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松浦武四郎宿営推定地 ナイフト

住所 名寄市日進(名寄川堤防)
NPO法人 なよろ観光まちづくり協会

名寄市の由来はアイヌ語の「ナイ・オロ・プト」(渓流に注ぐ口)。名寄川天塩川に注ぐ様子から。「天塩日誌」では「左ナイブト 本名ナヨロフト」と記している。
日進の由来は、岐阜県人が当地に入植し「日進月歩」の意味を込めて「日進」と名付けたことに由来する。
名寄市内国道40号が西4北5交差点で左に折れる交差点から、道道252号美深名寄線を美深方向に約2.5kmほどの天塩川の橋手前を日進方向に約300m進み名寄川を渡った右手築堤を約100m進むと天塩川歴史紀行の案内板がある。

1857(安政4)年、6月松浦武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口からハママシケ(浜益)を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形でポロヌプ(幌延)、(オヌプナイ)雄信内、(ポンピラ)中川、(オトイネプ)音威子府、(ピウカ)美深と歩き、(ナイプト)名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、ペンケヌカナン(現・朝日町の御科三線)源流近くまで到達した。天塩日誌には当時の天塩川流域の様子や、アイヌの風俗・習慣なども描かれている。

6月13日、ヘンケニウブ(左川・美深町辺渓似宇布川)、ここに人家が2軒(コロカイ(家族4人)、トウリヘ(家族二人)あり、ここで泊まったが蚊や虻が多くて大変だったようである。
14日、サシコツナイ(左川)、チエフンド(右川・名寄市智恵文)、ラクラユクンナイ(左川)、ヘンケラユクシナイ(左川)、カモイオロシ(右大岩)、ここではイナウを立てて通る習慣があったようである(この下流までチョウザメが上がってきているようだ)。
ここを過ぎてシュボロ(両岸が切り立った崖)、舟を網に付けて川を上る。シユツプヤオマナイ(左川)、サアトモオマナイ(左川)、ウヤシナイ(左川)、ヘンケウヤシナイ(右川)、この辺りの川底から砂利になる。そして川は二股となり、左がナイブト(ナヨロフト・ナイブチ名寄市内渕だろう)、右が本流で、この辺りから東南を展望すると平野となっていてとても広かった。今日の行程は6里。
ナイブト(名寄川川口)から少し左に入ったところに家が二軒、アベルイカ(家族3人)、シケロク(家族5人)があるのでここで宿泊する。
このあたりの家は、作りが石狩などの家と違い、蚊や虻が非常に多いので家の中に煙が篭るようになっている。アベルイカの家の平野では、サルルンカムイ(鶴)やクイト(雁、がん、かり・カモ目カモ科の水鳥の総称)が非常に多いという。夕方には一羽獲ってきて食べさせてくれた。ここの平野には鹿も沢山居て、アマクウ(仕掛け弓・置き弓)で獲るという。夜は鹿が3頭も獲れたのでご馳走になったが、その肉の旨いこと、あごが落ちそうだったという。

15日、ナヨロ川の上流に向けて出発する。フイタウシナイ(左川)、キナチャウシナイ(右川)、ネツチヤイオマン(左川)、テツチヤオマ(左川)、ルカノチ(左川)この辺りの川にはヤナ(マスなど川魚を獲る漁法のひとつで、川の流れを堰き止め、木や竹で組んだ仕掛けに流れ込んだ魚を獲るという方法)が沢山仕掛けてあった。ヒツヒエウシ(左山)、チルスシ(平地)、ここに家が2軒あり、サカリサシ(家族5人)、案内役で同行しているイコレフニ(家族2人)の家がある。
さらに進むと、ハツタラハオマナイ(右川)、タツニサム(右川)、エサウシ(左川)、オンネナイ(右川)、キユシヒタラ(左川)、ヘンケキユシヒタラ(左川)、ここにも家が1軒ありシレフニ(家族7人)が住んでいる。さらに進むと、ネーヒタラ(左川)、この辺りから川底がごろごろとした石になり急流となってくる。この日の行程は約5里半。チノミ(左平地、現・上川郡下川町上名寄9線川付近)に家が2軒ありエレンカクシ(家族6人)、ラフニ(家族2人)ここで宿泊する。

19日、雨が降っていたが晴れたのでチノミを出て、川を下り昼過ぎにナイブトに戻る。この日アイヌが煙管を(キセル)を川に落としたので代わりを作る。 木で作るのだが、ラソバ(サビタ・ノリウツギ)という木の枝に、串で木の末のほうから通して作る。木の芯は柔らかく、筋が真っすぐなので串は簡単に通る。雁首(キセルの火皿)もその木の幹についているのを代用する。山中の生活の不自由さが理解できるだろうと書かれている。

20日、ナイブト(名寄市)から舟を出し、天塩川本流にでる。フシコフト(右川)、ウリウルベシベ(右川・名寄市有利里川)この川筋はウリウ(雨竜郡)に出る山越えの道筋だたようである。ケロムンウシナイ(左川)、フウレベツ(左中川・名寄市風連町)、タヨロマ(左川・タヨロマ川)、ユウンベウンフト(右川)大きな渕で五尋(1尋(ひろ)は約1.81mなので約9.05mほどだろうか)のチョウザメが上がったという意味の名称とのこと。クワウシナイ(右川)、トツフトンナイ(並行して)、フイタウシナイ(右川)、ニセウクシナイ(右川)、キナチャウシナイ(左川)、ヘタヌ(二股・天塩川本流と剣淵川の合流点)、ここにも大きな渕があり、右にケネフチ(大川・士別市剣淵川川口)、これは赤楊(ハンノキ)が多い意味。このあたりの乙名ニシハコロ(家族9人)の家に泊まる。ここまでの行程は凡そ7里。ここには松浦武四郎宿営地 リイチャニ がある。

25日、サッテクベツ(松浦武四郎宿営地(サッテクベツ) )から小雨降る中ナイフト(名寄市)に着いた。以前家に泊めてくれたアベルイカ(家族3人)が帰りも立ち寄るだろうと準備をしもてなしてくれた。しかし武四郎はここで一生の失敗をしたという。酒の作り方を主人から前日に聞かれ、塩を一つまみ入れると澄んだ酒になると言い、後日ニシハ(旦那)が「この前教えてくれた酒がこんな風になってしまった」と味を見ると腐った酢のようになっていた。天塩に戻ると早々に運上屋からこうじと米を届けさせた。(このことを武四郎は悔み懺悔した。アイヌはこのようになんと質朴で善良な人々かと書いている)

26日、雨は止み晴天となる。川の水も2割ほど増水している。舟を出すと川の流れが非常に早く、夜はオクルマトマナイのエカシテカニの家で泊まる。ここには松浦武四郎宿営の地 オクルマトマナイがある。

日付と文章は、丸山道子訳・松浦武四郎著「手塩日誌」を優先し参考としています。


1798(寛政10)年、7月幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日誌)
1800(寛政12)年、間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。
1807(文化4)年、近藤重蔵が宗谷の帰路に天塩川を遡り、石狩川筋にでる。
1859(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前は水戸藩の支配下にあった)
1871(明治4)年、8月天塩一帯(天塩・中川・上川)の支配は水戸藩から開拓使に移る。
1872(明治5)年、宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。
1877(明治10)年、10月苫前戸長役場の管轄下に入る。
1880(明治13)年、3月増毛、留萌、苫前、上川、中川6郡を管轄する、増毛郡役所が開庁しその治下に入る。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1887(明治20)年、上川郡に上名寄(現・名寄市)、多寄、士別、剣淵の四ヵ村を置き、増毛支庁の管轄に入る。
1888(明治21)年、7月地質調査隊の内田瀞ら一行が、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画を設定する。
1897(明治30)年、5月天塩道路(現・国道40号)旭川着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。
1898(明治31)年、5月大屋敷磯吉が上名寄村に入植する。
1899(明治32)年、5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。
1900(明治33)年、10月上名寄〜士別間の仮県道完成する。
1901(明治34)年、6月官設駅逓設置される。12月上名寄〜恩根内に至る道路完成する。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場より上名寄、多寄、下名寄村が分離し、三村戸長役場を上名寄村に設置する。5月岐阜、相馬団体で水稲試作する。9月三村戸長役場庁舎完成する。(現・大通り1丁目)。上名寄簡易教育所開所する。名寄神社建設される。
1903(明治36)年、9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。
1904(明治37)年、北見街道の名寄〜紋別間が完工する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。
1906(明治39)年、下名寄(現・美深町)が上名寄戸長役場から分離する。
1909(明治42)年、4月戸長役場制が廃止となり二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。
1911(明治44)年、4月上名寄〜羽幌間の鉄道建設運動がおこる。11月天塩線の名寄〜恩根内間が延伸開業し、智恵文駅、美深駅、紋穂内駅、恩根内駅を新設する。
1912(大正元)年、9月天塩線が宗谷線に改称となる。
1915(大正4)年、11月一級町村制施行し名寄町となる。
1919(大正8)年、7月名寄町役場竣工する。東洋酒精株式会社開設する。9月名羽線(名雨線)の敷設運動始まる。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。宗谷線が宗谷本線に改称となる。
1920(大正9)年、5月旭川監獄名寄出張所(現・名寄拘置支所)設置する。6月下名寄村から智恵文が分村し二級町村制施行する。 名寄女子職業学校(現・名寄市立大学短期大学部)が創設される。
1922(大正11)年、改正鉄道敷設法に予定線として、名雨線「天塩国名寄ヨリ石狩国雨龍ヲ経テ天塩国羽幌ニ至ル鉄道」と記載される。
1924(大正13)年、1月名寄村から下川村が分村する。
1927(昭和2)年、2月株式会社名寄運送社(現・日本通運株式会社)開設される。3月町立名寄高等女学校(現・名寄高等学校)創立する。
1928(昭和3)年、5月北海道バター工場(雪印乳業株式会社)開設する。
1929(昭和4)年、10月名羽線の予算内閣にて成立する。
1930(昭和5)年、3月名寄緬羊組合開設する。4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。
1934(昭和9)年、3月名寄都市計画区域に指定される。名寄大橋竣工する。名羽線(名雨線)の着工にかかる。天塩川治水工事に着手する。名羽線の第65議会で予算23万4900円で着工し、1938(昭和13)年竣工が貴・衆両院を通過する。
1937(昭和12)年、11月名寄〜初茶志内間を名雨線として新規開し、西名寄駅・初茶志内駅を新設。
1939(昭和14)年、6月名寄町の字名地番改正する。9月「名寄鈴石」(なよろすずいし)、「名寄高師小僧」(なよろたかしこぞう)が天然記念物に指定さる。
1941(昭和16)年、10月初茶志内〜朱鞠内間を延伸開業し、幌加内線に名雨線を編入して深川〜名寄間を深名線と改称する。
1943(昭和18)年、6月名寄運動公園開設する。
1952(昭和27)年、2月第1回雪まつり(昭和38年樹氷まつりと改称する)開催する。8月陸上保安隊名寄駐屯部隊キャンプ地工事着工する(現・自衛隊名寄駐屯地)。
1954(昭和29)年、8月智恵文村と合併、新名寄町が発足する。
1956(昭和31)年、4月市制施行し名寄市となる。5月智東の天塩川右岸に先住民族の遺跡(縄文式)が発掘される。
1957(昭和32)年、3月美深〜名寄間の智東道路が完成する。
1959(昭和34)年、11月名羽線が建設線に決定する。
1960(昭和35)年、4月天塩川製紙株式会社名寄工場設立する。
1962(昭和37)年、4月羽幌町にて名羽線起工式挙行。
1964(昭和39)年、9月名寄ゴルフ場完成する。10月名羽線朱鞠内にてくい打式挙行。
1966(昭和41)年、4月天塩川水系一級河川に昇格となる。7月名羽線朱鞠内側着工式挙行。
1970(昭和45)年、7月名寄市プラネタリウム館完成する。8月名寄市立名寄図書館落成・開館する。ピヤシリ観光開発道路開通する。10月開発道路名寄遠別線起工する。12月ピヤシリシャンツェ完成(70m級)する。
1973(昭和48)年、12月名寄市清掃工場完成する。国設名寄ピヤシリスキー場オープンする。
1978(昭和53)年、8月智恵文地区の字名を「字智恵文」に統一する。
1980(昭和55)年、2月雪印乳業名寄工場閉鎖となる。
1981(昭和56)年、5月ピヤシリ森林公園オープンする。
1986(昭和61)年、7月 「スーポロの碑」76年ぶりに再建立される。
1989(平成元)年、4月名寄本線廃止となる。10月ピヤシリにログハウス完成する。
1991(平成3)年、1月住友ゴム名寄タイヤテストコース竣工する。
1995(平成7)年、7月ピヤシリシャンツェ、ミディアムヒル(50m級)完成する。9月深名線廃止となる。
1996(平成8)年、2月名寄市北国博物館オープンする。
1997(平成9)年、11月名寄バイパス(現・名寄美深道路)の名寄IC〜名寄北IC間供用開始する。12月「名寄温泉サンピラー」オープンする。
2000(平成12)年、8月名寄市開拓100年記念式典挙行。
2002(平成14)年、10月ピヤシリシャンツェ ノーマルヒル(K点 90m)完成する。
2003(平成15)年、3月名寄バイパスの名寄北IC〜智恵文IC(現・智恵文南入口)間供用開始する。9月名寄駅開業100周年記念行事挙行。智恵文神社御創祀100年記念式典挙行。11月ピヤシリスキー場第3ペアリフト竣工式挙行。
2006(平成18)年、3月風連町と合併し新・名寄市が発足する。11月名寄バイパスの智恵文南入口〜智恵文IC間供用開始する。
2010(平成22)年、3月名寄バイパスの智恵文IC〜美深IC間の供用開始する。これに伴い名寄バイパス区間全線開通する。
新名寄市史1〜3巻参考

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