苫前 庄内藩陣屋跡住所 苫前郡苫前町香川苫前町 この史跡は、殆ど忘れ去られ今は標柱が有るのみ、ちょっと寂しいのは私だけであろうか。 庄内藩は1859(安政6)年、幕府から蝦夷地警護を命じられ、浜益・留萌地方(増毛は秋田藩の領地)に領地を得、陣屋を置いた。 庄内藩士戸田惣十郎(松本十郎)が、蝦夷地勤務を命じられた父について1863(文久3)年、苫前で在勤している。 1864(元治元)年、庄内藩の陣屋があった浜益に移り、1865(慶応元)年、一度庄内に帰国している。 1869(明治2)年、開拓判官に抜擢され、同年10月に東京から移民団130人を連れて根室に入った。 1873(明治6)年、大判官として札幌に赴任する途中、立ち寄った庄内藩士戸田惣十郎(松本十郎)は、この陣屋の番頭だった石川小兵衛の墓に参ったという。 陣屋跡は、国道232号線の古丹別川を渡ると、道路右側に水田発祥の地の案内板と石碑がある。 その石碑を通り過ぎてすぐ左に入る細い道があるので、左折。 道が分岐するがさらに左に進むと右側に「陣屋の跡」の標柱がある。 紀元前6000年頃、苫前町に人が住み始める。 紀元前800年頃、香川3線(遺跡)に集落ができる。 1634(寛永11)年、トママイ交易場所開かれる。 1670(寛文10)年、この年に書かれた「寛文拾年狄蜂起集書」に「ともまい」の地名がある。 1804(文化元)年、運上屋を建てる。 1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成) 1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。 1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。 1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。 1846(弘化3)年、松浦武四郎が初めて苫前を訪れ宿泊。 1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。 1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。 1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再度訪れる。 1858(安政5)年、苫前に一泊した翌日、古丹別川を遡り、イシカルンクシナイに止宿。(現・岩見付近) 1859(安政6)年、庄内藩の支配地となり陣屋を置く。 1864(元治元)年、大絵馬を奉納される(苫前神社に現存) 1876(明治9)年、子供たちに読み書きを教え寺子屋発祥となる。 1880(明治13)年、 3村(苫前村・白志泊村・力昼村)の長役場を苫前村に設置された。 1894(明治27)年、苫前郡苫前村が白志泊村を編入、苫前郡羽幌村(現・羽幌町)を分村する。 1896(明治29)年、古丹別原野に本州より団体移住する。 1897(明治30)年、苫前村の戸長役場が羽幌村戸長役場を分離する。 1902(明治35)年、苫前郡力昼村(りきびる)を編入、二級町村制、苫前郡苫前村となる。 1915(大正4)年、一級町村制施行される。留萌〜苫前間に乗合馬車が走る。三毛別羆事件が発生し7人犠牲になる。 1922(大正11)年、留萌−羽幌間乗合自動車営業始まる。 1923(大正12)年、国鉄羽幌線建設工事着工。 1928(昭和3)年、電灯が付き。ラジオが入る。 1931(昭和6)年、鬼鹿〜古丹別間の鉄道開通。 1932(昭和7)年、羽幌まで鉄道開通。 1934(昭和9)年、苫前船入潤(漁港)完成する。 1942(昭和17)年、霧立への森林鉄道開通。林業が本格化する。 1948(昭和23)年、町制施行、現在の苫前町となる。 1958(昭和33)年、国鉄羽幌線全線開通。 1983(昭和58)年、郷土資料館ができる。 1987(昭和62)年、国鉄羽幌線3月29日で廃止する。 国道232号とは、稚内市を起点とし、留萌市を終点とする一般国道である。 寛文拾年狄蜂起集書とは、弘前藩の関係者によって書かれたもので、アイヌのコタンの戸数や有力者の名前など、アイヌ民族の様子が記録されている書物。 シャクシャインの戦い、1669年6月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起なども書かれている。 船入澗(ふないりま)とは、ハシケによる貨物の積み下ろし場のこと。 松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没 江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。 蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。 1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。 1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。 これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。 個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。 戸田惣十郎とは、1840(天保10)年11月27日(1月1日)−1916(大正5)年11月27日、庄内藩(現・山形県鶴岡市)に生まれ、後に松本十郎と改名している。 明治時代初期に活躍した庄内藩出身の官僚で、武士。 戸田惣十郎が、蝦夷地勤務を命じられた父について1863(文久3)年、苫前で在勤している。 1864(元治元)年、庄内藩の陣屋があった浜益に移り、地元のアイヌの生活などを見る機会に恵まれた。 1865(慶応元)年、一度庄内に帰国している。 1868(慶応4)年、戊辰戦争で新政府軍と戦うが敗北し、藩主酒井忠篤は幽閉される。総十郎は藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し京都に赴く。このとき朝敵藩出身である事を隠すために名前も「松本十郎」と改名した。 官軍の黒田清隆は、彼の才能を知り、開拓使に推薦する。 1869(明治2)年、開拓判官に抜擢され、同年10月に東京から移民団130人を連れて根室に入った。 アイヌも公平に扱い、彼自身もアイヌの住民から貰った「アツシ」と呼ばれる衣装を身に着けていたことから、「アツシ判官」と称されて敬意を払われたという。 1873(明治6)年、松本は黒田清隆に求められて開拓使本庁の大判官に任命され、根室から札幌に向かう。 ところが1875(明治8)年、樺太・千島交換条約が締結されて樺太のロシア帝国領編入が確定し、樺太のアイヌを北海道内陸部に強制移住させて農業開拓に利用しようと計画するが、本来の生業である漁業に従事させる事を主張して黒田と激しく対立する。 1876(明治9)年、黒田は松本を無視して強制移住させ、慣れない生活と疫病により多くの樺太アイヌが死亡した。 1876(明治9)年、7月辞表を提出して故郷鶴岡に帰郷し、以後松本は故郷にて一介の農民として生涯を送った。 晩年に自分の生涯を振り返って執筆した回顧録『空語集』140巻を著している。 余談ではあるが、松本十郎の孫、松本友氏が1940(昭和15)年〜1965(昭和40)年まで、北大第八農場の派出所長として、富良野に居んでいた。 富良野市博物館にそれにまつわる書物が展示されている。 大きな地図で見る |