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平和通買物公園

住所 JR旭川駅前から8条通に至る7丁目

hoccol旭川平和通買物公園

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
平和通買物公園は、旭川市のJR旭川駅前から8条通に至る、約1kmに渡る歩行者天国である。
1972(昭和47)年、6月1日に日本初の恒久的歩行者天国として開設された。


1900(明治33)年頃、旭川駅前から旭橋を経由して陸軍第七師団まで通じる道路は、「師団通」と呼ばれるようになっていった。
鉄道の開通と第七師団設置により、旭川の人口はこの頃から急速に増加しはじめた。
師団通における人馬往来も多くなり、旭川一のメインストリートに成長し、1906(明治39)年、師団通を上川馬車鉄道が開通、1919(大正8)年まで運行された。
1945(昭和20)年、8月15日第二次世界大戦の終戦に伴い、第七師団は解体され、同地に陸上自衛隊北部方面隊第2師団が配備され、「師団通」の名称は、同年10月、「平和通」と改められた。
1963(昭和38)年、五十嵐広三市長が旭川市長に当選して、1965(昭和40)年、平和通買物公園構想の立案計画を市政方針で発表した。
1969(昭和44)年、8月6日から17日までの12日間、歩行者天国(買物公園)化する社会実験が実施され、成功する。
この実験期間中、平和通では様々なイベントが連日開催され、アイヌ舞踊・郷土芸能・ゴーカート・模型電車・金魚すくい・ラーメン早食い競争・移動動物園・バンド演奏などの催しが開催されたそうだ。
その後計画は進み、平和通が国道・道道のまま恒久的な歩行者天国(買物公園)化は不可能ということとなり、1970(昭和45)年、5月平和通の全体延長約1kmのうち約500m(4条通〜8条通)が国道40号から市道に移管。1971(昭和46)年、5月平和通の全体延長約1kmのうち約500m(旭川駅〜4条通)が道道旭川停車場線から市道に移管された。
1972(昭和47)年、3月道路法に基づく歩行者専用道路として正式に公示され、同年4月から本格的な歩行者天国造成の工事が始まる。
通りの名称については「平和通買物公園」を付けることとなった。
そして、1972(昭和47)年、6月1日オープニングセレモニーが開催され、日本初の恒久的歩行者天国が誕生した。
その後、1998(平成10)年〜2002(平成14)年にリニューアル工事が行われ一新された。
店舗に面した左右幅4mを歩道とし、歩道の内側には植樹や照明灯等を配置。
歩道をロードヒーティングが連続的に設置され、以前の道路の名残である縁石による段差があったものを、バリアフリーの観点からリニューアル工事時に全面的に解消され、視覚障害者誘導用ブロックも設置された。
上空の電線も、電線共同溝(C.C.Box)方式により地中埋設化され、すっきりした景観の街並みとなった。


現在も、旭川市の商業の中心として多くの人が利用し、毎年8月には旭川夏まつりの市民舞踊パレード・大雪連合神輿連行等の会場、毎年2月には旭川冬まつりの会場の一つ「国際氷彫刻コンテスト」等を実施している。
旭川は芸術の街、彫刻の街ということもあり、平和通買物公園には多くの彫刻作品が配置されている。
『開拓のイメージ 作者中井延也』高さ約21mの鉄製彫刻。


『手 作者木内禮智』「手の噴水」として有名である。


『若い女 作者佐藤忠良』『サキソフォン吹きと猫 作者黒川晃彦』など

1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。笠原喜助によって永山村に笠原酒造店を創業。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付を開始するも失敗。
1892(明治25)年、旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。笠原酒造店が曙に酒造場を始める。
1897(明治30)年、旭川警察署開庁。上川郡役所を旭川に移転開庁。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1904(明治37)年、初代旭橋完成。
1906(明治39)年、旭川駅〜師団方面の馬車鉄道開通。
1908(明治41)年、旭川電燈(株)(現・北海道電力)、電力供給開始。
1912(明治45)年、レルヒ中佐が、旭川第七師団に訪れスキーを指導し、北海道のスキー発祥となる。
1922(大正11)年、市制施行。
1929(昭和4)年、第1回慰霊音楽大行進(現・北海道音楽大行進)開催。
1932(昭和7)年、石北線全線開通。現旭橋完成。
1936(昭和11)年、ロータリー完成。
1940(昭和15)年、国策パルプ工業(株)旭川工場操業開始。
1945(昭和20)年、師団通を平和通と改称。
1950(昭和25)年、北海道開発大博覧会開催。
1955(昭和30)年、神居村・江丹別村合併。
1963(昭和38)年、東旭川町合併。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。
旭川市史参考

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)、江戸時代後期の幕臣、探検家。
明和8年(1771年)、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、当時としてはかなりの学才の持主であった。
1790(寛政2)年、御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務する。
1798(寛政10)年、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。
4回にわたり蝦夷地(北海道)へ赴き、千島列島・択捉島を探検する。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入りを果たす。
その際、利尻島・上川・札幌周辺を探索する。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日、江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

岩村通俊(いわむらみちとし)とは、1840(天保11)年6月10日(7月8日) - 1915(大正4)年2月20日、日本の武士で政治家。
明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を歴任する。
位階勲等は正二位勲一等男爵。貫堂と号し、素水を俳号とする。
通俊の功績を称え旭川市の上川神社に祀られ、旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園に銅像が建立されている。

永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。
鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。
1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。
1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。
1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。
1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。
1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。
北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。
岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。

第2師団とは、陸上自衛隊の師団のひとつで、陸上自衛隊の中でも最新鋭の装備を有し、訓練の厳しさは自衛隊でも有数。
精鋭部隊としても知られており、「陸自の基準杭」「北鎮師団」(ほくちんしだん)とも呼ばれている。
旭川市に所在する師団司令部をはじめ、名寄・遠軽・留萌・上富良野に駐屯し、各種災害派遣・各市町村が主催する行事等にも協力している。
近年は、海外における国際平和協力活動でも活躍している。

第7師団とは大日本帝国陸軍の師団の一つで、1885(明治18)年に。北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された。
屯田兵を母体とし1896年(明治29年)5月12日に編成され、北辺の守りを担う重要師団であり、「北鎮部隊」と呼んでいたそうだ。

五十嵐広三(いがらしこうぞう)とは、1926(大正15)年3月15日 - 2013(平成25)年5月7日、旭川市出身の政治家で、実業家。
日本社会党所属の衆議院議員として、建設大臣、内閣官房長官を歴任し、政界を引退後は再び実業家として、地元旭川の会社の会長を務めている。
1943(昭和18)年、北海道立旭川商業学校を卒業、その後雑穀商・民芸会社・地方新聞社などを経営する。またアイヌ民族との親交も深いという。
1963(昭和38)年、37歳のとき、当時の社会党から旭川市長に立候補して当選し、全国最年少首長となった。
市長在任中は、日本初の歩行者天国である平和通買物公園や、旭山動物園を開設したことでも有名である。
旭川市長辞職後は、1975年、1979年と北海道知事選挙で立候補するも敗退。
1980(昭和55)年、第36回衆議院議員総選挙に日本社会党より出馬し初当選(旧・北海道2区)する。
1993(平成5)年、細川護熙内閣において建設大臣に就任。
1994(平成6)年、村山富市内閣の内閣官房長官に就任。
1996(平成8)年、政界を引退。
1997(平成9)年、勲一等瑞宝章を受章。


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