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第三橋梁

住所 苫前郡羽幌町曙

羽幌町観光協会

羽幌町の市街地から、国道232号線を初山別方面に向かい、築別から道道356号線を東に約10km行くと曙がある。
1940(昭和15)年、築別炭砿開抗し、採炭始まる。羽幌炭鉱鉄道株式会社設立、羽幌炭鉱鉄道の工事着手。
1941(昭和16)年、羽幌炭砿鉄道開通する。国鉄羽幌線、羽幌〜築別間開通する。
当時羽幌炭鉱鉄道は、旧羽幌線築別駅から大きくカーブを描き内陸へ向けて直線的に向かっていた線路跡は現在農道として使用されている。
築別川両岸の山が迫り狭窄部に至ると、蛇行する築別川を3回渡河し、三毛別川が合流する曙へ至っていた。
途中の曙集落からさらに築別川上流へ向けて走ると築別炭鉱、また三毛別川に沿って暫定開業していた名羽線を借用し羽幌炭鉱に至っていた。
また、上羽幌鉱からは、索道を用いて羽幌本鉱へ運び選炭の後、出荷されていったのである。
当時は、羽幌も市制を目指すほど賑わっていた時代。当時の羽幌炭鉱鉄道は、スキーのジャンプや野球などで実業団チームを持つほど実力のある大企業だった。
1970(昭和45)年、羽幌炭鉱鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。
ここは、国鉄線ではないので廃止後の撤去作業はほとんど行われていないのだろう。
国道のすぐ脇に古びた橋梁が3箇所残っているのを簡単に確認でき、この橋は曙市街側に架かっているのである。
1940(昭和15)年に開始された鉄道敷設工事は、第一次世界大戦の真っ只中、鋼材不足で物資をそろえるのが困難な時代であったため、中古品を各地から集めてきて作ったことを物語るかのように、橋桁や橋脚の作りがそれぞれ異なっているのが興味深い。
レールの刻印には、1907年と1913年製とあり、100年前のレールが現存していることになる。
現在は、羽幌観光協会が、炭鉱遺構を観光資源として見直し、炭鉱遺構を巡るツアーを催したり沿岸ハイヤーでも案内してくれるそうだ。


1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマンにより調査が行われる。
1888(明治21)年、北海道庁が築別川炭層を調査する。
1894(明治27)年、苫前村から羽幌村が分離、行政区域として羽幌村が設置される。
1896(明治29)年、羽幌原野に福井・富山県から約400戸団体移住者入植、上羽幌へも数人が入植する。
1897(明治30)年、羽幌村戸長役場が設置される。(苫前村戸長役場から独立)、岡田佐助が馬そりにて露頭部より約1万tを採掘する。
1900(明治33)年、羽幌原野に官設渡船場(二ヵ所)設置。
1902(明治35)年、二級町村制施行、羽幌村役場と改称。
1903(明治36)年、羽幌・築別原野道路開削。
1908(明治41)年、吉尾松二・14名の名羽線踏査隊、羽幌から名寄へ。
1909(明治42)年、羽幌村に一級町村制施行。
1914(大正3)年、築別御料に三毛別炭坑発掘。
1916(大正5)年、佐藤寅吉による稲の試作が始まる。
1921(大正10)年、町制施行、羽幌町となる。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線着工する。
1931(昭和6)年、古賀六郎に羽幌炭鉱開発の実地調査を命じる。名寄から名羽線踏査スキー隊来町する。
1932(昭和7)年、国鉄羽幌線(羽幌迄)開通する。
1938(昭和13)年、羽幌鉄道が築別 - 築別炭礦間および曙 - 上羽幌間の鉄道敷設免許申請。
1939(昭和14)年、太陽産業株式会社の築別炭砿開発始まる。
1940(昭和15)年、築別炭砿開抗し、採炭始まる。羽幌炭鉱鉄道株式会社設立、羽幌炭鉱鉄道の工事着手、築別 - 築別炭礦間17.2km鉄道敷設免許。
1941(昭和16)年、羽幌鉄道と羽幌炭礦が合併し、羽幌炭礦鉄道に改称する。羽幌炭礦鉄道築別 - 築別炭礦間16.6km、羽幌炭砿鉄道開通する。
1946(昭和21)年、ベントナイト採堀するが、まもなく中止。
1947(昭和22)年、羽幌二坑(上羽幌)の開発着手する。
1948(昭和23)年、羽幌本坑(三毛別)の開発着手、二坑を合併し三毛別に羽幌砿業所設置する。
1949(昭和24)年、曙 - 三毛別間4.0km構外側線敷設認可(のちに工事中止)
1950(昭和25)年、築別炭鉱でストライキ起こる。
1953(昭和28)年、羽幌町の人口が2万人超える。
1955(昭和30)年、4月1日天売村を編入する。
1956(昭和31)年、石炭年産50万t突破する。
1958(昭和33)年、日本ベントナイト工業設立。
1959(昭和34)年、4月1日焼尻村を編入する。名羽線、羽幌 - 朱鞠内間51.2kmが国鉄工事線となる。
1960(昭和35)年、豪雨のため羽幌鉱地区水害発生。
1962(昭和37)年、名羽線起工式挙行。国鉄名羽線(曙〜三毛別間3.9km)完成し、羽幌炭礦鉄道動力車による非営業線運送開始。羽幌本坑に第2選炭場完成。石炭年産100万t達成する。
1964(昭和39)年、羽幌町の人口3万人突破。
1965(昭和40)年、羽幌本坑に運搬立抗完成する。
1966(昭和41)年、羽幌ダム完成。
1968(昭和43)年、年間出炭量が114万tになる。
1970(昭和45)年、羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。12月15日羽幌炭鉱鉄道廃止実施。
1971(昭和46)年、上羽幌小中学校廃校。
1974(昭和49)年、上羽幌、上流・下流部落合併する。
1978(昭和53)年、羽幌二股ダム完成。
1981(昭和56)年、国鉄名羽線工事凍結。
1982(昭和57)年、緑の村開村する。
1987(昭和62)年、3月30日に羽幌線廃止。国鉄における最後の路線廃止であった。
1997(平成9)年、羽幌100年記念式典を行う。緑の村閉村。
2000(平成12)年、羽幌緑の村閉鎖する。

羽幌炭礦鉄道とは、苫前郡羽幌町に鉄道路線を有した民営鉄道で、羽幌炭鉱から産出される石炭を搬出するために建設された鉄道。
1941(昭和16)年に開通したが、1970年の炭鉱閉山とともに廃止された。
羽幌炭鉱(築別炭鉱、羽幌坑、上羽幌坑)のあった苫前炭田では、1895(明治27)年に生保内弥助が2鉱区を設定する。
1896(明治29)年、岡田佐助に譲渡、1897(明治30)年、岡田佐助が馬そりにて露頭部より約1万tを採掘する。
当時は、適切な運搬手段がなく、大規模な開発には至らなかった。
1918(大正7)年、鈴木商店(日商岩井の前身)が一帯の鉱区を買収した。
1931(昭和6)年、同社傍系の太陽曹達が所有し、1939(昭和14)年太陽産業株式会社として開発に着手した。
戦後は上羽幌坑と羽幌坑(三毛別)の開坑により出炭量が増加して沿線人口も増えた。
1962(昭和37)年には工事中の国鉄名羽線(羽幌 - 朱鞠内間51.2km)のうち、軌条工事が完了した曙 - 三毛別間3.8kmで国鉄非営業線運送という異例の取扱いにより運炭列車が走った。
1969(昭和44)年にはディーゼル機関車を導入している。
出炭量は年産100万トンを超え、国内有数の優良鉱として近代化も進んでいたが、1970(昭和45)年9月1日、会社は札幌地方裁判所に会社更生手続開始申立書を提出した。
1970(昭和45)年、羽幌炭砿鉄道株式会社閉山(設立から30年で幕を閉じる)急激な人口減少。羽幌炭鉱鉄道廃止。

国道232号とは、稚内市を起点とし、留萌市を終点とする一般国道である。

道道356号築別炭砿築別停車場線とは、羽幌町内を結ぶ一般道道で、起点は苫前郡羽幌町字築別炭砿、終点は苫前郡羽幌町字築別。

名羽線とは、名寄と羽幌を結ぶ予定だった路線で未成線である。
路線の目的は名寄と羽幌の連絡であるが、実際は羽幌炭坑鉄道の曙から深名線の朱鞠内の鉄道として建設されていた。羽幌〜朱鞠内(51.2km)
工事着工は、1962(昭和37)年、完成間近には炭坑は閉山され、全長3225mの苫竜トンネルを含む路盤の80%以上が完成していた。

第一次世界大戦とは、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。

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