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士別市日向保養センター日向温泉

住所 士別市多寄町4098
TEL 0165-26-2021
営業時間 10時〜21時(受付終了は20時30分)
定休日 毎月第2火曜日(変更有)
入館料 中学生以上450円・小学生は220円・幼児無料
駐車場 無料

日向温泉FB

士別観光協会

士別の由来は、アイヌ語の「シペッ」(大いなる川・または本流、親川)の意味で、母なる天塩川がこの地の発展の源であった。 2005(平成17)年9月朝日町と合併し士別市となった。 読みが同じ標津町と区別するため「名寄士別」と呼ばれる。
多寄の由来は、アイヌ語の「タイ・オロ・オマ・ペツ」(森の中に入る川)または「タヨロマペッ」(林の中にある川)が転訛したものである。
日向の由来は、1900(明治33)年に貴族院議員の日向三右衛門氏が天塩川左岸一帯の払い下げを受け日向農場を開設したことによる。
国道40号線の多寄市街地から名寄方向に約1.1km(多寄神社)を左折し、西に約1.7km進み、道道976号西風連士別線を約3.6km進んだ左手。

この温泉は、1900(明治33)年に山形県出身の日向三右衛門が、天塩川左岸に日向農場を作り、1909(明治42)年に田口善治郎が、日向農場近くの天塩川西岸に湧き出していた硫黄鉱泉を発見。原田市太郎氏が木造二階建ての旅館を建てて多寄村30線西6号の天塩川沿岸に沸かし湯の温泉宿がを建設したことに始まる。しかし1913(大正2)年に焼失した。
1963(昭和38)年地元の有志が鉱泉を活用するため、道立衛生研究所に依頼し、鉱泉分析調査を行った。温泉は摂氏12度、水量は毎分5リットル、効能もあることが分かり、吉泉ヨシノ氏が無償で温泉の管理を引き受けた。1971(昭和46)年日向温泉簡易休憩所が完成し無料で開放した。
1978(昭和53)年冷泉を動力送水し沸かし湯の温泉を建設しオープンさせた。
2013(平成25)年1月老朽化した施設を壊し、新たに建てなおし「士別市日向保養センター日向温泉」としてリニューアルオープンした。
和風と洋風の浴室があり、日替わりで男女が入れ替わる。食事のみの利用もOKとのこと。食堂は11時〜20時30分(LO20時)。
高温風呂・低温風呂・水風呂・サウナがある。

泉質は単純硫黄泉(弱アリカリ性冷鉱泉)。
源泉温度 12.6℃、PH 7.3、源泉温度が低いため「加温・消毒・循環・濾過」をしている。
効能 糖尿病、しもやけ、にきび、痛風等、リューマチ、神経痛、高血圧症、脳卒中、病後回復、ストレス解消など。

1979(昭和54)年5月温泉の下側に日向森林公園が造成され、面積は32ha。キャンプ場・バンガロー5棟・炊事場・散策路の整備・桜の植樹1200本・アスレチック23基・管理棟1棟など1億3600万をかけてオープンした。
しかしキャンプサイトは傾斜しており適地が少ないのが残念である。
営業期間 5月10日〜10月15日まで
定休日 期間中無休
キャンプサイトは無料・バンガローは要予約

同年12月には、日向スキー場8haが整備され、ナイターも楽しめる。

多寄地区は、1897(明治30)年6月多寄村が出来る。江戸期のフウレプ・風連別川・タヨロマ川流域の開拓地をもって成立するが当初は村域は確定していなかった。それ以前は増毛郡の所管であった。松浦武四郎が著した「丁巳日誌」には「タヨロマ」とある。佐藤正克が著した闢幽日記には「曽テ紋別ノ土人仁太郎ト云フモノ来住スル所ト云ふ、又渓流アリフウレベツト云フ、タヨロマヲ過クル頃日漸ク没ス、乃チ西岸ナル茅舎ニ宿ス」とある。
 1897(明治30)年6月に士別村が設置され、剣淵村、士別村、多寄村、上多寄村、下多寄村が手塩村戸長役場の治下になる。1899(明治32)年植民地区画が実施される。5月増毛支庁の管轄から上川支庁管轄となる。役場も手塩村から剣淵村外3ヶ村戸長役場となる。7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、これが士別の開基となり、7月多寄村という村名を告示する。1900(明治33)年貸与が始まり小島政吉が入植する。山形県出身の日向三右衛門が、天塩川左岸に日向農場を作1901(明治34)年には水稲の試作を行い収穫を見たようだが詳細は分からない。1902(明治35)年4月剣淵戸長役場から、多寄、上名寄、下名寄が分離し、上名寄外2ヶ村戸長役場を上名寄村に設置する。久松栄作氏が団体長として25戸入植。その後33戸まで増えた。1903(明治36)年天塩線(後の宗谷本線)9月士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。入植者が増加した。上多寄簡易教育所(後の多寄小学校)開設する。この頃多寄駅周辺に15軒ほどの商店が開業し、市街地を形成した。1904(明治37)年中多寄簡易教育所(後の中多寄小学校)開設する。1908(明治41)年粘土客土により泥炭地改良を行い、水稲の増産を見た。1909(明治42)年3月上名寄と多寄村の仮定区域を定め、上名寄村風連別が多寄村に編入される。4月二級町村制施行し、多寄村となる。大字は編成しなかった。世帯数は1398戸、6458人。田口善治郎が、日向農場近くの天塩川西岸に湧き出していた硫黄鉱泉を発見。原田市太郎氏が木造二階建ての旅館を建てて多寄村30線西6号の天塩川沿岸に沸かし湯の温泉宿を作る。
 1913(大正2)年多寄土功組合が設立され、灌漑溝の整備が進んでいく。原田市太郎の旅館が焼失した。1914(大正3)年の第一次大戦による好景気で、澱粉、亜麻での成金者が出るほどだった。1920(大正9)年多寄市街地が大火にあう。1921(大正10)年頃からは不況に転じ、水田に転換する者が多かった。
 1938(昭和13)年4月風連村を分割。多寄村が分村独立し、多寄村は一級町村制施行する。1954(昭和29)年7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。多寄は多寄町となった。世帯数は719戸、4422人。1960(昭和35)年頃からは圃場整備事業による農業基盤整備が進められた。1961(昭和36)年には多寄簡易水道の給水を開始する。1963(昭和38)年地元の有志が鉱泉を活用するため、道立衛生研究所に依頼し、鉱泉分析調査を行った。温泉は摂氏12度、水量は毎分5リットル、効能もあることが分かり、吉泉ヨシノ氏が無償で温泉の管理を引き受けた。1971(昭和46)年小学校の木製の浴槽を払い下げてもらい有志の協力を得て、日向温泉簡易休憩所が完成し無料で開放した。1973(昭和48)年頃からは日向公園の天塩川対岸(士別市多寄町31線辺り)に白鳥の飛来が見られ、餌付けや環境整備を行いピーク時には3000羽にも上った。1978(昭和53)年12月士別市、市内5農協、森林組合らが約1億1千万の出資により冷泉を動力送水し沸かし湯の温泉を建設しオープンさせた。1980(昭和55)年1月日向スキー場オープン。6月日向森林公園オープン。1983(昭和58)年士別森林組合から士別市に事業主体を変更する。1987(昭和62)年には多寄俳句教室の句碑を62基建立。
 その後も句碑は増えて2005(平成17)年には109基まで増えた。2013(平成25)年1月には、老朽化した施設を壊し、新たに建てなおしたもので「士別市日向保養センター日向温泉」としてリニューアルオープンした。


1798(寛政10)年、7月幕命により三名が手塩川筋を調査するため遡る。
1857(安政4)年、6月幕吏松浦武四郎が手塩川筋を遡り調査する。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1889(明治22)年、北海道庁の地質調査隊が手塩川を遡る。
1897(明治30)年、6月士別村が設置される。(剣淵村、士別村、多寄村、上多寄村、下多寄村)手塩村戸長役場の治下になる。
1898(明治31)年、5月宮城県人の大内勇記が深川より入植し、開拓の草分けとする。7月道庁技手佐々木五次郎が、屯田兵移住地区画設定のため士別に来る。北海道庁の河川調査隊が石狩川を遡り、剣淵水源に出る。9月河南政次郎が家族とともに入植する。10月屯田兵施設建設工事着工する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁の管轄から上川支庁管轄となる。役場も手塩村から剣淵村外3ヶ村戸長役場となる。7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、これを士別開基とする 。10月士別尋常小学校が開校。
1900(明治33)年、5月新潟県人富山虎三郎率いる12戸が川南に入植。これが上士別村開拓の祖となる。下土別へも入植があった。7月士別郵便局が開設される。8月天塩線(現・宗谷本線として和寒〜士別間が延伸開業し、剣淵駅、士別駅を新設する。 山畑源蔵が兵村大通で水稲はじめて試作。
1901(明治34)年、温根別への入植はじまる。4月下名寄を加え剣淵外4ヶ村戸長役場となる。この頃温根別伊文3線沢にて砂金の採取が行われる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場から、多寄、上名寄、下名寄が分離し、上名寄外2ヶ村戸長役場を上名寄村に設置する。9月士別村戸長役場設置、神田藤三郎宅を借りて戸長役場を開設した。
1903(明治36)年、4月大通り東3丁目に士別村戸長役場庁舎を竣工する。9月手塩線の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。士別市字士別御料農地区画が貸し下げになり開拓が始まる。(1線〜9線)朝日町の開基となる。
1906(明治39)年、4月士別村2級町村制施行される。中川村が上名寄3ヶ村戸長役場の治下となる。士別座が西1条5丁目に開設される。 この頃養蚕が盛んになりハッカ、亜麻も栽培。
1907(明治40)年、1月マッチ製造株式会社士別製軸所が操業する。2月帝国製麻士別工場が操業開始する。3月多寄に市街地が形成される。下名寄、中川の2村が分離して、上名寄外1ヶ村(多寄)となる。
1909(明治42)年、10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 3月上名寄と多寄村の仮定区域を定め、上名寄村風連別が多寄村に編入される。4月二級町村制施行される。11月この頃銭湯が開業する。本通37号(現・士別市朝日町中央4051)で水稲の試作が行われる。(朝日町の水稲の始まり)
1910(明治43)年、7月ペンケ殖民地(乙1線)に入植始まる。12月御料地3線に奥士別駅逓所が設置される。
1913(大正2)年、2月温根別にて砂金掘り盛んとなる。4月上士別村が士別村より分村独立する(戸数1004戸)。御料地市街(現・朝日町市街地)の貸下げが始まる。9月上士別村役場庁舎竣工する。
1915(大正4)年、士別村に一級町村制が施行される。11月士別町制施行される。
1917(大正6)年、11月士別役場新築落成する。(西2条4丁目)御料地25線にニイサマップ駅逓所が設置される。
1919(大正8)年、5月天塩川が氾濫し、開村以来の大水害となる。8月士別軌道株式会社設立。11月手塩水力電気株式会社操業する。
1920(大正9)年、6月士別軌道株式会社が士別〜上士別間に馬車鉄道を運行する。
1923(大正12)年、4月上士別村が一級町村制施行。
1925(大正14)年、上士別〜奥士別間に馬車鉄道開通する。
1926(大正15)年、4月上士別村と境界変更し、中士別12線以東を分割する。5月川西めん羊組合が設立される。 東士別土功組合により、かんがい溝開削がはじまる。
1927(昭和2)年、10月剣淵村を分割し、温根別村が分村独立する。12月士別にタクシーが現れる。同時に人力車が消えた。
1928(昭和3)年、9月馬車鉄道の動力が蒸気機関車になる。
1929(昭和4)年、8月九線神社が5線に移され糸魚神社となる。(現・朝日神社)
1930(昭和5)年、5月士別森林鉄道敷設工事が奥士別を起点に着工する。士別〜温根別間のバス運行開始する。10月温根別に電燈点く。
1931(昭和6)年、ペンケヌカナンブ移民地(三栄地区)の入植始まる。新奥士別移民地(茂志利地区)の入植始まる。
1934(昭和9)年、産業組合(農協の前身)発足。
1936(昭和11)年、10月明治製糖株式会社士別工場(現・日甜)操業開始する。
1938(昭和13)年、4月風連村を分割し、多寄村が分村独立し、多寄村は一級町村制施行。
1945(昭和20)年、9月戦後開拓者12戸63名ペンケ中の沢に入植する。
1946(昭和21)年、東洋製綿工場が操業。 東士別土功組合、甲子土功組合が上士別村土功組合(その後、昭和26年に上士別土地改良区に改称)と合併する。
1948(昭和23)年、6月自家水力発電により似峡地区に電燈が点く。7月士別町開基50周年記念式典挙行。士別、上土別、中士別、多奇、温根別農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、6月士別電報電話局開設される。8月朝日村、上士別村から分村独立し、朝日村が誕生。10月朝日似峡間にバス運行開始。
1951(昭和26)年、12月天塩川電源開発期成会が結成され、岩尾内ダム建設陳情に乗り出す。
1952(昭和27)年、5月北日本農産工業株式会社(デイジー食品工業株式会社の前身)設立する。10月道北製酪協同組合(森永乳業士別工場の前身)設立する。士別〜朝日間道路冬期間の除雪が行われるようになり、バスが通年運行になる。
1954(昭和29)年、7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。9月市制施行記念式典挙行。
1955(昭和30)年、4月デイジー食品工業士別工場操業。10月士別飛行場設置される。
1957(昭和32)年、8月士別郷土研究会が発足する。森永乳業士別工場操業。 板見でん粉工場の製品が全国でん粉品評会にて農林大臣から賞状を授与され、朝日村の名を全国に知らせる。
1958(昭和33)年、士別市立図書館開館する。昭和砂鉄鉱業株式会社による剣淵川の砂クローム採鉱が開始。7月つくも市場開店する。
1959(昭和34)年、7月中央市場開店する。駅前広場造成される。11月道道101下川愛別線、朝日〜愛別間開通する。12月バス路線全線通年運行となる。若林服装研究所(後の若林服装女学院)開校する。
1962(昭和37)年、10月道道61号士別滝の上線が開通する。
1963(昭和38)年、38年度国家予算に、岩尾内ダム実施設計書が計上され、岩尾内ダム建設工事着工される。
1967(昭和42)年、3月似峡小中学校が廃校となる。7月岩尾内ダム建設起工式挙行。天塩川上流総合かん排事業着工。12月つくも水郷公園造成着工。
1969(昭和44)年、8月屯田兵屋を士別神社境内に復元保存する。オーストラリアからサフォーク種めん羊百頭導入。
1970(昭和45)年、11月岩尾内ダム方水路にゲートが下ろされ湛水開始する。
1972(昭和47)年、7月上士別町13線南2にて5〜6千年前と思われる居住跡地が発見される。11月道道101下川愛別線、朝日〜下川間開通する。12月森永乳業士別工場閉鎖となる。
1976(昭和51)年、6月少年自然の村を上士別遺跡近くに開村。7月SLをつくも水郷公園に保存。8月第一回手塩川祭り開催。9月温根別ダム工事着工。
1978(昭和53)年、1月天塩岳道立自然公園に指定される。西條士別店オープン。7月屯田兵屋と上士別遺跡を士別市文化財として指定する。
1980(昭和55)年、1月日向スキー場オープン。6月日向森林公園オープン。
1981(昭和56)年、7月士別市立博物館落成。翌年屯田兵屋を博物館に移転する。
1983(昭和58)年、6月ポンテシオ発電所運転開始。10月天塩岳ヒュッテ完成。
1984(昭和59)年、10月岩尾内湖展望台完成。トヨタ自動車(株)士別試験場第一期工事完成。
1986(昭和61)年、3月温根別ダム竣工。
1988(昭和63)年、1月トヨタ自動車士別試験場の竣工式を挙行。8月天塩岳避難小屋完成。
1991(平成3)年、10月天塩岳避難小屋にトイレ完成。
2000(平成12)年、12月岩尾内湖白樺キャンプ場管理棟完成。
2005(平成17)年、1月士別市、朝日町合併協定に調印する。9月1日士別市と合併し、士別市となる。
2009(平成21)年、デイジー食品工業士別工場が閉鎖となる。
士別市史・新士別市史参考・平成15年発行の「郷土史たよろ」参考


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