北海道応援サイト!がんばれ北海道!!伏古開拓記念碑

伏古開拓記念碑

住所 上川郡愛別町伏古

愛別町

この伏古地区は、1896(明治29)年、山形県人工藤直蔵、山元又太郎が貸付地を受けて移住したのが始まりである。
1902(明治35)年、石川県人小倉作次郎が入植、その後続々と入植者が増え、1905(明治38)年には45戸にまで増えていた。
この地は、愛別川を隔て北は協和部落、南西は厚生部落に接続し、山岳に挟まれた地だが肥沃な土地で薄荷の生産が高かった。
稲作の実施も早く、1909(明治42)年には数町歩があったとされる。
その後他地区と同様に造田が盛んになり、現在ではほとんどが水田となっており、現在も良質の米を生産している。


碑文
伏古は明治二十九年岡山県山元又太郎初めて移住
開墾に従事、三十年以来々住者増加熱心農耕に従事
三十四年簡易教育所設置、同年道路開鑿、大正九年
灌漑溝掘鑿許可、水田反別百十三町五反五畝畑五十町余
現今戸数六十余住民穏健協力専心農業に励み将来互
に相助け本業に精励以之聖代之御恩択に奉報所あらんとす
昭和四年九月八日
太田龍太郎詠

江戸期、「アエベツ」西蝦夷地イシカリ場所のうちアエベツと記載がある。
1807(文化4)年、幕府勘定役近藤重蔵が、石狩川上流を探検する。
1809(文化6)年、幕府雇吏間宮林蔵が、石狩川を遡りサンケマナイに至る。
1857(安政4)年、石狩在勤足軽松田市太郎が、水源調査のため上川に至る。
1873(明治6)年、荒井郁之助ら測量隊の一行がアイベツ川口に達する。
1876(明治9)年、松本十郎が石狩・十勝検分の為上川にはいる。
1891(明治24)年、北見中央道路全線開通。
1892(明治25)年、永山村から鷹栖村分村、当時の愛別は永山戸長役場の所轄に属する。
1894(明治27)年、愛別原野殖民地区画決定、貸付開始される。
1896(明治29)年、山形県人工藤直蔵、山元又太郎が貸付地を受けて入植。
1897(明治30)年、鷹栖村、永山村を分村し愛別村を設置、戸長役場開庁。
1901(明治34)年、伏古簡易教育所を設置。
1905(明治38)年、上伏古で水稲試作開始する。
1908(明治41)年、伏古簡易教育所を上伏古簡易教育所と改称する。
1922(大正11)年、11月4日石北線新旭川〜愛別間開通。愛別駅新設。
1923(大正12)年、11月15日石北線上川駅まで開通。
1925(大正14)年、愛別発電所竣工する。
1927(昭和2)年、安足間発電所送電開始。
1932(昭和7)年、徳星鉱山開鉱。
1943(昭和18)年、徳星鉱山廃鉱となる。
1961(昭和36)年、8月愛別町制施行。
1987(昭和62)年、4月1日国鉄分割民営化により愛別駅は、JR北海道に継承。(愛別町史・愛別百年史参考)

薄荷(ハッカ)とは、日本在来のシソ科ハッカ属の多年草で和種薄荷と呼ばれハーブの一種。
水蒸気蒸留によって抽出し、冷却して水と分離されたものを採取する。
採取されたものを「取卸油」といいこれが出荷された。
これらは食品用・生活用品・医薬品用としても用いられている。
現在でも虫よけにハッカ油が重宝されており、ハッカ飴なども有名である。

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)江戸時代後期の幕臣で探検家。
間宮林蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
江戸駒込(現・東京都文京区本駒込付近)に生まれる。山本北山に儒学を習い、17歳で私塾「白山義学」を開くなど幼児の頃から神童と言われた。
生涯書いた著作は、60余種1500余巻にものぼるという。
1798(寛政10)年、松前蝦夷地御用取扱となり4度蝦夷地(北海道)へ赴いている。
最上徳内と千島列島、択捉島を探検し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事し、高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させている。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷に上陸。利尻島や現在の札幌市周辺を踏査している。

間宮林蔵(まみやりんぞう)とは、1780(安永9)年〜1844(天保15)年2月26日(4月13日)江戸時代後期の隠密、探検家である。
農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人で、近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。蝦夷地(北海道)に長く住み、アイヌ語も理解できたようで、23年もの間、北海道を中心として活躍していたそうだ。
伊能忠敬から測量法などをさらに学び、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させていることも大きな業績の一つ。
1799(寛政11)年、南千島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び、1803(享和3)年、西蝦夷地を測量した。
1808年(文化5)4月13日、幕府から命を受けた、当時29歳の林蔵は松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発する。
このとき、林蔵は墓石を海岸に建てたそうで、探検がどれほど過酷なもので、覚悟決めての出航だったかを思わせます。
同年7月13日、第2次樺太探検のため、アイヌの船で単身出発し、トンナイ(旧真岡付近、現・サハリン州ホルムスク)で冬を越し、1809(文化6)年、5月に樺太を北上、樺太北端のナニオー(現・サハリン州ルポロボ)まで踏査して樺太が島であることを確認した。
樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見し、その生活の様子を記録に残している。
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたそうだ。
蝦夷地の測量は1822(文政5)年まで続けらた。

松田市太郎は、函館奉行所石狩在勤の足軽とされている。
松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されているそうだ。

松本十郎(戸田惣十郎)とは、1840(天保10)年11月27日(1月1日)−1916(大正5)年11月27日、庄内藩(現・山形県鶴岡市)に生まれ、後に松本十郎と改名している。
明治時代初期に活躍した庄内藩出身の官僚で、武士。
戸田惣十郎が、蝦夷地勤務を命じられた父について1863(文久3)年、苫前で在勤している。
1864(元治元)年、庄内藩の陣屋があった浜益に移り、地元のアイヌの生活などを見る機会に恵まれた。
1865(慶応元)年、一度庄内に帰国している。
1868(慶応4)年、戊辰戦争で新政府軍と戦うが敗北し、藩主酒井忠篤は幽閉される。総十郎は藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し京都に赴く。このとき朝敵藩出身である事を隠すために名前も「松本十郎」と改名した。
官軍の黒田清隆は、彼の才能を知り、開拓使に推薦する。
1869(明治2)年、開拓判官に抜擢され、同年10月に東京から移民団130人を連れて根室に入った。
アイヌも公平に扱い、彼自身もアイヌの住民から貰った「アツシ」と呼ばれる衣装を身に着けていたことから、「アツシ判官」と称されて敬意を払われたという。 1873(明治6)年、松本は黒田清隆に求められて開拓使本庁の大判官に任命され、根室から札幌に向かう。
ところが1875(明治8)年、樺太・千島交換条約が締結されて樺太のロシア帝国領編入が確定し、樺太のアイヌを北海道内陸部に強制移住させて農業開拓に利用しようと計画するが、本来の生業である漁業に従事させる事を主張して黒田と激しく対立する。
1876(明治9)年、黒田は松本を無視して強制移住させ、慣れない生活と疫病により多くの樺太アイヌが死亡した。
1876(明治9)年、7月辞表を提出して故郷鶴岡に帰郷し、以後松本は故郷にて一介の農民として生涯を送った。
晩年に自分の生涯を振り返って執筆した回顧録『空語集』140巻を著している。
余談ではあるが、松本十郎の孫、松本友氏が1940(昭和15)年〜1965(昭和40)年まで、北大第八農場の派出所長として、富良野に居んでいた。
富良野市博物館にそれにまつわる書物が展示されている。

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