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熊害慰霊碑

住所 苫前郡苫前郡苫前町三渓(三渓神社境内)

苫前町

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苫前町では、1915(大正4)年、世界最悪・最凶の獣害事件が起きている。
事件の舞台となった場所は、苫前町三毛別・通称六線沢(現・三渓)で、羆によって胎児を含む7人が惨殺され、3人が重傷を負い、うち1人は後に死亡するという、獣害史上類を見ない大惨事が起きたのである。
三毛別の由来は、アイヌ語で「サンケ・ペツ」(川下へ流しだす川)を意味する。
事件当時7歳だった、三毛別村長の息子・大川春義は、その後ヒグマ撃ちとなったのである。
これは、1936(昭和11)年秋、事件の二十三回忌を迎える直前に「尊い生命を亡くした人々の霊を慰めるため犠牲者一人につき熊十頭を仕留めよう」と決意し、1941(昭和16)年から熊を撃ち続け、36年をかけ100頭を仕留めた。
このとき大川さんは65歳になっており、悲願達成後、大川さんは三渓神社内に犠牲者の名を連ねた「熊害慰霊碑」を建立した。
ちなみに、春義の息子も同じくハンターであり、1980(昭和55)年、体重500kgの大ヒグマ「北海太郎」(苫前郷土資料館に剥製が展示されている)を8年がかりで仕留めている。
大川さんは、1985(昭和60)年12月9日、熊害慰霊碑の前で執り行われた七十回忌の日、三渓小学校体育館で開催された式典で挨拶中に突然倒れ、77歳で帰らぬ人となった。


開拓六十周年記念の碑も境内にありました。


碑文
この度、生涯をかけての悲願たる熊百頭退治の
目標を達成したるを以て、犠牲者各位に奉告申し
上げ謹んで慰霊の誠を捧げると共に、地域の被害絶滅
に多少の貢献を為し得たるは、偏へに三渓部落は勿
論、全町を挙げての御支援と関係各位の絶大な御協力
に外ならぬ処にして、併せて深甚の誠意を表せんと欲す
思うに世界獣害史上かつて類例をみざる残虐な熊騒動
に依り当部落開拓の先人七名の方々の尊い犠牲を目前にし
て、当時七才の子供心にも惨事の再来を防ぐ為一生を賭し
て熊退治に専念し、以て部落の安全を維持するは己に課せ
られたる責務なりと確信し深く決意せり、先づ二十一才にして
狩猟の許可を得、尓来四十数年當々として初志の貫遂に努め
幸いにして、本年五月三日遂に百頭の目標に到達し一生の悲願
成就満足す、感激惜しく与わざるものあり
依って滋に本碑を建立し以て慰霊と万端の報謝に凝
す、乞い願わくば各々の霊位奉り亨けよ
昭和五十二年七月五日建立
施主大川春義敬白
部落会協賛

紀元前6000年頃、苫前町に人が住み始める。
紀元前800年頃、香川3線(遺跡)に集落ができる。
1634(寛永11)年、トママイ交易場所開かれる。
1670(寛文10)年、この年に書かれた「寛文拾年狄蜂起集書」に「ともまい」の地名がある。
1804(文化元)年、運上屋を建てる。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が初めて苫前を訪れ宿泊。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再度訪れる。
1858(安政5)年、苫前に一泊した翌日、古丹別川を遡り、イシカルンクシナイに止宿。(現・岩見付近)
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1859(安政6)年、庄内藩の支配地となり陣屋を置く。
1864(元治元)年、大絵馬を奉納される(苫前神社に現存)
1876(明治9)年、子供たちに読み書きを教え寺子屋発祥となる。
1880(明治13)年、 3村(苫前村・白志泊村・力昼村)の長役場を苫前村に設置された。
1894(明治27)年、苫前郡苫前村が白志泊村を編入、苫前郡羽幌村(現・羽幌町)を分村する。
1896(明治29)年、古丹別原野に本州より団体移住する。
1897(明治30)年、苫前村の戸長役場が羽幌村戸長役場を分離する。
1902(明治35)年、苫前郡力昼村(りきびる)を編入、二級町村制、苫前郡苫前村となる。
1915(大正4)年、一級町村制施行される。留萌〜苫前間に乗合馬車が走る。三毛別羆事件が発生し7人犠牲になる。
1922(大正11)年、留萌−羽幌間乗合自動車営業始まる。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線建設工事着工。
1928(昭和3)年、電灯が付き。ラジオが入る。
1931(昭和6)年、鬼鹿〜古丹別間の鉄道開通。
1932(昭和7)年、羽幌まで鉄道開通。
1934(昭和9)年、苫前船入潤(漁港)完成する。
1942(昭和17)年、霧立への森林鉄道開通。林業が本格化する。
1948(昭和23)年、町制施行、現在の苫前町となる。
1958(昭和33)年、国鉄羽幌線全線開通。
1983(昭和58)年、郷土資料館ができる。
1987(昭和62)年、国鉄羽幌線3月29日で廃止する。

道道1049号苫前小平線とは、苫前町と小平町を結ぶ一般道道であるが、苫前町三渓から小平町寧楽までの区間は未開通である。
通称「ベアーロード」との別名がつけられ、道端に熊の絵が描かれた看板が見られる。

ヒグマ(羆)とは、ネコ目(食肉目)クマ科に属する哺乳類で、クマ科では最大の体長を誇る。
オスの成獣で、体長2.5〜3mで体重250〜500kg、メスは、体長1.8〜2.5mで体重100〜300kgほど。
ヒグマは、栄養状態により個体差が顕著で、溯上するサケ・マス類を豊富に食べる環境にいるヒグマは大きくなるという。
中でも有名なのが、エゾヒグマで1980(昭和55)年、羽幌町で射殺された体重450kgの通称「北海太郎」(苫前郷土資料館に剥製が展示されている)や、2007(平成19)年11月にえりも町の箱罠にかかった推定年齢17歳、520kgのオスなど大型の個体もいる。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

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