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尾崎行雄碑

住所 上川郡上川町層雲峡大函

層雲峡観光協会

上川町の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもので、1921(大正10)年に愛別村から分村する際、石狩川の上流であることから名付けた。
層雲峡の由来は、アイヌ語で「ソウウンベツ」(滝の多い川)と呼ばれていた。これにちなんで大町桂月が1921(大正10)年に層雲峡と命名。
大函は、川の両岸が切り立った断崖に囲まれ、「大きな函の中に閉じ込められたような感じのする」ことから「大函」と呼ばれる。
国道39号線を層雲峡温泉から大函方面に約6km、大函トンネル手前にある。
以前は、大函・小函の遊歩道が整備され通る人も居たが、現在は閉鎖され歩くことは出来ない。
1927(昭和2)年、層雲峡に訪れ、地獄谷の自然石「天下の絶勝」と揮毫し短歌を詠んだそうだ。
1979(昭和54)年、10月建立するが、詳細は不明である。


尾崎行雄(おざきゆきお)とは、1858(安政5)年11月20日(12月24日) - 1954(昭和29)年10月6日、日本の政治家。
戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの日本記録を有することから「議会政治の父」と呼ばれている。
相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれで、幼名は彦太郎。
1868(明治元)年、、父に従い国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾で学んだ。
1871(明治4)年、一家も高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学んだ。
1872(明治5)年、度会県山田(現・三重県宇治山田)に引っ越す。
1874(明治7)年、上京し、慶應義塾童児局に入学する。このとき塾長の福澤諭吉に認められ、最上級生となるも退学してしまう。
1876(明治9)年、工学寮(現・東京大学工学部)に再入学するも一年足らずで退学。
その後、慶應義塾に戻り「民間雑誌」の編集に携わり、三田演説館で演壇に立つなどした。
1879(明治12)年、福澤諭吉の推薦で新潟新聞の主筆となった。
1881(明治14)年、統計院権少書記官という官職に就任するが2ヶ月で辞める。
1890(明治23)年、第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録を作った。
1898(明治31)年、隈板内閣において文部大臣として入閣、大抜擢だった。この頃から「政界の麒麟児」と言われるようになる。
1903(明治36)年〜1912(明治45)年まで東京市長に就任する。
1953(昭和28)年、第26回衆議院議員総選挙で落選して政界を引退、95歳まで現役を貫き名誉議員の称号を贈られる。

大雪山国立公園とは、北海道中央部にある日本最大の国立公園で、1934(昭和9)年12月4日指定された。
旭岳、北鎮岳、白雲岳、黒岳などの大雪山系や、十勝岳、トムラウシ山、石狩岳など2000m級の山々が連なる山岳公園。
総面積は22万haにおよび、南北63km、東西59kmと日本一の面積を誇る国立公園である。
1977(昭和52)年、3月15日特別天然記念物の指定を受けた。

大町桂月(おおまちけいげつ)とは、1869(明治2)年3月6日(1月24日)- 1925(大正14)年6月10日、詩人、歌人、随筆家、評論家である。
1869(明治2)年、高知市北門筋(現・高知県高知市永国寺町4-10)に元土佐藩士の息子として生まれる。
1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒業。
1899(明治32)年、島根県で中学教師となる。
1900(明治33)年、博文館に入社し、1906(明治39)年まで在籍する。
終生酒と旅を愛し酒仙と称され、晩年は遠く朝鮮、旧満州(現・中国東北部)まで足を延ばしている。
北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、道内各地を旅行し紀行文で紹介した。ちなみに大雪山系黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
1925(大正14)年、4月に蔦温泉に移り住むが、胃潰瘍のため死去、57歳。

国道39号とは、旭川市から網走市へ至る一般国道で、総距離は215.2km。

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