本田親美顕彰碑住所 旭川市常盤公園内財団法人 旭川市公園緑地協会 社団法人 旭川観光協会 常盤公園内には、旭川の開拓に尽力し、石狩川流域発展の基礎を築いた功労者、本田親美の顕彰碑がある。 1891(明治24)年、7月25日それまで月形村にあった永山・神居・旭川の三村の戸長役場を永山に移した。 そのときの戸長が本田親美である。 1891(明治24)年、米作りに挑戦したが失敗する。 1892(明治25)年、戸長の本田親美と大隊長の和田正苗が、道庁から種子の斡旋を受け山口千代吉に明治米の試作を行う。20余束ほど収穫し、この成果を受け稲作を奨励するようになる。これが上川水田発祥の地となる。(旭川にはもう一つの上川水稲発祥の地がある) 1893(明治26)年、永山にあった戸長役場は旭川に移されることになり、春に建築を着工し同年8月に完成した。 初代戸長本田親美が2条10丁目で事務取扱を行っている。 この庁舎は、1921(大正10)年まで使用されたが、その後解体移築され、永山3条19丁目に復元されている。 当初は、神居・神楽・鷹栖・東川の役場を兼ねていたが、1900(明治33)年、旭川町役場となり、1905(明治38)年、3条8丁目に移転。 本田親美顕彰碑は、1925(大正14)年、に建立された。 本田親美(ほんだちかよし)とは、1847(弘化4)年12月 - 1909(明治42)年、東諸県郡高岡町(現・宮崎県宮崎市高岡町)の出身で、旭川地方の開拓に尽力した功労者。 戊辰戦争に参加し、1871(明治4年)年に近衛兵となった。 1885(明治18)年、陸軍御用掛として北海道屯田兵本部付となり、屯田兵招募官として永山屯田兵村の経営などにあたった。 その後、初代旭川戸長となり村政に尽力し、寒冷な上川で水田の試作にも成功した。 旭川市発展の基礎をつくり初代旭川町長となり1909年に63歳で亡くなった。 大きな地図で見る |