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岩見の一本松

住所 苫前郡苫前町岩見

苫前町

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」toma-oma-i(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
古丹別市街から国道239号を幌加内方面に約2km進んだ古丹別川の橋の手前を右に入り、さらに約1km進むと牧草地の中に松の木が立っている。
「岩見の一本松」と呼ぶこの木は、苫前町岩見地区に立つイチイ(オンコ)の木で、樹齢800年以上、高さは12m、直径100cm。
このイチイの木は、1896(明治29)年に古丹別原野に本州より開拓者が団体入植したときから確認されているそうで、町民から親しまれている。
この松は1974(昭和49)年3月、北海道自然環境等保全条例に基づき、記念保護樹木に指定、さらに1980(昭和55)年9月には苫前町の記念樹に指定された。
苫前町岩見地区は、1896(明治29)年に奈良県や伊勢地方、北陸各県から入植した先人たちにより開墾の鍬が入れられ、1995(平成7)年に開拓100年記念式典を挙行した。


紀元前6000年頃、苫前町に人が住み始める。
紀元前800年頃、香川3線(遺跡)に集落ができる。
1634(寛永11)年、トママイ交易場所開かれる。
1670(寛文10)年、この年に書かれた「寛文拾年狄蜂起集書」に「ともまい」の地名がある。
1804(文化元)年、運上屋を建てる。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が初めて苫前を訪れ宿泊。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再度訪れる。
1858(安政5)年、苫前に一泊した翌日、古丹別川を遡り、イシカルンクシナイに止宿。(現・岩見付近)
1859(安政6)年、庄内藩の支配地となり陣屋を置く。
1864(元治元)年、大絵馬を奉納される(苫前神社に現存)
1876(明治9)年、子供たちに読み書きを教え寺子屋発祥となる。
1880(明治13)年、 3村(苫前村・白志泊村・力昼村)の長役場を苫前村に設置された。
1894(明治27)年、苫前郡苫前村が白志泊村を編入、苫前郡羽幌村(現・羽幌町)を分村する。
1896(明治29)年、古丹別原野に本州より団体移住する。
1897(明治30)年、苫前村の戸長役場が羽幌村戸長役場を分離する。
1902(明治35)年、苫前郡力昼村(りきびる)を編入、二級町村制、苫前郡苫前村となる。
1915(大正4)年、一級町村制施行される。留萌〜苫前間に乗合馬車が走る。三毛別羆事件が発生し7人犠牲になる。
1922(大正11)年、留萌−羽幌間乗合自動車営業始まる。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線建設工事着工。
1928(昭和3)年、電灯が付き。ラジオが入る。
1931(昭和6)年、鬼鹿〜古丹別間の鉄道開通。
1932(昭和7)年、羽幌まで鉄道開通。
1934(昭和9)年、苫前船入潤(漁港)完成する。
1942(昭和17)年、霧立への森林鉄道開通。林業が本格化する。
1948(昭和23)年、町制施行、現在の苫前町となる。
1958(昭和33)年、国鉄羽幌線全線開通。
1983(昭和58)年、郷土資料館ができる。
1987(昭和62)年、国鉄羽幌線3月29日で廃止する。

イチイ(一位)とは、イチイ科イチイ属の植物で、常緑針葉樹、北海道ではオンコと呼ばれる。
名前の由来は、仁徳天皇がこの木でしゃくをつくらせ、それで正一位を授けたので「一位」といわれている。

寛文拾年狄蜂起集書とは、弘前藩の関係者によって書かれたもので、アイヌのコタンの戸数や有力者の名前など、アイヌ民族の様子が記録されている書物。
シャクシャインの戦い、1669年6月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起なども書かれている。

間宮林蔵(まみやりんぞう)とは、1780(安永9)年〜1844(天保15)年2月26日(4月13日)江戸時代後期の隠密、探検家である。
農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人で、近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。蝦夷地(北海道)に長く住み、アイヌ語も理解できたようで、23年もの間、北海道を中心として活躍していたそうだ。
伊能忠敬から測量法などをさらに学び、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させていることも大きな業績の一つ。
1799(寛政11)年、南千島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び、1803(享和3)年、西蝦夷地を測量した。
1808年(文化5)4月13日、幕府から命を受けた、当時29歳の林蔵は松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発する。
このとき、林蔵は墓石を海岸に建てたそうで、探検がどれほど過酷なもので、覚悟決めての出航だったかを思わせます。
同年7月13日、第2次樺太探検のため、アイヌの船で単身出発し、トンナイ(旧真岡付近、現・サハリン州ホルムスク)で冬を越し、1809(文化6)年、5月に樺太を北上、樺太北端のナニオー(現・サハリン州ルポロボ)まで踏査して樺太が島であることを確認した。
樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見し、その生活の様子を記録に残している。
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたそうだ。
蝦夷地の測量は1822(文政5)年まで続けらた。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

羽幌線(はぼろせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線。
留萌市の留萠駅で留萠本線から分岐して日本海に沿って北上し、天塩郡幌延町の幌延駅で宗谷本線に接続していた。
留萠〜羽幌間は、軽便鉄道法により計画され、留萠線の支線として開業した路線で、羽幌〜幌延間は、改正鉄道敷設法別表第144号に規定する「天塩国羽幌ヨリ天塩ヲ経テ下沙流別付近ニ至ル鉄道」として、南北から建設が進められ、1958年に全通した。
国鉄再建法の施行により特定地方交通線(第2次)に指定され、国鉄における最後の路線廃止となり、1987(昭和62)年3月30日に廃止された。

国道239号とは、網走市を起点とし、留萌市を終点とする一般国道で、天塩山地を横断する唯一の道路となっている。総距離は346.2km。

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