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松浦武四郎宿営地 アベシナイ

住所 中川郡中川町字安川三
中川町観光協会FB

中川町

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
安川の由来は、アイヌ語の「アベシナイ」(我々の沿って下る川)に漢字をあてたもので、安平志内川からとったもの。旧字名は「安平志内」この川の河口付近にはアイヌの集落があった。
国道40号線道道118号美深中川線のT字路付近から伸びる山道を登った安川自然公園内(国有林内)にあるが山道は荒れている。

1857(安政4)年、幕末の探検家・松浦武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口からハママシケ(浜益)を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形でポロヌプ(幌延)、(オヌプナイ)雄信内、(ポンピラ)中川、(オトイネプ)音威子府、(ピウカ)美深と歩き、(ナイプト)名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、ペンケヌカナン(現・朝日町の御科三線)源流近くまで到達した。天塩日誌には当時の天塩川流域の様子や、アイヌの風俗・習慣なども描かれている。
 6月10日、ホロヒリブト(歌内橋上流付近)から出発し、ヘンケクンネシリ(左山)、ハンケナイフト(左川・パンケナイ川からピンネシリ山、マチネシリ山を経て頓別川上流から浜頓別にでる道筋)、マアシウシナイ(左川)、ヘンケナイヒタラ(左川)この辺りは平地である。テウトヒラタ(洲)ここに人家があり、レウタンケ(家族2人)、トイノタフにはエユシカ(家族8人)が住んでいる。ここを過ぎてトッホ(左川)を上がると渕があり、ユウベ(チョウザメ)が群れをなしていて気味が悪かったと書いてある。
トイオマナイ(左川)、ベンケトイオマナイ(左川)、サツコタン(右川、中川町佐久)、オフユシケ(右川)、アベシナイ(右川、中川町安川、安平志内川)に来た。今日の行程は凡そ八里。ここには人家3軒あり、エカシユ(家族3人)、カネアンホ(家族3人)、ラフン(家族2人)が住んでいた。
しかしどの家もひどく傷み朽ちかけている様子にビックリする。武四郎は北海道で一番貧しい場所のようであると書いている。

11日、アヘシナイを夜明けを待ち出発。トンベツホ(音威子府頓別坊・ベンケオニサツベ)へと進んでいく。
文章は、丸山道子訳・松浦武四郎著「手塩日誌」を優先し参考としています。

中川町では唯一の宿営地を示した説明板だが、時間がなく国道からの撮影となった。
小高い丘は安川自然公園で、麓から続く山道を上り詰める(片道10〜15分程度)と山神碑と古い東屋が二棟ある。大きい東屋のほうに松浦武四郎宿営地の説明板がありアベシナイと書かれている。ちなみに入り口には看板は無いので分かり難い。
この公園は佐久地域と安川地域の住民の公園となっているが、現在は人がほとんどあがることはないようである。山頂には1m位の三角錐の石がある。「山神」と刻まれているようで、この石は自然石を三角錐にし、1921(大正10)年9月に建立されたもの。

ちなみに当時のアイヌの集落があった場所は、国道40号線と道道118号美深中川線のT字路付近から安平志内川の河口辺りまでで、5〜6軒の小屋があった。この場所は、安平志内川に沿って下ってきたアイヌが、天塩や美深に行くときの交通上重要な場所でもあったようである。しかしここのアイヌもあとから移住してきた和人の圧迫に耐えかねてそこから上流部の知良志内川の沢奥に入り、1921(大正10)年頃まで住んでいたが、昭和初期まで残っていたのは加藤イソモンコロだけだったという。
中川に最初に入植したのは北村恭助で、1896(明治29)年には入地していたようである。
安川に最初に入った入植者は、御料地の貸付が開始されると小泉由太郎が1903(明治36)年に入植した。その後1906(明治39)年に前久作、川西由太郎、長谷川浦三郎、丸山四郎次、1907(明治40)年に12戸と増えていった。
官設のアベシナイ駅逓が開設されたのは、1907(明治40)年3月アベシナイ(現・安川三)と遠富内(現・大富)に官設駅逓所が認可される。駅逓の取扱人は北村恭助。この駅逓は安川三の高台にある学校の沢にあった。この駅逓には支庁長や戸長という役人が主に宿泊したようで一般の人などは、高木徳次郎の旅館に泊まったようである。1922(大正11)年、11月天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、アベシナイ(現・安川三)、遠富内(現・大富)の官設駅逓所が廃止となるまで安川三は各種商店などもあり栄えていた。



1797(寛政9)年、松前藩士高橋壮四郎等西蝦夷地を調査し、天塩川を遡り石狩川にでる。
1798(寛政10)年、幕吏三橋藤右エ門等4名が宗谷探検の帰路に天塩川を遡り石狩にでる。
1800(寛政12)年、間宮林蔵が函館に来ていた伊能忠敬と師弟の約を結び、普請役雇となり、測量技術を学ぶ。
1803(享和3)年、間宮林蔵が東蝦夷地、南千島の測量をした。
1805(文化2)年、遠山金四郎が西蝦夷地を巡察する。
1807(文化4)年、近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1811(文化8)年、間宮林蔵が天塩川を遡って実測をする。
1821(文政4)年、中川郡・上川郡は天塩場所に属する。幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、西蝦夷地増毛以北の漁民の出稼ぎを許可する。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、6月佐倉藩士窪田子蔵・佐治岱次郎・佐波銀次郎等三人を派し、子蔵等は函館を発して西海岸を北上して宗谷に到る。その後北海道を一周して帰った記録を日記体の報告書「協和私役」として残した。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川を遡り天塩国上川郡、中川郡を踏査する。旧暦6月7日天塩出発、9日ホロビリブト(パンケ築堤下流)に1泊、10日アヘシナイに1泊し美深方向に向かう。
1858(安政5)年、松浦武四郎が6回目の蝦夷地探査をする。蝦夷地のほぼすべての全ての海岸及び道東地域の内陸部である十勝、阿寒、日高地方の河川などを巡る。
1869(明治2)年、8月蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。
1871(明治4)年、8月天塩・上川・中川一帯は水戸藩から開拓使に引き継がれる。
1872(明治5)年、9月宗谷支庁に天塩国の6郡と北見国の宗谷・利尻、礼文、枝幸の4群を含む。10月8日宗谷支庁中主典佐藤正克らが天塩川を遡り上川郡と中川郡の調査をし、天塩川の水源や北見、石狩国へ抜ける道を探査するため越年調査をし、闢幽日記を著した。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1875(明治8)年、3月留萌支庁が廃止となり、札幌本庁の管轄となる。宗谷に開拓使出張所を置く。
1880(明治13)年、3月増毛、留萌、苫前、上川、中川6郡を管轄する、留萌外5郡役所が開庁しその治下に入る。
1881(明治14)年、留萌外5郡役所が増毛に移り、増毛郡役所が開庁しその治下に入る。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。天塩村に「天塩郡天塩村・遠別村・幌延村・沙流村・中川郡、上川郡戸長役場」設置する。
1883(明治16)年、大村耕次郎が天塩川流域のアイヌの戸籍調査をする。
1886(明治19)年、1月三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。中川・上川・天塩の3郡戸長役場を苫前に移す。同役場の派出所を天塩村に設置する。
1880(明治13)年、天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1889(明治22)年、横山壮次郎が地質調査の為天塩川を遡り、石狩川上流に至る。
1896(明治29)年、5月中川・上川・天塩の3郡戸長役場を天塩村に設置する。北村恭助がアシベナイに居住する。
1897(明治30)年、6月上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の4村を加える。中川郡に下名寄村を加える。10月中川・天塩の御料地1万1121haを官有地から編入する。中川・上川郡は増毛支庁に所属する。
1898(明治31)年、野村猪太郎がトートムオマナイ(現・田村川、大富の起源となった川)に居住する。
1900(明治33)年、中川・天塩両郡御料地の1万1121haが北海道庁から引き渡しを受ける。中川御料地の区画測量に着手する。
1901(明治34)年、4月天塩国中川郡(下名寄村)を増毛支庁から分離し、上川支庁に編入し「剣淵外4ヶ村戸長役場」となる。貝瀬権八と畦内安次郎がトートマナイ(遠富内(現・大富))に入地する。
1902(明治35)年、4月剣淵外4カ村戸長役場を分離し、多寄・上名寄・下名寄の「三村戸長役場」を上名寄(現・名寄市)に置く。9月三村戸長役場庁舎(現・名寄市大通り1丁目)完成する。
1903(明治36)年、11月御料地貸付開始される。宮内省御料局札幌支庁臨時天塩派出所を誉平(現・中川町誉)に設置する。この年をもって中川町の開基とする。
1906(明治39)年、3月私立同志教育所(簡易教育所の前身)が誉平(現・誉)に設置される。4月「中川村」(現在の音威子府村を含む)の名称誕生。上名寄村外3ヶ村戸長役場(上名寄・多寄・下名寄・中川)となる。5月遠富内(現・大富)に簡易教育所設置する。9月誉平(現・誉)に簡易教育所設置する。11月宇戸内(現・歌内)に簡易教育所設置する。12月仁尾(現・豊里)に簡易教育所設置する。
1907(明治40)年、1月歌内簡易教育所開校する。仁尾の特別教授場が安平志内簡易教育所(安平志内48線)として開校する。3月上名寄・多寄の2村を割き、「下名寄村外3ヶ村戸長役場」が現在の美深町に設置され、下名寄村1ヶ村戸長役場が設置。中川村はこの役場の管轄となる。アベシナイ(現・安川三)、遠富内(現・大富)に官設駅逓所が認可される。6月下名寄村1ヶ村戸長役場開庁する。「東北帝国大学農科大学天塩演習林誉平看守所(現・北大中川研究林)」が設置される。
1908(明治41)年、1月「宮内庁御料局札幌支庁臨時天塩派出所」が廃止され「帝室林野管理局札幌支庁中川出張所」が設置される。上川営林区署天塩分署として「誉平森林監守駐在所」が設置される。仮定県道天塩線(現・国道40号線)が中川村に敷設される。古川西蔵が遠富内(現・大富)で水稲を試作する。
1909(明治42)年、5月誉平、安平志内、遠富内の各簡易教育所が、尋常小学校に昇格する。貝瀬権八が製材を始める。
1910(明治43)年、4月志文内特別教授所が設置される。9月中川神社として小祠が建立される。
1911(明治44)年、遠富内(現・大富)にでんぷん工場ができ、馬鈴薯の作付けが増える。板谷宮吉氏が、国有林開地1303.6haの売払を受ける。
1912(大正元)年、4月中川村に戸長役場が開庁する。9月アベシナイ(現・安川三)に官設の渡船場が開設される。11月天塩線(現・宗谷本線)恩根内〜音威子府駅間が延伸開業し、咲来駅、音威子府駅を新設する。
1913(大正2)年、10月ホロムイ(現・神路)、チラシナイ(現・富和)に渡船場開設する。
1914(大正3)年、9月志文内特別教授所が志文内簡易教育所となる。11月音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。
1916(大正5)年、4月常盤村(現・音威子府村)が分村する。11月中川村農会が発足し、上川郡農会に加入する。志文内簡易教育所が志文内尋常小学校となる。ピンネシリ(敏音知)街道が完成する。
1917(大正6)年、3月天塩線音威子府〜誉平間工事が着工する。4月志文内尋常小学校板谷特別教授場が開校する。
1919(大正8)年、4月二級町村制が施行され「中川村役場」となる。中川神社の拝殿を建立する。
1920(大正9)年、誉平、佐久両市街の区画測量が行われる。
1922(大正11)年、11月天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。 アベシナイ(現・安川三)、遠富内(現・大富)の官設駅逓所が廃止となる。
1923(大正12)年、9月誉平小学校、役場庁舎が新市街に移転する。 11月手塩線の誉平〜問寒別間が延伸開業し、宇戸内駅(現・歌内駅)、問寒別駅を新設する。
1924(大正13)年、1月名寄出張所に編入の中川村に所在する御料地は、内務省に所管換えとなり、旭川営林区署天塩分署となる。12月加藤平三郎が蒸気機関による動力木工場をはじめる(現・三箇産業(株)の前身)。
1926(昭和元)年、10月板谷に官設の駅逓所が設置される。
1930(昭和5)年、5月「志文内尋常高等小学校稚遠別特別教授所」が、ワッカウエンベツ(現大和)に開設される。10月遠富内(現・大富)、志文内(現・共和)に酪農組合が設立する。
1931(昭和6)年、12月ワッカウエンベツ道路開鑿される。ワッカウエンベツ官設駅逓所が設置される。
1932(昭和7)年、歌人斎藤茂吉氏が来村(共和地区)し歌を残す。
1934(昭和9)年、3月中川神社の本殿・拝殿・社務所を建立し、11月村社への昇格を承認される。
1940(昭和15)年、5月天塩川治水工事が着工する。
1941(昭和16)年、1月村内字名改正により14字名となる。
1943(昭和18)年、6月三箇金太郎加藤木工場を引き継ぎ三箇産業KK天塩中川工場となる。
1945(昭和20)年、中川変電所建設する。
1946(昭和21)年、12月中川市街に初めて電灯がつく。
1950(昭和25)年、11月役場庁舎が改築される。
1951(昭和26)年、7月宇戸内から歌内に駅名を変更する。誉平から天塩中川に駅名を変更する。
1953(昭和28)年、中川市街簡易水道が完成する。 天塩川切り替え工事完了。
1958(昭和33)年、第二次さけます増殖5ヶ年計画により、富和地区に「さけます捕獲場」が設置される。
1959(昭和34)年、4月中川左岸築堤工事着工する。中川市街でテレビ放送が始まる。
1960(昭和35)年、6月佐久築堤工事着工する。7月さけます捕獲施設完成する。
1961(昭和36)年、7月モーターバイク試験場竣工する。国道40号音威子府〜中川間の改良工事着工する。12月共和部落に電気が通る。
1962(昭和37)年、12月大富に電気が通る。
1963(昭和38)年、8月「水産庁さけますふ化場中川事業場」が中川二に設置される。
1964(昭和39)年、1月歌内に電気が通る。5月町制が施行される。 6月開拓60周年記念式典が挙行。
1965(昭和40)年、7月神路小学校が廃校となる。神路地区が無人となる。
1967(昭和42)年、中川ハイヤーの営業を開始する。9月国営開拓パイロット事業基本計画樹立地域の指定を受ける。国道40号線音威子府〜中川間舗装工事が完了する。ますのすけの孵化事業始まる。
1970(昭和45)年、8月ますのすけがはじめて天塩川を遡上し捕獲される。9月国営開拓パイロット事業が着工する。
1971(昭和46)年、1月国府一、国府二が合併し国府となる。4月過疎地域に指定される。
1973(昭和48)年、5月中川町保健センター(現・ポンピラアクアリズイング)がオープンする。6月「中川商業高等学校」が北海道に移管される。11月郷土資料館が完成する。12月中央小学校中川分教室、歌内分教室、大富小学校、国府小学校が閉校となる。
1974(昭和49)年、クビナガリュウ化石が発見される。
1977(昭和52)年、役場庁舎が移転する。郷土資料館が開館する。
1978(昭和53)年、斎藤茂吉来町記念歌碑が建立される。
1983(昭和58)年、森林公園が完成する。
1986(昭和61)年、北海道さけますふ化場中川事業場が新築される。役場庁舎が改修される。中川町自然公園が整備される。
1988(昭和63)年、第1回道北丸太押し相撲大会が開催される。
1991(平成3)年、2体目のクビナガリュウ化石が発見される。
1993(平成5)年、新保養施設「ポンピラアクアリズイング」がオープンする。
1996(平成8)年、オートキャンプ場「ナポートパーク」がオープンする。
2002(平成14)年、中川町エコミュージアムセンター「エコールなかがわ」がオープンする。
2003(平成15)年、「道の駅なかがわ」がオープンする。中川町100周年記念式典が挙行。
中川町史参考


マップの点は、山道の入り口付近。
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