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永山屯田まつり

住所 旭川市永山3条20丁目 おまつり広場特設会場
毎年7月下旬または8月上旬の土・日曜日
駐車場 臨時駐車場なども設けられる。
永山屯田まつり

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
永山の由来は、1891(明治24)年、屯田兵により拓かれ、上川開拓の祖である永山武四郎の名前が付けられた。

永山屯田まつりは1987(昭和62)年より行われている祭りで、永山は1888(明治21)年、上川屯田の設置が決まり1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。
1891(明治24)年、7月永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸・屯田兵及びその家族2045名が入地し、今の永山の礎を築いたのである。
屯田兵の開拓により拓けたこの地で、先人の偉大なる功績を偲び感謝するとともに、貴重な文化遺産の保存、伝承に努める必要性から現在の屯田まつりとなったもので、永山商工会が主催し自治体などの協賛を受け開催されている。


祭りは二日間開催され、フリーマーケット・各種売店が出店。特設ステージでは市民歌謡祭、よさこい、もちまき大会などのイベントも開催される。
道内最大の9尺太鼓が見物であり、夜には屯山あんどん流しがあり、扇形をしたねぶたの様な色とりどりの山車と共に駅前通りの道路をエイヤサァ!と、威勢のよい掛け声で軽快な太鼓が練り歩く様は見ものである。
初日は、12時頃から主催者挨拶から始まり、吹奏楽演奏、バンド演奏、舞踊、屯山あんどんデモンストレーションなどが行われる。

2日目は、11時頃からよさこいソーランの演舞、空手演舞、太鼓演奏、屯山あんどん流しなどが行われる。

永山屯山太鼓
設立は、1996(平成8)年
永山屯田まつりなどで、九尺太鼓・五尺太鼓等の演奏で祭りに彩を添え、他の地域イベントも参加し盛り上げている。
この九尺太鼓は、北海道で一番大きな太鼓といわれていて、屯田まつり10回目を記念して作られたもの。
胴は樹齢250年の秋田杉を使用、前後の皮は道内産和牛一頭ずつ使用している。



永山屯田太鼓保存会  
地域に根ざす芸能太鼓を作ろうと1983(昭和58)年発足、当時の人数は8名でのスタートだった。
現在は40名ほどに増え、永山神社祭、永山屯田まつりなど各種イベントに出演し、郷土芸能の普及と保存をすすめている。









屯山あんどん流し
上川総合振興局〜永山駅〜お祭り広場まで練り歩く。
山車は25基、扇形をしたねぶたの様な色とりどりの山車と共に駅前通りの道路をエイヤサァ!と、威勢のよい掛け声で軽快な太鼓が練り歩く様は見ものである。



永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。
鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。
1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。
1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。
1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。
1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。
1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。
北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。
岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。

屯田兵とは、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士と部隊の総称。
1870(明治3)年、11月開拓使が提案し、ついで西郷隆盛が1871(明治4)年、士族による北方警備と開拓を主唱する。その後開拓次官の黒田清隆が1873(明治6) 年11月に太政官に屯田制を建議。太政官は黒田の提案に賛成し、1874(明治7)年屯田兵例則を定め、1875(明治8)年5月札幌郊外の琴似兵村への入地で屯田が開始された。
初期の屯田兵募集は原則として士族が対象だったが、後に士族原則が取り払われ平民も屯田兵に志願できるようになる。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練・午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われ、家族にも厳しい規則が強いられていた。
新たな入植は1899(明治32)年上川、士別で終わり、彼らが後備役に入った1904(明治37)年に屯田兵制度は廃止となった。


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