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岩村通俊像

住所 旭川市常盤公園内

財団法人 旭川市公園緑地協会

社団法人 旭川観光協会

1869(明治2)年、新政府に登用され、開拓使が置かれ聴訟司判事に任ぜられた。
函館府権判事開拓判官になり、1871(明治4)年、札幌の本府経営(開拓)を命ぜられる。
当時の札幌はまったくの未開の原野で、熊が出て人畜に被害がでた。
開墾は困難を極めたが、新市街形成の基礎を築いた。
このときすでに、彼は内陸部開発こそが最重要かつ急務であると確信し、高畑利宜に上川を調査させる。
1873(明治6)年、7月開拓使から佐賀県権令に任ぜられる。
1876(明治9)年、山ロ地方裁判所長に任命された。
1877(明治10)年、西南の役が起きる。通俊はこのとき鹿児島県令(今の県知事)になるところで赴任するところだった。
その後、元老院議官、会計検査院長を歴任。
1882(明治15)年、沖縄県令となった。
1884(明治17)年、司法大輔に昇任した。
1885(明治18)年8月、岩村通俊と屯田兵本部長永山武四郎らが石狩川奥地調査に来て、長谷部辰連・佐藤秀顕と共に、近文山頂に登り、広大な未開の上川平野を国見した。
1886(明治19)年、国見の碑を、吏員の白野夏雲に命じて建立させた。
その豊かな原野を前に上川開発の重要性を認識し、帰途・函館から「尊北京於上川議」(北京を上川におくの議)を内閣に送っている。
1886(明治19)年、北海道庁初代長官に就任した岩村は、この視察をもとに上川原野の開発を推進し、旭川の市街区画、道路開削など、開発の礎を創った。
全くの原野に現在の旭川市街地の設計を命じたのも彼であり、まぎれもなく旭川開基の祖である。
1938(昭和13)年、11月偉功を称えて旭川市が建立したが、大東亜戦争により1943(昭和18)年、7月応召。
1951(昭和26)年、10月コンクリートにより復旧するがその後崩れた。
1990(平成2)年、旭川の開基百年を記念して、再建され併せて碑も建立された。
歌碑
世の中に涼しきものは上川の
雪の上に照る夏の夜の月
   通俊


国見の碑(近文山)とは、上川地方最古の石碑。
国見の後、岩村通俊が建立を命じ、1886(明治19)年、札幌から丸木舟で運び人力で山頂まで上げた。
この時雇った上川アイヌが途中で放棄したという話も残っているそうだ。碑文は岩村自ら書いたもの。

岩村通俊(いわむらみちとし)とは、1840(天保11)年6月10日(7月8日) - 1915(大正4)年2月20日、日本の武士で政治家。
明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を歴任する。
位階勲等は正二位勲一等男爵。貫堂と号し、素水を俳号とする。
通俊の功績を称え旭川市の上川神社に祀られ、旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園に銅像が建立されている。

高畑利宜(たかばたけとしよし)とは、1841(天保12)年 - 1922(大正11)年、明治期における北海道開拓の功労者。
北海道内陸部(上川・空知)の開発に大きく貢献した。
1872(明治5)年、当時未開の地であった上川郡(石狩国)の調査を岩村通俊に命じられる。
約80日間、上川に滞在し調査した。

大東亜戦争(だいとうあせんそう)とは、日本(大日本帝国)がアメリカ合衆国やイギリス、中華民国などの連合国と行った戦争である。

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