。 1930(昭和5)年の台風で、ナラの大木は大師像の笠の上あたりから折れてしまったが、「立木大師」として安置された。 1955(昭和30)年に「旭山立木大師堂」として新たに建立された。 大きな地図で見る |