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石北峠

北の道ナビ

上川郡上川町と北見市を結ぶ国道39号線の峠で、最高地点の標高は1050m。
旧国名、石狩国と北見国を結ぶことからこの名がついた。
現在は、上川総合振興局とオホーツク総合振興局の管轄地域の境界線の一部となっている。
現在は、旭川紋別自動車道の整備が進み、利用する車が増えたこともあり、石北峠の利用は顕著な減少傾向である。
かつては交通の難所だったが、年々改良工事や、武華トンネルの新設により道路線形が改善されたが、内陸部で標高も高いために冬の気象条件は過酷で、現状でも北見側の勾配がきつく、冬の悪天時は通行止めなどの交通規制がされる場合があるのと、事故も多い。(シカとの衝突も多い)
また、峠の入口にあたる上川市街付近・留辺蘂市街付近・北見側の麓では、峠道の状況を知らせる道路情報ラジオ(1620kHz)が流されている。
頂上には駐車場・土産物屋・トイレ・展望台がある。
以前は、山頂付近の茶屋・土産物屋5軒の店舗があったが、2007(平成19)年8月28日に火災が発生。周辺市町村から遠く離れた峠だったため全店舗は焼失。消防車がたどりついた頃には燃え尽きたあとだったという。
現在では改築され、ソフトクリームや揚げいもなどを購入することができる。


峠頂上には、展望台がある。
北見側の展望を望むことができ、トドマツ・ダケカンバなどの樹海を眼下に、大雪山連峰・阿寒の山並みまでも望むことができる。


展望台手前には、尾崎天風の顕彰碑がある。
傲然と両手を背広の胸に突っ込んでいて、迫力ある面構え。
碑文には、前代議士であった尾崎天風が留辺蘂上川線開削に尽力したことに感謝し、1959(昭和34)年6月、上川町長野田晴男・留辺蘂町長佐野準一郎がこの像を贈ったとある。


樹霊供養の碑
洞爺丸台風で倒れた木々の供養の為建てられた碑。


尾崎天風(おざきてんぷう)とは、1886(明治19)年 - 1960(昭和35)年3月24日、衆議院議員に当選し、旭川と北見を結ぶ国道を実現させた。
鹿島町古枝中尾(現・佐賀県鹿島市古枝中尾)1886(明治19)年に生まれた。
上京し、報知新聞の記者となり「天風」の名で健筆を振るった。記者時代に購入した北海道の森林を元手に材を成す。
1898(明治31)年、北海道に渡り、常呂村・網走町で農業・木材業を営む。
1932(昭和7)年、衆議院議員選挙に北海道から出馬し当選、北見に本拠を置いた。
1916(大正5)年、尾崎天風釧路新聞通信所を設ける。
1920(大正9)年、北見国から札幌に進出し、「北海道報社」を「北海道新聞」(現在の北海道新聞とは無関係)と改称して経営する。
1960(昭和35)年、3月24日午前3時、東京都麻布の自宅で脳出血で死去、73歳だった。

ちなみに、1949(昭和24)年に発表された留辺蘂町を舞台にした中山正男の小説、「馬喰一代」、1952(昭和27)年に、大映で三船敏郎を主演に映画化された。
この小説の主人公である大平の父親「片山米太郎」の敵役で登場してくる、小坂六太郎のモデルがこの尾崎天風と言われているそうだ。

中山正男(なかやままさお)とは、1911(明治44)年1月26日−1969(昭和44)年10月22日、小説家で実業家。
北海道出身で、1933(昭和8)年陸軍画報社を設立、「陸軍画報」を発行。
中国戦線従軍記「脇坂部隊」で知られ、戦争を鼓吹、戦後公職追放となり、のち新理研映画社社長、日本ユースホステル協会会長を務めた。
小説が数々映画化された。

洞爺丸台風とは、1954年(昭和29年)9月26日に来襲した台風15号である。
この台風は九州地方、中国地方を上陸通過し、日本海へ抜け更に発達しながら北上し、函館港沖では洞爺丸事故を、岩内町では3300戸を焼失させる大火を引き起こし北海道を中心に多数の犠牲者を出した台風。
青函連絡船洞爺丸の遭難では1139名の犠牲者が出て、洞爺丸以外にも青函連絡船の4隻が沈没し、多数の犠牲者を出した。

国道39号とは、旭川市から網走市へ至る一般国道で、総距離は215.2km。

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