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SL排雪列車「キマロキ」

住所 名寄市字緑丘222(博物館の正面北側)
TEL 01654-3-2575(北国博物館)
期間 4月下旬から10月中旬まで

なよろ観光まちづくり協会

名寄市の由来はアイヌ語の「ナイ・オロ・プト」(渓流に注ぐ口)。名寄川天塩川に注ぐ様子から。松浦武四郎が著した「天塩日誌」では「左ナイブト 本名ナヨロフト」と記している。
緑丘の由来は、名寄太、名寄太原野と当時は呼ばれていた。1939(昭和14)年名寄町の字名地番改正した。緑丘になったいきさつはわからなかった。
名寄市内の道道540号名寄停車場線道道538号旭名寄線の大通り南9・10条交差点を旭方向へ約550mの交差点(看板有)を左折し宗谷本線の踏切を渡った左手。

「キマロキ」何かの呪文のようにも聞こえるが、北海道や東北などの豪雪地帯で活躍した鉄路の雪かき(排雪)のための列車の通称である。
機関車、マックレー車、ロータリー車、機関車の頭文字をとったもので、線路の両側に溜まった雪をマックレー車で雪を崩して集め、その後ろのロータリー車で雪を遠くへ飛ばす。前の機関車がマックレー車を牽引し、後ろの機関車がロータリー車を押すのが役目だ。これに車掌車を連結して作業員を乗せることもあり十数人が作業に従事していた。当時は交通事情も悪く鉄道に依存していたこともあり戦前から昭和40年代にかけて冬の鉄路を守ってきたのである。現在この「キマロキ」が静態保存されているのは北国博物館だけだという。
 この列車は、1976(昭和51)年11月名寄市に無償貸与されたもので、旧名寄本線のレールの上に設置されている。毎年秋にはシートを掛け風雪から守り、春になるとシートを外し、磨き上げる(軽油で磨いていた)のである。今もコンプレッサーで警笛だけ鳴らせることが出来るようであるが、私が訪問した際はまだエアーが足りてなくて諦めました。

案内板
全国で名寄だけにしかないSL排雪列車「キマロキ編成」
 北海道の開拓は鉄道の設置とともに進展しました。名寄にも、開拓の鍬がおろされた明治33年(1900年)の3年後、明治36年に現在の宗谷本線が名寄まで
開通しました。昭和16年には名寄本線、深名線の分岐点として交通の要地となり、以来、名寄は鉄道とともに歩んだ街でもあります。
 その時代の流れとともに、昭和50年12月で全国から国有鉄道のSLが姿を消しました。ここに展示してあるSL排雪列車編成は、名寄市が北国の鉄路を守
った雄姿を残すため、当時の国有鉄道より貸与されたものです。「キマロキ」と愛称されたこの編成の列車は、全国でただ一編成のみ、かつて活躍した、旧
名寄本線のレールの上で展示保存されています。

 キマロキは「SLキマロキ編成排雪列車」といい、機関車・マックレー車・ロータリー車・機関車の順に連結された排雪列車の頭文字をとって名づけられ
ました。雪の多い北海道内陸部、東北、北陸地方では線路両側に高い雪の壁ができ、普通のラッセル式では除雪が困難なためにこの編成の出動となりました
この列車には、機関区員や保線区員などが十数名分乗し、先頭の機関車が両側の雪をかき集めるマックレー車をけん引し、その雪をロータリー車が回転する
羽根で遠くへ飛ばし、それを後ろの機関車が後押しするという一連の作業で除雪に威力を発揮しました。
名寄市・名寄市北国博物館
名寄SL排雪列車(キマロキ)保存会

SL 59601号機(蒸気機関車)製造 大正10年11月3日 川崎造船所 退任 昭和47年10月26日 約51年間運転 全長 16.751m 最大牽引力 800t(1.000馬力) 最高速度 65km
マックレー車 キ911号機(かき寄せ式雪かき車) 製造 昭和13年10月20日 国鉄苗穂工場 退任 昭和50年10月18日 約35年間運行 全長 8.470m 雪の最大かき寄せ巾 7.750m
ロータリー車 キ604号機 (回転式雪かき車) 製造 昭和14年11月20日 国鉄苗穂工場 退任 昭和50年10月18日 約35年間運行 全長 19.025m 雪を飛ばす距離 横に30m位 上に20m位
SL D51398号機 (蒸気機関車) 製造 昭和15年1月24日 日本車輌製作所 退任 昭和48年9月10日 約33年間運転 全長19.730m 最大牽引力 1.200t(1.500馬力) 最高速度 85km
車掌車 ヨ4456号車 (緩急車) 形式 ヨ 3500型 製造 昭和29年 川崎車輌 展示 昭和63年6月16日(寄贈者・中田一良氏)


案内板
「キロマキ」の移設展示保存
 全国では名寄市にしかない「キロマキ」編成の
SL排雪列車は、昭和51年(1974年)に旧国鉄
(現JR北海道)から名寄市が無償貸与をうけたが、
最初は名寄公園北側の入り口付近に、新たにレー
ルを敷設して展示保存を始めたものである。
 その後、平成元年(1989年)に名寄本線が廃し
となり、名寄公園拡張・改修計画と市立博物館建
設計画に合わせて、名寄公園に隣接する区域の用
地を市が取得した。
 平成5年(1993年)に名寄本線のレールの一部
を残し、その線路上に{キマロキ」編成車輌を移
設して展示保存を始め、平成8年(1996年)に市
立北国博物館が開館し現在に至っている。
 旧名寄本線は、名寄を起点として興部、紋別を
経由して終点の遠軽までの138.1kmであった。
なお、名寄本線のレールは、当初30kgレール(
レール1mの重さが30kg)であったが、現在は
40kgレールである。これは東海道新幹線が、最
初に使っていたレールを50kgレール以上に敷
設替えをしたので、そのレールを利用して交換敷
設したものである。

準鉄道記念物に指定
 平成22年(2010年)に「キマロキ」SL
排雪列車をJR北海道旅客鉄道株式会社
が準鉄道記念物に指定した。
名寄市文化奨励賞を受賞
 長年の「キマロキ」展示保存管理活動に
対し、名寄SL排雪列車(キマロキ)保存
会が、平成21年度(2009年)名寄市文化
奨励賞を受賞した。
北海道文化財保護功労賞を受賞
 長年の「キマロキ」展示保存管理活動に
対し、名寄SL排雪列車(キマロキ)保存
会が、平成25年(2013年)北海道文
化財保護功労賞を受賞した。


緑丘地区は、東部の標高160mほどを最高点として西側に緩やかに傾斜している。集落は国道沿いの東側に集中しており、線路側には名寄公園や名寄神社もある。南東部にある洪積層中には砂や粘土が鉄分に覆われ褐鉄鉱となり、後に内部が崩れて空洞となり振ると音の出る天然記念物である名寄鈴石の包蔵地40アールもある。名寄は、1872(明治5)年宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。1887(明治20)年上川郡に上名寄(現・名寄市)、多寄、士別、剣淵の四ヵ村を置き、増毛支庁の管轄に入る。1888(明治21)年7月地質調査隊の内田瀞ら一行が、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画を設定する。1897(明治30)年5月天塩道路(現・国道40号)旭川着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。1899(明治32)年5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。1900(明治33)年10月上名寄〜士別間の仮県道完成する。 1902(明治35)年4月剣淵戸長役場より上名寄、多寄、下名寄村が分離し、三村戸長役場を上名寄村に設置する。9月三村戸長役場庁舎完成する。(現・大通り1丁目)。上名寄簡易教育所開所する。名寄神社建設される。1903(明治36)年9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。1909(明治42)年4月戸長役場制が廃止となり二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。
 1915(大正4)年11月一級町村制施行し名寄町となる。1919(大正8)年7月名寄町役場竣工する。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。
 1934(昭和9)年、3月名寄都市計画区域に指定される。1939(昭和14)年6月名寄町の字名地番改正する。9月「名寄鈴石」(なよろすずいし)が天然記念物に指定さる。1956(昭和31)年4月市制施行し名寄市となる。
 1989(平成元)年4月名寄本線廃止となる。1996(平成8)年2月名寄市北国博物館オープンする。2006(平成18)年3月風連町と合併し新・名寄市が発足する。
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