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音威子府村澱粉工場発祥之碑

住所 中川郡音威子府村字咲来

音威子府村

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
音威子府の由来は、アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)または(濁りたる泥川)(漂木の堆積する川口)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからで、こうした濁り川にはイトウがいるので名づけられた。「音江根布」と当初は書かれたが、駅が設置され現在の名に変わった。
咲来の由来は、アイヌ語の「サク・ル」(夏の通り道)。駅が設置されたときに漢字をあてた。この咲来の温泉がある地区は古くは止若内と言われていた。
止若内の由来は、アイヌ語の「ヤム・ワッカ・ナイ」(冷たい・水の・川)に漢字をあてたもので、1977(昭和52)年、7月字の区域変更が行われ、字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来となった。
音威子府市街地から美深方向に国道40号線を約7.2km進み、天塩川温泉の看板から右折、JR北海道の天塩川温泉駅を過ぎ左折、道なりに進み天塩川を渡った突き当たりのカーブにある。住民保養センター 天塩川温泉の手前から左手に側道を進むと天仰の松がある。

1904(明治37)年、開拓が始まる。常盤駅逓所(現・咲来地区)の開設、長村秀が取扱人になりこの地に移り住み、これが音威子府村の開基となった。
住民保養センター 天塩川温泉の裏の道路わきに設置された碑。
このあたりは、1909(明治42)年に御料地の貸付がはじまった。この年の入植は岡田春治、石川友太郎が、1910(明治43)年には桝井五平、服部寛蔵、十川国一、山田相松、中尾助蔵、山口又市、山口長八、佐々木駒吉、今野鶴松、佐藤忠治、合田吉太郎、松井権右衛門らが入植した。
この地区は、地味肥沃ではあったが西側の山が迫り日照時間が少ないことと、天塩川の対岸だったこともあり、渡船場を渡らなければならない不便な土地であった。1962(昭和37)年には吊り橋が架橋され、1971(昭和46)年には永久橋が架橋され、1973(昭和48)年には天塩川温泉も開発された。
咲来地帯では、入植当時の換金作物といえば菜種が主であったが、傾斜地では防虫菊が耕作されている。大正時代には大半が馬鈴薯と豆類となり、でんぷん製造が盛んになった。
澱粉工場としては、1912(大正元)年に北線の入り口(現・音威子府川出口付近で現在は築堤で残ってない)付近に川上小馬次が馬回し式の小規模な工場を建てて製造したのが始まりである。
1913(大正2)年止若内(ヤムワッカナイ)の、岡田春治、山田寛一郎が水車式、上北部で松本貞七が水車式、下北部では山下徳一、中谷半次郎が馬回し式の工場を建設し製造した。
1915(大正4)年下北部(咲来八線)に野田繁造、山下徳市、渡口善松が共同で蒸気式による澱粉工場を建設したが、操作のミスで噴出した蒸気で犠牲者もでたようである。
大正末期には、動力として重油発動機が利用されるようになり馬回しの工場は減少した。上音威子府地区では1935(昭和10)年頃まで馬力の工場が残っていたようである。
昭和初期には、工場の数が60を超えたようであるが、小規模な工場が大半だったようで、水車式が水力タービンに代わった工場もあったが、澱粉工場が電力を使うようになったのは戦後のことだという。

常盤鉱泉が、1912(大正元)年頃、(村史には大正初年とある)桝井五平によって発見され、常盤鉱泉として北海道から許可をもらったこともあり、この頃から、この辺りは栄えていたと思われる。
宇山勘助がこの鉱泉水の調査を「日本赤十字社北海道支部病院橋本孝治に依頼した結果、薬効があることがわかり道庁の許可を受けて「常盤鉱泉」として飲用薬として発売した。
今では数件の民家がある程度でその頃の名残はない。


沿革
大正初期音威子府北線に川上小馬次氏
が、翌年止若内に山田相松、岡田春次
両氏共同により、それぞれ「馬回し式」
澱粉工場を操業したのがはじまりであ
る。その後、馬鈴薯全盛時代となり
「馬回し式」「水車式」又は「蒸気式」
後に「水力タービン式」「油類発動機」
等各種の時代を経て、八十数ヶ所工場と
も言われる操業を見たのですが、昭和
三十三年、農業経済安定のため、農協
が現在の合理化工場を、建設したので
あります。
今後、本村の主幹作目馬鈴薯の生産発
展のため、本年度種子馬鈴薯貯蔵庫の
設置を機会に、先輩諸氏の労苦を偲び
記念碑を建立した次第です。
昭和五十五年十一月吉日
常磐農業協同組合
組合長理事 吉田豊


1797(寛政9)年、この年編纂された松前地並西蝦夷地明細記で、「ヲトヱ子フ」と表記されている。当時はテシホ場所に属していた。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を訪れ、音威子府村筬島(おさしま)付近でアイヌの長老の元に宿泊、アイヌと深い交流のあった松浦武四郎は、蝦夷地を命名する際に「アイヌの国」と意味する「カイ」を入れ「北加伊道」という名を提案、これがのちに「北海道」となった。現在音威子府村筬島(おさしま)には、北海道命名の地碑がある。
1897(明治30)年、官有地から「御料地」に編入される。
1903(明治36)年、農地を「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。
1904(明治37)年、開拓が始まる。常磐駅逓所(現・咲来地区)の開設、下名寄村から長村秀がこの地に移り住み取扱人になり、これが音威子府村の開基となった。
1905(明治38)年、御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植。富山県人下村鉄太郎外5名が入植する。
1912(大正元)年、11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置された。
1914(大正3)年、11月音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。
1916(大正5)年、中川村(現・中川町)から分村し、咲来市街地に戸長役場を置き、中川郡常盤村となる。
1917(大正6)年、役場庁舎落成する。
1919(大正8)年、二級町村制施行する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、止若内、茨内、音威子府、のちに上音威子府が加わる。11月名寄機関庫音威子府分庫設置。
1921(大正10)年、10月宗谷本線を宗谷線に改称。名寄機関庫音威子府分庫が音威子府機関庫となる。
1922(大正11)年、11月宗谷線を宗谷本線に改称。天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。
1926(大正15)年、9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。
1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。
1956(昭和31)年、咲来地区に簡易水道完成する。
1959(昭和34)年、音威子府地区に簡易水道完成する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。
1963(昭和38)年、常盤村から音威子府村と改称する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、上物満内、止若内、茨内、音威子府、上音威子府。音威子府市街の舗装、水銀灯完成する。
1965(昭和40)年、開村50周年記念式典挙行する。
1967(昭和42)年、天理ケ丘スキー場完成する。
1971(昭和46)年、第1期総合計画を策定、天塩川温泉の建設、音威富士スキー場整備などを行う。
1977(昭和52)年、7月字の区域変更と廃止後の字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来に、上物満内を物満内に、茨内・ヌプトモマナイ・ルベシュペ区画外・チセネシリ・セタオマナイを音威子府に変更、上音威子府はそのまま。
1978(昭和53)年、6月名寄機関区音威子府支区廃止。筬島小学校跡に彫刻家・砂澤ビッキがアトリエを構えた。
1981(昭和56)年、「森と匠の村」を標榜した第2次計画を実施。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承。
1989(平成元)年、5月天北線全線廃止。宗谷バスに転換。
1990(平成2)年、5月音威子府駅舎改築。
2006(平成18)年、人口が1000人を割り込む。
音威子府村史・音威子府村史本編上巻参考

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