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松浦武四郎天塩川探検之地(トナイタイベ)

住所 士別市上士別町22線東付近 更生橋たもと

士別観光協会

士別の由来は、アイヌ語の「シペッ」(大いなる川・または本流、親川)の意味で、母なる天塩川がこの地の発展の源であった。 2005(平成17)年9月、朝日町と合併し士別市となった。 読みが同じ標津町と区別するため「名寄士別」と呼ばれる。
上士別町は、1913(大正2)年4月士別村から大字上士別が分離し上士別村が発足。1954(昭和29)年7月士別町、上士別村、多寄村、温根別村が合併し、士別市となった。
道道61号士別滝の上線沿いにあり、朝日町市街地から上士別町方向に約5.7km。上士別町市街地から朝日町方向に約3.6kmほど。

西内大部川にかかる更生橋たもとの会館前に案内板がある。1857(安政4)年6月21日松浦武四郎一行がサッテクベツ(現・士別市中士別町付近)にて一泊。6月22日夜明けを待って天塩川上流へ向かう。
ここにも松浦武四郎宿営地(サッテクベツ)がある。
川は急流となり、多くの流木や倒木が川の流れを阻んでいた。現在の上士別町手前のパンケヌカナン川(現・パンケヌカナンプ川、当時この川と愛別川上流・石狩川本流への重要な道筋だった)合流あたりで舟を岸につないで陸路で進む。
ソウシベツ(右滝)テイネメン(左川)を過ぎると両岸の崖が非常に狭くなっており、川は深い淵でとても通れそうになかった。此処で進退窮り、引き返すかどうか悩んでいたが、ふと向こう岸を見ると、谷底に一人のメノコがアツニ(楡皮)を洗っているのに気づく。
このアイヌは、前日のサッテクベツのアエリテンカの妻であった。「どこからそこに渡ったのか」と尋ねると、「もう少し上流に大木が倒れているからそれを渉るように」と教えられ、更に川伝いに上流へ進む。
ケナシノシケクンベツ(左川)ナイタイベ(左中川-内大部川-士別市上士別町)にでる。この辺りからは大笹原(根曲がり竹・チシマザサ)となる。昔この辺りまで、間宮林蔵も訪れたとアイヌ達が言っていたようである。
ここから先のトナイタイベ(東内大部川)オサトロマ(右川)フリレレマ(左川)付近の川辺で野宿することにした。ここではテクンヘリル(ザリガニ)が沢山いてそれを串に刺して焼いて食べたそうだ。

6月23日、この日は大笹原の密生した藪を分けながら進むため、露に衣服がぬれてとても冷たかったようである。10時頃にはペンケヌカナン(右中川-上川郡朝日町御料三線、現・朝日町市街地裏の斑渓橋付近)についた。
ここから川筋にそって近くの山に登って遠くの山々を見て引返した。夜はトナイタイベ(東内大部)まで戻り野宿した。

6月24日、この日はパンケヌカナンを過ぎて昼頃、6月21日に宿泊したサッテクベツに戻ると大勢のアイヌが集い、前日に仕込んでおいた酒をこしたり、イナオを削り、それを山・海の神、先祖の神々に供え祭った。
ちなみに、ナイタイベとは(川鮫のこと)だそうだ。手塩川にはチョウザメがいるのは知られているが、川鮫という名詞が川になるのはおかしいようで、意味も不明とのこと。
丸山道子訳・松浦武四郎著「手塩日誌」参考

この碑は、士別市郷土研究会が1967(昭和42)年8月設置したが、傷みが進み題字は判読はできない。案内板はあとで追加されたものだろう。

案内板
松浦武四郎手塩川探検地
「手塩日誌」によると、幕末の探検
家・松浦武四郎は、安政四年(一八
五七)旧暦六月、十二日、アイヌの
案内で、ナイタイベに至った。アイ
ヌから昔、間宮某がここまで上がっ
たと聞き、戯れて岩壁に次の誌を記
した、とされている。
風起峰岳宿霧開
雲端仰見此崔嵬
山霊未必疎知己
又有人間一個来
風が起きて峰々に纏い着いてきた霧は払われ
雲間から此の素晴らしい岩山が仰ぎ見えました
山の神霊は未だ先に訪れた知人(間宮林蔵)を
お忘れではないでしょう
又一人(私)が訪ねてまいりました
訳 北村大三
 そのあと武四郎は、トナイダイ
ベからパンケヌカナンプ(朝日)ま
で行き、二十四日にサッテクベツ
(士別)へ戻り、さらに探検を続け
た。

2017(平成29)年には天塩川と東内大部川の合流地点付近の堤防上に看板が設置された。松浦武四郎天塩川探検之地の碑とは別の場所にある(地図は下方に載せておきます)。


上士別町の開基は、1900(明治33)年に新潟県人の富山虎三郎率いる12戸が川南に入植し、これが上士別村開拓の祖となる。この地は当時から肥沃な土地であったことから畑作・稲作・酪農が飛躍的に発展した。上士別での水稲は、1901(明治34)年22線に石川光親の農場管理人として庄司久助が入地、1903(明治36)年に角田村(現・栗山町)から香早生の種籾を取り寄せ、3反(30アールほど)の水田を造成し試作するが、1905(明治38)年ようやく少量の収穫を見るが中止する。その後阿達吉五郎がこの試作を継承するが1913(大正2)年の大凶作でその全てを失った。川南地区(現・川南神社付近)では、1907(明治40)年に吉本磯右衛門、高買万蔵が試作を行い、3年目にしてようやく1反(10アール)当り30kgの収穫を見た。辻本茂七は1907(明治40)年に鷹栖村より種籾を買い求め、1反の水田を試作する。その後継続して試作し1910(明治43)年に1反当り90kgの収穫を見たが場所は不明。1910(明治43)年小西六三郎は、雨竜郡北竜村の本願寺農場(現・沼田町字北竜第1)より魁種籾30kgを移入し、2反(20アール)の水田に試作し、1反あたり60kgの収穫を見た。
 1913(大正2)年4月には、上士別村が士別村より分村独立する(戸数1004戸)。9月上士別村役場庁舎竣工する。この頃の水田耕作地は12ha。1925(大正14)年、上士別〜奥士別間に馬車鉄道開通する。この年の水田耕作地は1192ha。
 1935(昭和10)年の水田耕作地は2168haとなり可耕地のほとんどが水田となった。1948(昭和23)年には士別、上土別、中士別、多奇、温根別農業協同組合設立する。1949(昭和24)年8月朝日村が上士別村から分村独立し、朝日村が誕生する。1954(昭和29)年7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。9月市制施行記念式典挙行。
1984(昭和59)年には子供会を中心にホタルの生息調査を行ったところ、ヘイケボタルが見つかった。これが契機となり翌年には、ホタル部会を設置し、全国蛍研究会に入り、生息調査と人工飼育に着手した。1986(昭和61)年にはホタルを孵化させ、2000匹を西内大部川に放流した。現在は「ほたるの里」として(士別市上士別町22線の道道61号士別滝の上線沿いに看板あり)7〜8月にかけてホタルの観察ができる。


1798(寛政10)年、7月幕命により三名が手塩川筋を調査するため遡る。
1857(安政4)年、6月幕吏松浦武四郎が手塩川筋を遡り調査する。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1889(明治22)年、北海道庁の地質調査隊が手塩川を遡る。
1897(明治30)年、6月士別村が設置される。(剣淵村、士別村、多寄村、上多寄村、下多寄村)手塩村戸長役場の治下になる。
1898(明治31)年、5月宮城県人の大内勇記が深川より入植し、開拓の草分けとする。7月道庁技手佐々木五次郎が、屯田兵移住地区画設定のため士別に来る。北海道庁の河川調査隊が石狩川を遡り、剣淵水源に出る。9月河南政次郎が家族とともに入植する。10月屯田兵施設建設工事着工する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁の管轄から上川支庁管轄となる。役場も手塩村から剣淵村外3ヶ村戸長役場となる。7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、これを士別開基とする 。10月士別尋常小学校が開校。
1900(明治33)年、5月新潟県人富山虎三郎率いる12戸が川南に入植。これが上士別村開拓の祖となる。下土別へも入植があった。7月士別郵便局が開設される。8月天塩線(現・宗谷本線として和寒〜士別間が延伸開業し、剣淵駅、士別駅を新設する。 山畑源蔵が兵村大通で水稲はじめて試作。
1901(明治34)年、温根別への入植はじまる。4月下名寄を加え剣淵外4ヶ村戸長役場となる。この頃温根別伊文3線沢にて砂金の採取が行われる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場から、多寄、上名寄、下名寄が分離し、上名寄外2ヶ村戸長役場を上名寄村に設置する。9月士別村戸長役場設置、神田藤三郎宅を借りて戸長役場を開設した。
1903(明治36)年、4月大通り東3丁目に士別村戸長役場庁舎を竣工する。9月手塩線の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。士別市字士別御料農地区画が貸し下げになり開拓が始まる。(1線〜9線)朝日町の開基となる。
1906(明治39)年、4月士別村2級町村制施行される。中川村が上名寄3ヶ村戸長役場の治下となる。士別座が西1条5丁目に開設される。 この頃養蚕が盛んになりハッカ、亜麻も栽培。
1907(明治40)年、1月マッチ製造株式会社士別製軸所が操業する。2月帝国製麻士別工場が操業開始する。3月多寄に市街地が形成される。下名寄、中川の2村が分離して、上名寄外1ヶ村(多寄)となる。
1909(明治42)年、10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 3月上名寄と多寄村の仮定区域を定め、上名寄村風連別が多寄村に編入される。4月二級町村制施行される。11月この頃銭湯が開業する。本通37号(現・士別市朝日町中央4051)で水稲の試作が行われる。(朝日町の水稲の始まり)
1910(明治43)年、7月ペンケ殖民地(乙1線)に入植始まる。12月御料地3線に奥士別駅逓所が設置される。
1913(大正2)年、2月温根別にて砂金掘り盛んとなる。4月上士別村が士別村より分村独立する(戸数1004戸)。御料地市街(現・朝日町市街地)の貸下げが始まる。9月上士別村役場庁舎竣工する。
1915(大正4)年、士別村に一級町村制が施行される。11月士別町制施行される。
1917(大正6)年、11月士別役場新築落成する。(西2条4丁目)御料地25線にニイサマップ駅逓所が設置される。
1919(大正8)年、5月天塩川が氾濫し、開村以来の大水害となる。8月士別軌道株式会社設立。11月手塩水力電気株式会社操業する。
1920(大正9)年、6月士別軌道株式会社が士別〜上士別間に馬車鉄道を運行する。
1923(大正12)年、4月上士別村が一級町村制施行。
1925(大正14)年、上士別〜奥士別間に馬車鉄道開通する。
1926(大正15)年、4月上士別村と境界変更し、中士別12線以東を分割する。5月川西めん羊組合が設立される。 東士別土功組合により、かんがい溝開削がはじまる。
1927(昭和2)年、10月剣淵村を分割し、温根別村が分村独立する。12月士別にタクシーが現れる。同時に人力車が消えた。
1928(昭和3)年、9月馬車鉄道の動力が蒸気機関車になる。
1929(昭和4)年、8月九線神社が5線に移され糸魚神社となる。(現・朝日神社)
1930(昭和5)年、5月士別森林鉄道敷設工事が奥士別を起点に着工する。士別〜温根別間のバス運行開始する。10月温根別に電燈点く。
1931(昭和6)年、ペンケヌカナンブ移民地(三栄地区)の入植始まる。新奥士別移民地(茂志利地区)の入植始まる。
1934(昭和9)年、産業組合(農協の前身)発足。
1936(昭和11)年、10月明治製糖株式会社士別工場(現・日甜)操業開始する。
1938(昭和13)年、4月風連村を分割し、多寄村が分村独立し、多寄村は一級町村制施行。
1945(昭和20)年、9月戦後開拓者12戸63名ペンケ中の沢に入植する。
1946(昭和21)年、東洋製綿工場が操業。 東士別土功組合、甲子土功組合が上士別村土功組合(その後、昭和26年に上士別土地改良区に改称)と合併する。
1948(昭和23)年、6月自家水力発電により似峡地区に電燈が点く。7月士別町開基50周年記念式典挙行。士別、上土別、中士別、多奇、温根別農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、6月士別電報電話局開設される。8月朝日村、上士別村から分村独立し、朝日村が誕生。10月朝日似峡間にバス運行開始。
1951(昭和26)年、12月天塩川電源開発期成会が結成され、岩尾内ダム建設陳情に乗り出す。
1952(昭和27)年、5月北日本農産工業株式会社(デイジー食品工業株式会社の前身)設立する。10月道北製酪協同組合(森永乳業士別工場の前身)設立する。士別〜朝日間道路冬期間の除雪が行われるようになり、バスが通年運行になる。
1954(昭和29)年、7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。9月市制施行記念式典挙行。
1955(昭和30)年、4月デイジー食品工業士別工場操業。10月士別飛行場設置される。
1957(昭和32)年、8月士別郷土研究会が発足する。森永乳業士別工場操業。 板見でん粉工場の製品が全国でん粉品評会にて農林大臣から賞状を授与され、朝日村の名を全国に知らせる。
1958(昭和33)年、士別市立図書館開館する。昭和砂鉄鉱業株式会社による剣淵川の砂クローム採鉱が開始。7月つくも市場開店する。
1959(昭和34)年、7月中央市場開店する。駅前広場造成される。11月道道101下川愛別線、朝日〜愛別間開通する。12月バス路線全線通年運行となる。若林服装研究所(後の若林服装女学院)開校する。
1962(昭和37)年、10月道道61号士別滝の上線が開通する。
1963(昭和38)年、38年度国家予算に、岩尾内ダム実施設計書が計上され、岩尾内ダム建設工事着工される。
1967(昭和42)年、3月似峡小中学校が廃校となる。7月岩尾内ダム建設起工式挙行。天塩川上流総合かん排事業着工。12月つくも水郷公園造成着工。
1969(昭和44)年、8月屯田兵屋を士別神社境内に復元保存する。オーストラリアからサフォーク種めん羊百頭導入。
1970(昭和45)年、11月岩尾内ダム方水路にゲートが下ろされ湛水開始する。
1972(昭和47)年、7月上士別町13線南2にて5〜6千年前と思われる居住跡地が発見される。11月道道101下川愛別線、朝日〜下川間開通する。12月森永乳業士別工場閉鎖となる。
1976(昭和51)年、6月少年自然の村を上士別遺跡近くに開村。7月SLをつくも水郷公園に保存。8月第一回手塩川祭り開催。9月温根別ダム工事着工。
1978(昭和53)年、1月天塩岳道立自然公園に指定される。西條士別店オープン。7月屯田兵屋と上士別遺跡を士別市文化財として指定する。
1980(昭和55)年、1月日向スキー場オープン。6月日向森林公園オープン。
1981(昭和56)年、7月士別市立博物館落成。翌年屯田兵屋を博物館に移転する。
1983(昭和58)年、6月ポンテシオ発電所運転開始。10月天塩岳ヒュッテ完成。
1984(昭和59)年、10月岩尾内湖展望台完成。トヨタ自動車(株)士別試験場第一期工事完成。
1986(昭和61)年、3月温根別ダム竣工。
1988(昭和63)年、1月トヨタ自動車士別試験場の竣工式を挙行。8月天塩岳避難小屋完成。
1991(平成3)年、10月天塩岳避難小屋にトイレ完成。
2000(平成12)年、12月岩尾内湖白樺キャンプ場管理棟完成。
2005(平成17)年、1月士別市、朝日町合併協定に調印する。9月1日士別市と合併し、士別市となる。
2009(平成21)年、デイジー食品工業士別工場が閉鎖となる。
士別市史・新士別市史参考


中心の堤防上に看板があります。
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