北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

鷹栖町水稲発祥の地碑

住所 上川郡鷹栖町10線1号1

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもの。
鷹栖の由来は、アイヌ語「チカップニ」(大きな鳥(鷹)の棲むところ(巣))、未開の地だった頃、トンビ・オオタカなどの大きな鳥が生息し、大空を沢山の鳥が舞っていたといわれ、その光景をみた人らが呼ぶようになったといい、意訳され「鷹栖」となった。
国道12号線(旭川新道)旭町2条20丁目・旭町1条21丁目交差点から近文墓地方向に入り直進、約2.5kmほどの交差点手前。

上川地方で水稲の試作にはじめて成功したのは、雨紛原野で造材夫をしていた青森県人の杉沢繁吉氏が、1891(明治24)年、「赤毛」の種もみを取り寄せ、5アール(五畝歩)を開田、27リットル(1斗5升)の収穫をあげたのがはじまりで、旧鷹栖村では1893(明治26)年、山崎千松が半面山麓ナイユ川の水で水稲試作に成功する。約2アール(二畝歩)を試作した。その後塩野谷辰造が近文2線1号で約12アールを試作した。
近文11線9号の山本又三郎は山崎千松の水稲試作を視察し1894(明治27)年に1町歩の水田を拓いたが灌漑水が少なくほとんど枯死してしまったという。1895(明治28)年、近文14線4号の田中市太郎が5アール(五畝歩)を試作するが、成果などは不明。
1898(明治31)年には村内の作付面積は約1.2haまでになった。
2011(平成23)年時点の鷹栖町水稲作付面積は2480haにもなる。

碑文
発祥の誌
鷹栖の稲作は、この地に始まる。
明治二十五年二月五日、開村をみた鷹栖村に、翌年、
十線一号甲に移住した岩手県団結移住団体員山崎千松
は三十歳の春、ようやく拓いた原始林中の澤水を利用
して、二畝(二アール)ばかりの水田を造り、札幌白
石の駒井覚助より譲り受けた種籾を、試作したのであ
った。幸い、この年は好天続きで、秋には豊かな稔り
を得ることが出来たのであった。
 この朗報は以後の移民に希望をあたえ、稲作への強
い願望は、明治三十四年、移住民有志による水利調査
会をつくり、灌漑溝路の測量を成し、三十五年、北海
道土功組合法の施行とともに、近文土功組合を創立す
るに至った。
 二畝の水田の試作からはじまり、以来水稲を基幹と
する村として繁栄し、百幾星霜、幾多の苦難を乗り越
えて、稔り豊かな六千余町歩(六千ヘクタール)の美
田を擁するに至った。
 ここに先人の苦難の歩みに、感謝の誠を捧げ、栄光
を讃え、さらなる世紀への発展を祈念し、
発祥之地の碑を建立する。
 平成十三年六月吉日
鷹栖町水稲発祥之地の碑建立期成会
会長 相澤良一

1797(寛政9)年、近藤重蔵筆写「蝦夷地絵図」にカモイコタン・チュクベツの記載あり。
1798(寛政10)年、幕府吟味役下僚3名が天塩川を遡り、峠を越えて石狩川を下る。
1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵が天塩川を遡り、山越えて石狩川を下り、忠別太に泊まる。
1857(安政4)年、石狩在勤足軽松田市太郎がチュクベツ(忠別太)番屋を基点に、石狩川を遡り大雪山に登る。雇吏松浦武四郎が上川を探検し、次いで手塩まで探検する。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1870(明治3)年、開拓使役人田中鋭次郎外が上川郡界を検分する。2月クーチンコロが食糧不足で困窮する人々に食料を与え助ける。
1872(明治5)年、開拓使掌高畑利宣が忠別太に草葺きの掘っ建て小屋を建て、上川の地勢、戸数等を調査する。滞在期間は三ヶ月。
1882(明治15)年、開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。上川郡は札幌の直轄となる。
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。 国見の碑を、吏員の白野夏雲に命じて建立させた。 その豊かな原野を前に上川開発の重要性を認識し、帰途・函館から「尊北京於上川議」(北京を上川におくの議)を内閣に送っている。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。
1891(明治24)年、4月近文原野に小暮粂太郎等埼玉県人が移住する。 市田重太郎がオサラッペに移住の決意をする。
1892(明治25)年、2月石狩国上川郡のうち石狩川右岸一帯を鷹栖村とした。
1893(明治26)年、1月鷹栖村は永山外4村戸長役場の所轄となる。6月旭川他3村戸長役場所轄に変更となる。山崎千松が半面山麓ナイユ川の水で水稲試作に成功する。第一岩手団体、第二岩手団体が移住する。1線1号で寺子屋開設。
1895(明治28)年、6月鷹栖戸長役場を1線9号に開設する。
1897(明治30)年、7月鷹栖村、永山村を分村し愛別村を設置。 11月上川支庁が開庁する。
1898(明治31)年、6月鷹栖神社を建立。後の北野神社。(北野天満宮創祀) 11月第七師団の位置を鷹栖村近文に決定する。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1902(明治35)年、4月字近文の一部、6号以南、近文台地以南、450戸を旭川町に編入する。6月鷹栖神社拝殿が新築落成。
1906(明治39)年、4月二級町村制施行、上川郡鷹栖村となる。上川郡比布村(現・比布町)が分村する。
1909(明治42)年、4月一級町村制施行。10月村内を8部に分け部長をおく。
1924(大正13)年、6月鷹栖村が東鷹栖村に改称、鷹栖村と東鷹栖と江丹別村を分村。
1954(昭和29)年、10月鷹栖村電気農協連発電所が完成する。
1958(昭和33)年、6月嵐山に酒井広治の歌碑を建立する。
1966(昭和41)年、1月北電旭川西変電所が操業開始。(鷹栖町8線西1号)
1968(昭和43)年、4月嵐山遺跡の発掘調査が行われる。
1969(昭和44)年、1月町制を施行し、鷹栖町となる。
1971(昭和46)年、3月東鷹栖町が旭川市に合併。
1972(昭和47)年、5月嵐山に「北邦野草園」を開設する。
1974(昭和49)年、12月北海道縦貫高速自動車道岩見沢〜鷹栖間が着工となる。
1985(昭和60)年、9月嵐山2遺跡の発掘調査が行われる。
1986(昭和61)年、5月嵐山2遺跡の発掘調査が行われる。北海道縦貫高速自動車道嵐山トンネル関連工事着工する。8月北海道縦貫高速自動車道深川〜鷹栖間の工事着工する。
1988(昭和63)年、7月本田技研工業(株)北海道寒冷地研究施設の鷹栖町立地が決定となる。11月鷹栖町が「オオカミの桃と健康づくりの町」で北海道まちづくり100選に選定される。
1990(平成2)年、10月高速自動車道「深川〜旭川鷹栖間」が開通する。
鷹栖村史、鷹栖町史参考

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)江戸時代後期の幕臣で探検家。
間宮林蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
江戸駒込(現・東京都文京区本駒込付近)に生まれる。山本北山に儒学を習い、17歳で私塾「白山義学」を開くなど幼児の頃から神童と言われた。
生涯書いた著作は、60余種1500余巻にものぼるという。
1798(寛政10)年、松前蝦夷地御用取扱となり4度蝦夷地(北海道)へ赴いている。
最上徳内と千島列島、択捉島を探検し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事し、高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させている。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷に上陸。利尻島や現在の札幌市周辺を踏査している。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日。
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

道央自動車道とは、函館市〜稚内市に至る予定の延長681kmの高規格道路(高速自動車国道)で一般的に道央道と呼ばれ、法定路線名は北海道縦貫自動車道である。
1971(昭和46年)年、12月北広島IC〜千歳IC間開通。
1972(昭和47年)年、9月北広島IC〜千歳IC間を4車線化。
1978(昭和53年)年、10月千歳IC〜苫小牧東IC間開通。
1979(昭和54年)年、10月札幌南IC〜北広島IC間開通。
1980(昭和55年)年、10月苫小牧東IC〜苫小牧西IC間開通。
1983(昭和58年)年、11月札幌IC〜岩見沢IC間開通。苫小牧西IC〜白老IC間開通。
1985(昭和60年)年、10月白老IC〜登別東IC間開通。10月札幌IC〜札幌南IC間開通。
1986(昭和61年)年、10月登別東IC〜登別室蘭IC間開通。
1987(昭和62年)年、9月岩見沢IC〜美唄IC間開通。
1988(昭和63年)年、10月美唄IC〜滝川IC間開通。
1989(平成元年)年、9月滝川IC〜深川IC間開通。
1990(平成2年)年、10月深川IC〜旭川鷹栖IC間開通。当初は暫定2車線として開通したが、2003(平成15)年に4車線化。
1991(平成3年)年、4月砂川SAに北海道内で初のハイウェイオアシスが開設。10月登別室蘭IC〜室蘭IC間開通。
1992(平成4年)年、9月札幌JCT開通により札樽道と接続。10月室蘭IC〜伊達IC間開通。
1994(平成6年)年、3月伊達IC〜虻田洞爺湖IC間開通。
1997(平成9年)年、10月虻田洞爺湖IC〜長万部IC間開通。
1998(平成10年)年、3月苫小牧東ICで日高道と接続。4月深川JCT開通により深川留萌道と接続。
1999(平成11年)年、10月千歳恵庭JCT開通により道東道と接続。
2000(平成12年)年、10月旭川鷹栖IC〜和寒IC間開通。
2001(平成13年)年、10月深川IC〜音江PA間の4車線化。11月長万部IC〜国縫IC間開通。
2003(平成15年)年、9月音江PA〜旭川鷹栖IC間の4車線化。10月和寒IC〜士別剣淵IC間開通。
2004(平成16年)年、3月比布JCT開通により旭川紋別道と接続。
2006(平成18年)年、11月国縫IC〜八雲IC間開通。
2009(平成21年)年、10月八雲IC〜落部IC間開通。11月黒松内JCT開通により黒松内新道(北海道横断道)と接続。
2011(平成23年)年、11月落部IC〜森IC間開通。
2012(平成24年)年、11月森IC〜大沼公園IC間開通。
2013(平成25年)年、8月新千歳空港ICが供用開始。

国道12号線とは、札幌市から旭川市へ至る一般国道で、総距離は156.8km。
Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system