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石川啄木宿泊の地

住所 旭川市宮下通8丁目左 西武B館エレベーター入口植込

社団法人 旭川観光協会

1908(明治41)年、1月20日石川啄木は、釧路に向かう途中旭川に寄り、当時、北海旭新聞社に勤めていた野口雨情を訪ねたが、留守のため駅前の宮城屋旅店に宿を取り、一泊する。
場所は、買物公園通りの西武B館エレベーター入口植込、分かりやすいが説明板があるだけ。
2012(平成24)年、4月13日旭川駅東口にある観光物産情報センター内に、石川啄木像・歌碑が建立された。
旭川の地で啄木は、五首の歌を詠んでいる。


乗合の砲兵士官の
剣の鞘
がちやりと鳴るに思ひやぶれき

名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿屋安けし
我が家のごと

伴なりしかの代議士
口あける青き寐顔を
かなしと思ひき

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
泊りし宿屋の
茶のぬるさかな

水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色


石川啄木(いしかわたくぼく)とは、1886(明治19)年、2月20日 - 1912(明治45)年4月13日)日本の歌人・詩人・評論家である。本名は、石川 一(いしかわ はじめ)。
1886(明治19)年、2月20日日戸村(現・盛岡市玉山区)の常光寺に父一禎、母カツの長男として生まれ「一」と名付けられる。
1902(明治35)年、10月1日「明星」に白蘋の筆名で初めて短歌一首が載る。
1907(明治40)年、5月5日に函館に移り松岡蕗堂の下宿に身を寄せる。
1907(明治40)年、8月25日焼失戸数12.390戸・死者8名・負傷者1000名・焼失町20町にもなる函館大火があり、函館を離れる。
1907(明治40)年、9月、札幌で『北門新報』の校正係となる。
1907(明治40)年、9月末、小樽に移り、『小樽日報』の記者となるが、12月には社の内紛に関連して退社。
1908(明治41)年、家族を小樽に残し、旧釧路新聞社に勤務するが、3月には上司への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決意をする。
1908(明治41)年、5月4日東京本郷に下宿。
1909(明治42)年、3月1日東京朝日新聞社校正係に採用され、6月16日妻子を迎え、住まいを本郷の喜之床二階に移す。
1910(明治43)年、12月1日歌集「一握の砂」刊行。
1911(明治44)年、8月7日小石川区久堅町へ転居。
1912(明治45)年、4月13日若山牧水に看とられて、啄木死去。

野口雨情(のぐちうじょう)とは、1882(明治15年)年、5月29日 - 1945(昭和20)年、1月27日、日本の詩人、童謡・民謡作詞家。
茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)廻船問屋を営む長男として生まれる。
小学校を終了後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学するが、1年余りで中退して詩作を始める。
1904(明治37)年、故郷に帰り、家督を継ぐが詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表「雨情」の号を名乗ったのもこの頃。
その後家を出て、事業で一旗揚げる名目で樺太にわたるが失敗し東京に戻る。
1906(明治39)〜1909(明治42)年まで、北海道に渡って新聞記者となり、「小樽日報」に勤めた。しかし雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こし敗れ退社してしまう。
このとき「小樽日報」の同僚に石川啄木がおり、交友を結んだが、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わってしまう。
北海道の新聞社を転々とした後、1909(明治42)年、上京。
1919(大正8)年、詩集「都会と田園」で詩壇復帰。『枯れすすき』作詞、中山晋平に作曲依頼(のちの船頭小唄)「金の船」に童謡作品を発表。
1935(昭和10)年、日本民謡協会を再興し理事長となる。
1940(昭和15)年、全国各地を巡訪し、その地の民謡を創作した。
1944(昭和19)年、 栃木県河内郡姿川村鶴田(現・宇都宮市)に転居し、療養生活に入る。

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