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鈴木亀蔵居住の地碑

住所 旭川市亀吉2条2丁目3 亀吉公園内

社団法人 旭川観光協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
国道12号線から住宅街の中に約350mほど進むと亀吉公園がありそこに碑が建っている。

18世紀になって、北海道の重要性に注目した徳川幕府は、この地に多くの探検隊を送り込んでいる。
1869(明治2)年、開拓使が設けられ、蝦夷地が北海道と改称し、11国86郡の行政区画が設定され、上川盆地一体は石狩国上川郡となった。
1885(明治18)年8月、後の北海道初代長官岩村通俊と屯田兵本部長永山武四郎らが石狩川奥地調査に来て、長谷部辰連、佐藤秀顕と共に、近文山頂に登り、広大な未開の上川平野を国見し、1886(明治19)年に国見の碑を、吏員の白野夏雲に命じて建立させた。
その豊かな原野を前に上川開発の重要性を認識し、帰途・函館から「尊北京於上川議」(北京を上川におくの議)を内閣に送っている。

鈴木亀蔵と聞けば旭川市民であれば知る人ぞ知る名前で、開村後の旭川創成期において、街の発展に尽力した旭川の功労者である。
1851(嘉永4)年、10月秋田県に人善兵衛の四男として生まれる。
20歳前後で渡道し、千歳郡漁(現・恵庭市漁町あたり)で漁場監察に従事する。
1872(明治5)年頃、和人・鈴木亀蔵がこの未開の原野に入り込んで上川アイヌと物々交換の交易を始める。(獣皮・鹿角・干鮭など)
1877(明治10)年、日高出身のアイヌ(イヤンパヌ)を妻として定住を始め忠別太(現・旭川市亀吉)に定住しているのである。
アイヌからは、カメキチと呼ばれ石狩川と忠別川の合流付近の中洲に住みつき、ここは亀吉島と呼ばれていた。
その後、十勝アイヌのシクンネを雇い、交易に当たる。
鈴木亀蔵が興した事業の代表として酒造りがあり、1890(明治23)年、鈴木亀蔵は、笠原喜助・喜八郎兄弟と共同で永山村に笠原酒造店を興している。
1891(明治24)年、旭川の曙に移転し本格的な酒造りを開始する。
このときに建てられた建物は、現在の日本醤油工業株式会社(キッコーニホン)、現・旭川市曙1条1丁目2−3で笠原酒造店がルーツとなる。
1928(昭和3)年、道内酒造業の合併で、日本清酒(株)旭川支店となる。
1944(昭和19)年、政府の指導により、醤油醸造への転換がはかられ、現在の日本醤油工業株式会社が設立され旭川最古の醤油醸造業として現在も営業している。
鈴木亀蔵は、この事業で財を成すと共に旭川が酒造りに適している事を立証することとなり、旭川は「北海の灘」と呼ばれるまでとなるのである。
公共事業にも出資するなど度々表彰も受けていたという。
1902(明治35)年、6月51歳で病死する。


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。笠原喜助によって永山村に笠原酒造店を創業。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付を開始するも失敗。
1892(明治25)年、旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。笠原酒造店が曙に酒造場を始める。
1897(明治30)年、旭川警察署開庁。上川郡役所を旭川に移転開庁。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1904(明治37)年、初代旭橋完成。
1906(明治39)年、旭川駅〜師団方面の馬車鉄道開通。
1908(明治41)年、旭川電燈(株)(現・北海道電力)、電力供給開始。
1912(明治45)年、レルヒ中佐が、旭川第七師団に訪れスキーを指導し、北海道のスキー発祥となる。
1922(大正11)年、市制施行。
1929(昭和4)年、第1回慰霊音楽大行進(現・北海道音楽大行進)開催。
1932(昭和7)年、石北線全線開通。現旭橋完成。
1936(昭和11)年、ロータリー完成。
1940(昭和15)年、国策パルプ工業(株)旭川工場操業開始。
1945(昭和20)年、師団通を平和通と改称。
1950(昭和25)年、北海道開発大博覧会開催。
1955(昭和30)年、神居村・江丹別村合併。
1963(昭和38)年、東旭川町合併。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。

笠原喜助(かさはらきすけ)とは、新潟県の出身で笠原喜助・喜八郎兄弟と鈴木亀蔵と共に笠原酒造店を興した旭川の功労者。

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)、江戸時代後期の幕臣、探検家。
明和8年(1771年)、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、当時としてはかなりの学才の持主であった。
1790(寛政2)年、御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務する。
1798(寛政10)年、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。
4回にわたり蝦夷地(北海道)へ赴き、千島列島・択捉島を探検する。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入りを果たす。
その際、利尻島・上川・札幌周辺を探索する。
1829(文政12)年6月16日(7月16日)死去。享年59歳。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日。
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

国道12号線とは、札幌市から旭川市へ至る一般国道で、総距離は156.8km。

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