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旭川赤十字病院附属層雲峡診療所跡

住所 上川郡上川町層雲峡

層雲峡観光協会

ロープウェイ前の坂道を、層雲峡プリンス朝陽亭方向に坂を上り、九十九橋を渡ると診療所跡がある。
すぐそばには、紅葉台という広場があり、紅葉滝まで行ける散策路が整備されている。
以前は「第七師団衛戍病院層雲峡分院」だったそうで、1928 (昭和3) 年、荒井初一が私費を投じて建設し、第七師団に寄付した。
その後、1947(昭和22)年、6月旭川赤十字病院の附属診療所となり、1975(昭和50)年、6月2日増改築工事完了する。
閉鎖に関しては、1999(平成11)年辺りではないかという記載があるだけで町史にもその辺は載っていなかった。


建物の側には、療養所の開設に合わせて立てられた碑「第七師団転地療養所建設記念碑」がある。
碑文は藤光雲の揮毫で、漢文体でこの病院と周囲の開発状況が書かれており、療養所の建設や層雲峡の開発に功績があったとして、2人の軍人の名が刻まれている。
当時の第七師団師団長だった渡辺錠太郎、もう1人は第七師団参謀長をつとめ、歌人としても知られる齋藤瀏。
碑文
第七師團轉地療養所建設記念碑第七師團長陸軍中將正四位勲二等功五級渡邉錠太郎篆額
本轉地療養所の設定は大正四年の頃愛別村出身第七師團軍醫部二等軍醫植村秀一氏並びに當時新聞記者として
師團出入の鹽谷忠氏との主唱に其の端を發す
越えて仝九年十一月二十日溝口一等軍醫佐藤三等主計熊田技手は險を冒して之が調査に向いたるも地獄谷の
難所に大風雪の厄に遭い辛うじて見取圖を作製して引返したり
翌十年陸地測量部の一隊石狩川の上流大雪山地帯を實測せらるるを機とし鹽谷氏は班長稲田大尉らと共に本地
域を具に踏査し陸軍療養所として絶好の適地たるを確め時の内野師團長宮崎軍醫部長に進言力説して大いに其
の意を動かす所あり其の年十月四日溝口軍醫熊田技手は旭川営林區署長桑名技師の熱心なる助力に依り同署
員と共に再び現地に細密なる調査を遂げたり仍って鹽谷氏は荒井初一氏と協同し温泉經営の目的を以て曩に
道廰に提出したる本地の出願を放棄して専ら其の實現に助力し仝十三年九月十一日第七師團轉地療養所敷地と
して二萬三十四坪を道廰より第七師團に移管せられたるも之より先大正十二年九月關東大震災の影響は療
養所設置の促進に一頓挫を来したる折柄其の位置に關し登別温泉場との競争あり此の間又當敷地内温泉使用
を出願するもの續出し或いは道廰より起業計畫の急施を促さるる等内外の事態甚だ容易ならざるものとなった
茲に於て鹽谷荒井の両氏は深く之を憂い時の国司師團長齋藤参謀長宮崎軍醫部長と數次の折衝を重ね荒井氏
は師團の設計に依る療養所建物を寄付し及上川より療養所に通ずる道路橋梁開設費の巨額を負担することに
決し仝十五年三月宇垣陸相の指令を受く仝年九月陸軍省山田醫務局長現場を檢分し其の後渡邉師團長島参謀
長國友軍醫部長眞貝藤田両經理部長青木技師等の熱心なる努力により仝設計を了し昭和二年十月より熊田技
手監督の下に廣川清吉氏をして工事を實施せしめ療養所附近の道路橋梁は八木大尉の率いる工兵隊之を開
設し本年六月二十日工事全般の竣成を見るに至れり
寄附建物は病室其他附属舎一式二百二十坪之に上水道電燈浴場等の設備を加え總工費約四萬円を要したり
茲に其の竣工を告ぐるに方り記念の為め經過の概要を誌す
昭和三年六月二十一日建北海道廰上川支廰長従六位勲六等村上壬平撰文愚彿藤光雲書
建立日は、1928(昭和3)年6月21日


ここの紅葉台からみる景色もなかなか絶景です。


旭川赤十字病院とは、日本赤十字社北海道支部が運営する医療機関で、旭川市に位置する病院。
道の災害拠点病院の一で、救命救急センターを有し、地域医療支援病院の承認を受けている。
1923(大正12)年、12月現在地(旭川市曙1条1丁目)に、日本赤十字社北海道支部病院として移転。
1938(昭和13)年、10月旭川陸軍病院赤十字病院(陸軍衛生幇助病院)と改称。
1943(昭和18)年、1月旭川赤十字病院と改称。
1947(昭和22)年、6月附属層雲峡診療所を開設。(閉鎖日は不明)

渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)とは、1874(明治7)年4月16日 - 1936(昭和11)年2月26日、日本の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。
愛知県東春日井郡小牧町(現・愛知県小牧市)の出身で、19歳のときに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。
1894(明治27)年、12月陸軍士官候補生となる。
1895(明治28)年、7月陸軍士官学校入校。
1896(明治29)年、11月陸軍士官学校卒業。
1897(明治30)年、6月歩兵第19連隊付、少尉任官。
1899(明治32)年、11月中尉となる。
1900(明治33)年、12月陸軍大学校入校する。
1903(明治36)年、12月陸軍大学校首席で卒業、歩兵36連隊中隊長及び大尉となる。
1904(明治37)年、10月大本営参謀。
1908(明治41)年、12月少佐となる。
1913(大正2)年、1月中佐となる。
1916(大正5)年、7月大佐となる。
1920(大正9)年、8月歩兵第29旅団長及び少将となる。
1925(大正14)年、5月陸軍大学校校長及び中将となる。
1926(大正15)年、3月第7師団長となる。
1931(昭和6)年、8月軍事参議官兼航空本部長・大将となる。
1936(昭和11)年、2月26日二・二六事件で杉並区上荻窪の自邸で殺害される。

斉藤瀏(さいとうりゅう)とは、1879(明治12)年- 1953(昭和28)年7月5日、2.26事件で青年将校達に協力した陸軍少将で歌人。
明科押野(現・長野県安曇野市明科七貴上押野区)で生れた。
日露戦争に中尉として従軍後、1914(大正3)年第七師団大隊長として旭川に転勤。第七師団参謀として満州に渡る。
1920(大正9)年、三重県津に転勤する。
1921(大正10)年、第一歌集「曠野」を刊行。
1922(大正11)年、津から九州小倉に転任する。
1924(大正13)年、再び旭川第七師団に参謀長(大佐)として来任する。
1930(昭和5)年、陸軍少将で退役し、東京に移り住む。
1939(昭和14)年、歌誌「短歌人」を発行し、全国各地で講演する。

二・二六事件とは、1936(昭和11)年、2月26日から2月29日にかけて、大日本帝国陸軍内の派閥の一つである陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こし、首都の中枢部を4日間に渡って占拠するというクーデター未遂事件。
20歳代の隊付の大尉から少尉が中心で、大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校らは、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介(内閣総理大臣)・鈴木貫太郎(侍従長)・斎藤實(内大臣)・高橋是清(大蔵大臣)・渡辺錠太郎(陸軍教育総監)・牧野伸顕(前内大臣)の殺害を図った。
斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害した。
彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。
3月4日14時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。
叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名。
反乱将校たちの一部は自決し、大半の将校は投降して法廷闘争となった。
この事件後、参加部隊は満州に送られ、多くの戦死者を出した。
7月5日安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら17人に死刑判決が言い渡された。
7月12日村中、磯部を除く15人の死刑が執行された。
1937(昭和12)年8月19日北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の4人の死刑が執行された。

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