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茂吉小公園

住所 中川郡中川町字共和

中川町

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
共和の由来は、1940(昭和15)年の字名改正時に、「共に和する部落」また「協力して平和な部落を築く」ということから長屋治平が命名した。旧字名は「志文内」(しぶんない)で、アイヌ語の「シュプンナイ」(ウグイのいる川)から転嫁した。
国道40号線道道118号美深中川線のT字路交差点を共和方向に約12.3km。共和市街地の茂吉小公園と看板があるので左折し、約140mほど左手。

斎藤茂吉は1932(昭和7)年8月14日、弟の高橋四郎兵衛を連れて中川村(現・中川町)を訪れ、志文内(現・共和)でひとときを過ごした。茂吉51才の頃だった。
ここ中川村志文内(現・中川町共和)には、茂吉の次兄である守谷富太郎が拓殖医(1928(昭和3)年に北海道庁の政策により医療の乏しいへき地に配置された医師のこと)として働いていた。着任は1928(昭和3)年12月。
1931(昭和6)年長兄である広吉を失ったこともあり心労を抱えた茂吉が弟と富太郎を訪ねたのが1932(昭和7)年8月で18日まで5日間滞在し、兄弟3人で水入らずの時を過ごした。
茂吉の日記にはこう記されている。
「豪雨ノナカヲ草草鞋ハキ徒歩ニテ志文内ニ向フ。若者二人ムカヒニ来ル。四郎兵衛ハルツクサツクヲ負フ。天塩川濁流サカマク。午後四時半志文内ノ富太郎兄ノ処ニ無事着ス。富太郎、富子途中マデ迎ニ来ル。十六,十七年ブリノ会合ナリ。」
とあるように、当時の交通手段は徒歩しか交通手段がなかったようである。
茂吉はこの旅で多くの歌を詠み、兄富太郎の僻地医療に携わる歌も残した。志文内での5日間に詠まれた歌として、第9歌集「石泉」のなかに「志文内」の47首、「志文内から稚内」の10首、計57首が収められている。
志文内滞在後、茂吉と高橋四郎兵衛は稚内、樺太へと向かう。
来町を記念する歌碑を建立したのは1978(昭和53)年10月。診療所は、1993(平成5)年に老朽化のために解体され、跡地と茂吉歌碑を中心に茂吉小公園として整備・保存され、短歌フェスティバルの歴代の入選歌も掲示されている。
ちなみに中川町エコミュージアムセンターでも斎藤茂吉のコーナーが設けられているので是非寄って見てもらいたい。

「さよなかと夜は過ぎつつ志文内の
山のうへ照らす月のかげの清けさ」
建立趣旨
 近代花壇の最高峰をなした斎藤茂吉は昭和七年八月十四日、この地で、北海道拓殖医として地域住民
の健康管理に尽されていた次兄の守谷富太郎氏を、弟高橋四郎兵衛と共に訪れ同月十八日まで滞留し
五十七首の秀歌を詠んだ。
 このことを私達町民の誇りとして永く後世に伝え地域文化の向上と郷土愛の育成に役立てることが
私達に課せられた責務と考え来町当時詠んだ直筆の一首をここに刻んで記念碑を建立するものである。
昭和五十三年十月二十二日
中川郡 中川町長岡田国一


茂吉小公園
 日本近代文学にその名を遺す歌集「赤光」、「白き山」などで知られる
アララギの歌人・斎藤茂吉(明治15・5・14〜昭和28・2・25 1882〜
1953)は、昭和7年8・14、弟の高橋四郎兵衛と同道してこの地志文内
(現共和)で柘植医をしていた次兄の守谷富太郎を訪ねた。兄弟三人は16年
振りに相見え、滞在5日間に残した短歌47首が、第9歌集「石泉」(せき
せん)に収められている。
 その中の、「青々とおどろくばかり太き蕗が沢をうづめて生ひしげりた
る」(中川町見晴公園)と、「さよなかと夜は過ぎつつ志文内の山のうへ
照らす月のかげの清けさ」(共和・元診療所前)の2基の歌碑を、昭和53
・7・22に建立した。
 守谷富太郎は、茂吉の六歳上の兄で、昭和3・12・25に共和に着任し、
(昭和5・4・20からは村医)約10年間、村民の医療に尽力し、また兄弟
中で一番馬の合った茂吉を師として短歌を詠んだ。
 旧志文内診療所は、老朽のため平成5年夏解体し、その跡地と茂吉歌碑
を中心に「茂吉小公園」と名付け、富太郎への村民の敬慕と、茂吉の文学
的遺産への誇りをこめて併せ遺すこととした。
中川町


サテライト(歴史)志文内診療所跡
昭和七年八月十四日、斎藤茂吉は末弟・高橋四郎兵衛を伴い、
中川町共和(旧;志文内)で拓殖医をしていた兄・守谷富太郎
を訪ね、実に十六〜七年ぶりの兄弟再会を果たした。五日間
の滞在中に茂吉が詠んだ歌は、歌集「石泉」の志文内での連
作そして「志文内より稚内」までの計五十七首である。兄弟が
再会を果たした診療所兼住宅は、間口九間(約十六m)、奥行五
間(約九m)の木造平屋建トタン板ぶきの一棟で、玄関の前に
は径三十cm余りの杉丸太の門柱が立っていた。また遠くから
でも目印となるような落葉松の防風林が診療所の敷地に丈高
く一列に整然と並び、前庭には径二十cmくらいのアララギがあ
った。茂吉小公園は、志文内診療所跡に整備された。診療所は
老朽化のため取り壊されたが、診療所の周りのアララギ(イチ
イ)などの植栽は当時のままである。茂吉小公園には斎藤茂吉
記念中川町短歌フェスティバルの入賞作品を掲示したメモリー
ボードが設置されている。
中川町エコミュージアムセンター
北海道中川郡中川町字安川28番地9
TEL:01656(8)5133

ちなみにこの共和部落に入植した多くは、岐阜県人だった。1904(明治37)年ポンピラ(誉二)に岐阜県人の若山武市が入植。1906(明治39)年には古田岩吉がセオ(誉一)に入植している。その後1909(明治42)年御料地の貸付が行われ、御料地借受者名簿では32戸が入植したが、他にも移住者が居たようで、1909(明治42)年32戸と合わせて総数57戸の入植があり小作人などもいたようである。
御料地の区画割りがまだされていないころ、部落から2kmほど上流にワッカウエンベツ川と安平志内川が合流する地点に、コタンがありアイヌが生活していたようで、ダベシというアイヌが住んでいた。彼は入植者に小屋の作り方や丸木舟の作り方、漕ぎ方、野草の食べ方などを丁寧に教えてくれた。
またダベシ自身、板谷方面からの物資の輸送、また船頭として安平志内川〜天塩川を往来し、帰路には味噌や塩などの生活必需品などを部落の人々に供給していた。
ダベシに限らずアイヌの方々は大変純朴で、親切だったようで、共和だけでなく安平志内川流域の住民はアイヌに大変世話になり助かったという。(これは道内各地の集落でも同じ事が言えたようである)
駅逓も現在の三の橋付近(学校手前の橋付近)に1929(昭和4)年に官設「志文内駅逓」が設けられた。当時は道庁から官馬2〜3頭が貸し与えられ、放牧地を設け、人の輸送や宿泊を行っていた。主として役人が泊まり、輸送は夏は乗馬で、冬は馬橇で志文内峠を越えていた。
この志文内峠(現在は、安川地区から志文内峠を越え共和地区の「茂吉小公園」へと至る旧志文内峠道(当時の生活道路)が、地元の有志により2002(平成14)年に復元され、散策することができる)を境に、安川寄りには青木某の休憩所があり、共和の方には菊田錠吉が休憩所を開いていた。これらの休憩所には日用品などが置かれ、峠の店として当時は親しまれた。
志文内川で砂金も取れたようで、入植前は物満内川から峰を越え志文内川に入り砂金掘りの人が拝み小屋を建てて、生活し採取したようである。中川の人は石川某が砂金を掘っていて、移住してきた人も掘っていた。遠くは函館からも掘りに来ていたという話まである。


1797(寛政9)年、松前藩士高橋壮四郎等西蝦夷地を調査し、天塩川を遡り石狩川にでる。
1798(寛政10)年、幕吏三橋藤右エ門等4名が宗谷探検の帰路に天塩川を遡り石狩にでる。
1800(寛政12)年、間宮林蔵が函館に来ていた伊能忠敬と師弟の約を結び、普請役雇となり、測量技術を学ぶ。
1803(享和3)年、間宮林蔵が東蝦夷地、南千島の測量をした。
1805(文化2)年、遠山金四郎が西蝦夷地を巡察する。
1807(文化4)年、近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1811(文化8)年、間宮林蔵が天塩川を遡って実測をする。
1821(文政4)年、中川郡・上川郡は天塩場所に属する。幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、西蝦夷地増毛以北の漁民の出稼ぎを許可する。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、6月佐倉藩士窪田子蔵・佐治岱次郎・佐波銀次郎等三人を派し、子蔵等は函館を発して西海岸を北上して宗谷に到る。その後北海道を一周して帰った記録を日記体の報告書「協和私役」として残した。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川を遡り天塩国上川郡、中川郡を踏査する。旧暦6月7日天塩出発、9日ホロビリブト(パンケ築堤下流)に1泊、10日アヘシナイに1泊し美深方向に向かう。
1858(安政5)年、松浦武四郎が6回目の蝦夷地探査をする。蝦夷地のほぼすべての全ての海岸及び道東地域の内陸部である十勝、阿寒、日高地方の河川などを巡る。
1869(明治2)年、8月蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。
1871(明治4)年、8月天塩・上川・中川一帯は水戸藩から開拓使に引き継がれる。
1872(明治5)年、9月宗谷支庁に天塩国の6郡と北見国の宗谷・利尻、礼文、枝幸の4群を含む。10月8日宗谷支庁中主典佐藤正克らが天塩川を遡り上川郡と中川郡の調査をし、天塩川の水源や北見、石狩国へ抜ける道を探査するため越年調査をし、闢幽日記を著した。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1875(明治8)年、3月留萌支庁が廃止となり、札幌本庁の管轄となる。宗谷に開拓使出張所を置く。
1880(明治13)年、3月増毛、留萌、苫前、上川、中川6郡を管轄する、留萌外5郡役所が開庁しその治下に入る。
1881(明治14)年、留萌外5郡役所が増毛に移り、増毛郡役所が開庁しその治下に入る。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。天塩村に「天塩郡天塩村・遠別村・幌延村・沙流村・中川郡、上川郡戸長役場」設置する。
1883(明治16)年、大村耕次郎が天塩川流域のアイヌの戸籍調査をする。
1886(明治19)年、1月三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。中川・上川・天塩の3郡戸長役場を苫前に移す。同役場の派出所を天塩村に設置する。
1880(明治13)年、天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1889(明治22)年、横山壮次郎が地質調査の為天塩川を遡り、石狩川上流に至る。
1896(明治29)年、5月中川・上川・天塩の3郡戸長役場を天塩村に設置する。北村恭助がアシベナイに居住する。
1897(明治30)年、6月上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の4村を加える。中川郡に下名寄村を加える。10月中川・天塩の御料地1万1121haを官有地から編入する。中川・上川郡は増毛支庁に所属する。
1898(明治31)年、野村猪太郎がトートムオマナイ(現・田村川、大富の起源となった川)に居住する。
1900(明治33)年、中川・天塩両郡御料地の1万1121haが北海道庁から引き渡しを受ける。中川御料地の区画測量に着手する。
1901(明治34)年、4月天塩国中川郡(下名寄村)を増毛支庁から分離し、上川支庁に編入し「剣淵外4ヶ村戸長役場」となる。貝瀬権八と畦内安次郎がトートマナイ(遠富内(現・大富))に入地する。
1902(明治35)年、4月剣淵外4カ村戸長役場を分離し、多寄・上名寄・下名寄の「三村戸長役場」を上名寄(現・名寄市)に置く。9月三村戸長役場庁舎(現・名寄市大通り1丁目)完成する。
1903(明治36)年、11月御料地貸付開始される。宮内省御料局札幌支庁臨時天塩派出所を誉平(現・中川町誉)に設置する。この年をもって中川町の開基とする。
1906(明治39)年、3月私立同志教育所(簡易教育所の前身)が誉平(現・誉)に設置される。4月「中川村」(現在の音威子府村を含む)の名称誕生。上名寄村外3ヶ村戸長役場(上名寄・多寄・下名寄・中川)となる。5月遠富内(現・大富)に簡易教育所設置する。9月誉平(現・誉)に簡易教育所設置する。11月宇戸内(現・歌内)に簡易教育所設置する。12月仁尾(現・豊里)に簡易教育所設置する。
1907(明治40)年、1月歌内簡易教育所開校する。仁尾の特別教授場が安平志内簡易教育所(安平志内48線)として開校する。3月上名寄・多寄の2村を割き、「下名寄村外3ヶ村戸長役場」が現在の美深町に設置され、下名寄村1ヶ村戸長役場が設置。中川村はこの役場の管轄となる。アベシナイ(現・安川三)、遠富内(現・大富)に官設駅逓所が認可される。6月下名寄村1ヶ村戸長役場開庁する。「東北帝国大学農科大学天塩演習林誉平看守所(現・北大中川研究林)」が設置される。
1908(明治41)年、1月「宮内庁御料局札幌支庁臨時天塩派出所」が廃止され「帝室林野管理局札幌支庁中川出張所」が設置される。上川営林区署天塩分署として「誉平森林監守駐在所」が設置される。仮定県道天塩線(現・国道40号線)が中川村に敷設される。古川西蔵が遠富内(現・大富)で水稲を試作する。
1909(明治42)年、5月誉平、安平志内、遠富内の各簡易教育所が、尋常小学校に昇格する。貝瀬権八が製材を始める。
1910(明治43)年、4月志文内特別教授所が設置される。9月中川神社として小祠が建立される。
1911(明治44)年、遠富内(現・大富)にでんぷん工場ができ、馬鈴薯の作付けが増える。板谷宮吉氏が、国有林開地1303.6haの売払を受ける。
1912(大正元)年、4月中川村に戸長役場が開庁する。9月アベシナイ(現・安川三)に官設の渡船場が開設される。11月天塩線(現・宗谷本線)恩根内〜音威子府駅間が延伸開業し、咲来駅、音威子府駅を新設する。
1913(大正2)年、10月ホロムイ(現・神路)、チラシナイ(現・富和)に渡船場開設する。
1914(大正3)年、9月志文内特別教授所が志文内簡易教育所となる。11月音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。
1916(大正5)年、4月常盤村(現・音威子府村)が分村する。11月中川村農会が発足し、上川郡農会に加入する。志文内簡易教育所が志文内尋常小学校となる。ピンネシリ(敏音知)街道が完成する。
1917(大正6)年、3月天塩線音威子府〜誉平間工事が着工する。4月志文内尋常小学校板谷特別教授場が開校する。
1919(大正8)年、4月二級町村制が施行され「中川村役場」となる。中川神社の拝殿を建立する。
1920(大正9)年、誉平、佐久両市街の区画測量が行われる。
1922(大正11)年、11月天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。 アベシナイ(現・安川三)、遠富内(現・大富)の官設駅逓所が廃止となる。
1923(大正12)年、9月誉平小学校、役場庁舎が新市街に移転する。 11月手塩線の誉平〜問寒別間が延伸開業し、宇戸内駅(現・歌内駅)、問寒別駅を新設する。
1924(大正13)年、1月名寄出張所に編入の中川村に所在する御料地は、内務省に所管換えとなり、旭川営林区署天塩分署となる。12月加藤平三郎が蒸気機関による動力木工場をはじめる(現・三箇産業(株)の前身)。
1926(昭和元)年、10月板谷に官設の駅逓所が設置される。
1930(昭和5)年、5月「志文内尋常高等小学校稚遠別特別教授所」が、ワッカウエンベツ(現大和)に開設される。10月遠富内(現・大富)、志文内(現・共和)に酪農組合が設立する。
1931(昭和6)年、12月ワッカウエンベツ道路開鑿される。ワッカウエンベツ官設駅逓所が設置される。
1932(昭和7)年、歌人斎藤茂吉氏が来村(共和地区)し歌を残す。
1934(昭和9)年、3月中川神社の本殿・拝殿・社務所を建立し、11月村社への昇格を承認される。
1940(昭和15)年、5月天塩川治水工事が着工する。
1941(昭和16)年、1月村内字名改正により14字名となる。
1943(昭和18)年、6月三箇金太郎加藤木工場を引き継ぎ三箇産業KK天塩中川工場となる。
1945(昭和20)年、中川変電所建設する。
1946(昭和21)年、12月中川市街に初めて電灯がつく。
1950(昭和25)年、11月役場庁舎が改築される。
1951(昭和26)年、7月宇戸内から歌内に駅名を変更する。誉平から天塩中川に駅名を変更する。
1953(昭和28)年、中川市街簡易水道が完成する。 天塩川切り替え工事完了。
1958(昭和33)年、第二次さけます増殖5ヶ年計画により、富和地区に「さけます捕獲場」が設置される。
1959(昭和34)年、4月中川左岸築堤工事着工する。中川市街でテレビ放送が始まる。
1960(昭和35)年、6月佐久築堤工事着工する。7月さけます捕獲施設完成する。
1961(昭和36)年、7月モーターバイク試験場竣工する。国道40号音威子府〜中川間の改良工事着工する。12月共和部落に電気が通る。
1962(昭和37)年、12月大富に電気が通る。
1963(昭和38)年、8月「水産庁さけますふ化場中川事業場」が中川二に設置される。
1964(昭和39)年、1月歌内に電気が通る。5月町制が施行される。 6月開拓60周年記念式典が挙行。
1965(昭和40)年、7月神路小学校が廃校となる。神路地区が無人となる。
1967(昭和42)年、中川ハイヤーの営業を開始する。9月国営開拓パイロット事業基本計画樹立地域の指定を受ける。国道40号線音威子府〜中川間舗装工事が完了する。ますのすけの孵化事業始まる。
1970(昭和45)年、8月ますのすけがはじめて天塩川を遡上し捕獲される。9月国営開拓パイロット事業が着工する。
1971(昭和46)年、1月国府一、国府二が合併し国府となる。4月過疎地域に指定される。
1973(昭和48)年、5月中川町保健センター(現・ポンピラアクアリズイング)がオープンする。6月「中川商業高等学校」が北海道に移管される。11月郷土資料館が完成する。12月中央小学校中川分教室、歌内分教室、大富小学校、国府小学校が閉校となる。
1974(昭和49)年、クビナガリュウ化石が発見される。
1977(昭和52)年、役場庁舎が移転する。郷土資料館が開館する。
1978(昭和53)年、斎藤茂吉来町記念歌碑が建立される。
1983(昭和58)年、森林公園が完成する。
1986(昭和61)年、北海道さけますふ化場中川事業場が新築される。役場庁舎が改修される。中川町自然公園が整備される。
1988(昭和63)年、第1回道北丸太押し相撲大会が開催される。
1991(平成3)年、2体目のクビナガリュウ化石が発見される。
1993(平成5)年、新保養施設「ポンピラアクアリズイング」がオープンする。
1996(平成8)年、オートキャンプ場「ナポートパーク」がオープンする。
2002(平成14)年、中川町エコミュージアムセンター「エコールなかがわ」がオープンする。
2003(平成15)年、「道の駅なかがわ」がオープンする。中川町100周年記念式典が挙行。
中川町史参考

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