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紅葉滝

住所 上川郡上川町層雲峡 赤石川上流部

層雲峡観光協会

上川町の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもので、1921(大正10)年に愛別村から分村する際、石狩川の上流であることから名付けた。
層雲峡の由来は、アイヌ語で「ソウウンベツ」(滝の多い川)と呼ばれていた。これにちなんで大町桂月が1921(大正10)年に層雲峡と命名。
ロープウェイ前の坂道を層雲峡プリンス朝陽亭方向に坂を上り、九十九橋を渡り、診療所跡を右に曲がると駐車場がある。


この辺りは層雲峡温泉の源泉で、あちこちにホテルの源泉の標柱が見える。地面を触ると温かく、冬でも雪が積もることはない。


石狩川支流にある赤石川上流部、紅葉谷入り口から徒歩で片道30分程度。片道700mほどの散策路になっていて奥には紅葉滝があり、隠れた名所として知られている。
赤石川のアイヌ語は、「シュマフーレベッ」(石・赤い・川)。
水源は、大雪山のお鉢平底部(標高1910m付近)が源で、全長は約10kmの河川で、上流部では硫化水素が出ているため、酸性度が極めて強く、その為に川石が赤茶けた色をしているのだそうだ。


天狗の引き臼岩という看板が建っている。
由来は童謡詩人、野口雨情が1927(昭和2)年、来層した時に詠んだ「ゆうべ夢見た層雲峡の夢を、天狗でなければ引かれない天狗の引き臼夢に見た・・・」という言葉から命名された。


紅葉台と言うだけあり、紅葉時期はとても綺麗だが、私が行ったのは11月の為紅葉は一切無しだったのは言うまでもない。
案内板の前の砂利道を山の方に向かって進み約1km弱、紅葉滝までは比較的整備された遊歩道で容易に行く事ができ、アップダウンがほとんどないが、登りの勾配がけっこうきつい。
四季を通して楽しむことができるが、冬はガイドが居ないと道に迷う可能性もある。ここは新緑の季節と紅葉の季節に行くのがいいだろう。




クマゲラ広場はクマゲラ(天然記念物)がいて、写真のような穴の開いた木を多く見かける。
これはクマゲラが穴を開け食事をした跡、クマゲラ広場は笹藪が広がっていて、夏場は虫が多い。


散策路は紅葉滝が終着点でこれ以上は上がれない。
紅葉滝は柱状節理の岩間を流れる美しい滝で、目測だが落差は15mほどだろうか。
水量は少な目ではあったが、距離があるのに飛沫が飛んでくる。
滝に近づくにつれ足元が滑りやすく足場が悪いので写真撮影には十分注意をして欲しい。
春は雪解け水で増水しているので特に注意が必要である。


柱状節理とは、岩体に発達した規則性のある割れ目で、マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じ垂直に発達する、断層とは違う。
柱状になった節理は、六角柱状のものが多く、中には四角柱・五角柱・七角形・八角形のものもある。

大雪山国立公園とは、北海道中央部にある日本最大の国立公園で、1934(昭和9)年12月4日指定された。
旭岳、北鎮岳、白雲岳、黒岳などの大雪山系や、十勝岳、トムラウシ山、石狩岳など2000m級の山々が連なる山岳公園。
総面積は22万haにおよび、南北63km、東西59kmと日本一の面積を誇る国立公園である。
1977(昭和52)年、3月15日特別天然記念物の指定を受けた。

大町桂月(おおまちけいげつ)とは、1869(明治2)年3月6日(1月24日)- 1925(大正14)年6月10日、詩人、歌人、随筆家、評論家である。
1869(明治2)年、高知市北門筋(現・高知県高知市永国寺町4-10)に元土佐藩士の息子として生まれる。
1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒業。
1899(明治32)年、島根県で中学教師となる。
1900(明治33)年、博文館に入社し、1906(明治39)年まで在籍する。
終生酒と旅を愛し酒仙と称され、晩年は遠く朝鮮、旧満州(現・中国東北部)まで足を延ばしている。
北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、道内各地を旅行し紀行文で紹介した。ちなみに大雪山系黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
1925(大正14)年、4月に蔦温泉に移り住むが、胃潰瘍のため死去、57歳。

野口雨情(のぐちうじょう)とは、1882(明治15年)年、5月29日 - 1945(昭和20)年、1月27日、日本の詩人、童謡・民謡作詞家。
茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)廻船問屋を営む長男として生まれる。
小学校を終了後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学するが、1年余りで中退して詩作を始める。
1904(明治37)年、故郷に帰り、家督を継ぐが詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表「雨情」の号を名乗ったのもこの頃。
その後家を出て、事業で一旗揚げる名目で樺太にわたるが失敗し東京に戻る。
1906(明治39)〜1909(明治42)年まで、北海道に渡って新聞記者となり、「小樽日報」に勤めた。しかし雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こし敗れ退社してしまう。
このとき「小樽日報」の同僚に石川啄木がおり、交友を結んだが、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わってしまう。
北海道の新聞社を転々とした後、1909(明治42)年、上京。
1919(大正8)年、詩集「都会と田園」で詩壇復帰。『枯れすすき』作詞、中山晋平に作曲依頼(のちの船頭小唄)「金の船」に童謡作品を発表。
1935(昭和10)年、日本民謡協会を再興し理事長となる。
1940(昭和15)年、全国各地を巡訪し、その地の民謡を創作した。
1944(昭和19)年、 栃木県河内郡姿川村鶴田(現・宇都宮市)に転居し、療養生活に入る。

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