北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

名寄市北国博物館

住所 名寄市字緑丘222
TEL 01654-3-2575
営業時間 9時〜17時(入館は16時30分まで)
定休日 毎週月曜日、年末年始
入館料  一般・学生は220円・高校生以下は無料

なよろ観光まちづくり協会

名寄市の由来はアイヌ語の「ナイ・オロ・プト」(渓流に注ぐ口)。名寄川天塩川に注ぐ様子から。松浦武四郎が著した「天塩日誌」では「左ナイブト 本名ナヨロフト」と記している。
緑丘の由来は、名寄太、名寄太原野と当時は呼ばれていた。1939(昭和14)年名寄町の字名地番改正した。緑丘になったいきさつはわからなかった。
名寄市内の道道540号名寄停車場線道道538号旭名寄線の大通り南9・10条交差点を旭方向へ約550mの交差点(看板有)を左折し宗谷本線の踏切を渡り左折、すぐ右折し道なりに進むと駐車場にでる。

「名寄の歴史と自然に学び、その知恵を発展させ継承する拠点」として、旧名寄本線跡地内に1996(平成8)年2月開館した。北側には「名寄公園」が隣接し、広大な敷地にハルニレやミズナラなどの原生林と人工林が広がり散策路が整備されている。春は桜の名所としても知られ、池にはボートもあり20分400円とのこと。他にもパークゴルフ場やテニスコート、野球場などもある。
館内に入ってまず見えるのが、エントランスホールに設置された「フーコーの振り子」だ。地球の自転を証明する設備で、館内の常設展示を見てから再度見ると位置がずれていることが分かる。振り子の長さは13m。鉄球の重さは50kgで、名寄市郷土資料室にあったものを移設した。元神奈川大学教授で工学博士の「清水三郎」氏が設計し、「清原叡」氏により設置された。
ギャラリーホールでは、資料や写真などによる特別展示や企画展示を定期的に開催し、体験学習、憩いの場など多目的空間となっている。
博物館の常設展示は、市民から提供されたのを含む生活資料・文献・考古・地学資料などが約10万点ほどあり、その一部を展示している。テーマごとに分かれており、1北国・名寄 どうして多雪・寒冷なのか、2北の先史 氷河期後の自然と人間の暮らし、3カムイの森 冬の森を通してみたアイヌの自然と文化、4さむさ、ひと、くらし 住まいと生活資料からたどる雪・寒さとの関わり合いの歴史、5映像コーナー 3面マルチスクリーンによる細氷現象を中心とした四季の変化と名寄市の花鳥木、6指定文化財郷土コーナー 国指定天然記念物「鈴石」「高師小僧」・アイヌの伝承者「北風磯吉」・名寄が生んだ名力士「名寄岩」の紹介をしている。2010(平成22)年2月に常設展示室内の映像展示コーナーを全面リニューアルしている。ちなみに博物館の外(博物館の正面北側)にはSL排雪列車「キマロキ」がある。


緑丘地区は、東部の標高160mほどを最高点として西側に緩やかに傾斜している。集落は国道沿いの東側に集中しており、線路側には名寄公園や名寄神社もある。南東部にある洪積層中には砂や粘土が鉄分に覆われ褐鉄鉱となり、後に内部が崩れて空洞となり振ると音の出る天然記念物である名寄鈴石の包蔵地40アールもある。名寄は、1872(明治5)年宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。1887(明治20)年上川郡に上名寄(現・名寄市)、多寄、士別、剣淵の四ヵ村を置き、増毛支庁の管轄に入る。1888(明治21)年7月地質調査隊の内田瀞ら一行が、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画を設定する。1897(明治30)年5月天塩道路(現・国道40号)旭川着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。1899(明治32)年5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。1900(明治33)年10月上名寄〜士別間の仮県道完成する。 1902(明治35)年4月剣淵戸長役場より上名寄、多寄、下名寄村が分離し、三村戸長役場を上名寄村に設置する。9月三村戸長役場庁舎完成する。(現・大通り1丁目)。上名寄簡易教育所開所する。名寄神社建設される。1903(明治36)年9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。1909(明治42)年4月戸長役場制が廃止となり二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。
 1915(大正4)年11月一級町村制施行し名寄町となる。1919(大正8)年7月名寄町役場竣工する。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。
 1934(昭和9)年、3月名寄都市計画区域に指定される。1939(昭和14)年6月名寄町の字名地番改正する。9月「名寄鈴石」(なよろすずいし)が天然記念物に指定さる。1956(昭和31)年4月市制施行し名寄市となる。
 1989(平成元)年4月名寄本線廃止となる。1996(平成8)年2月名寄市北国博物館オープンする。2006(平成18)年3月風連町と合併し新・名寄市が発足する。


1798(寛政10)年、7月幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日誌)
1800(寛政12)年、間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。
1807(文化4)年、近藤重蔵が宗谷の帰路に天塩川を遡り、石狩川筋にでる。
1859(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前は水戸藩の支配下にあった)
1871(明治4)年、8月天塩一帯(天塩・中川・上川)の支配は水戸藩から開拓使に移る。
1872(明治5)年、宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。
1877(明治10)年、10月苫前戸長役場の管轄下に入る。
1880(明治13)年、3月増毛、留萌、苫前、上川、中川6郡を管轄する、増毛郡役所が開庁しその治下に入る。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1887(明治20)年、上川郡に上名寄(現・名寄市)、多寄、士別、剣淵の四ヵ村を置き、増毛支庁の管轄に入る。
1888(明治21)年、7月地質調査隊の内田瀞ら一行が、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画を設定する。
1897(明治30)年、5月天塩道路(現・国道40号)旭川着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。
1898(明治31)年、5月大屋敷磯吉が上名寄村に入植する。
1899(明治32)年、5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。
1900(明治33)年、10月上名寄〜士別間の仮県道完成する。
1901(明治34)年、6月官設駅逓設置される。12月上名寄〜恩根内に至る道路完成する。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場より上名寄、多寄、下名寄村が分離し、三村戸長役場を上名寄村に設置する。5月岐阜、相馬団体で水稲試作する。9月三村戸長役場庁舎完成する。(現・大通り1丁目)。上名寄簡易教育所開所する。名寄神社建設される。
1903(明治36)年、9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。
1904(明治37)年、北見街道の名寄〜紋別間が完工する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。
1906(明治39)年、下名寄(現・美深町)が上名寄戸長役場から分離する。
1909(明治42)年、4月戸長役場制が廃止となり二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。
1911(明治44)年、4月上名寄〜羽幌間の鉄道建設運動がおこる。11月天塩線の名寄〜恩根内間が延伸開業し、智恵文駅、美深駅、紋穂内駅、恩根内駅を新設する。
1912(大正元)年、9月天塩線が宗谷線に改称となる。
1915(大正4)年、11月一級町村制施行し名寄町となる。
1919(大正8)年、7月名寄町役場竣工する。東洋酒精株式会社開設する。9月名羽線(名雨線)の敷設運動始まる。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。宗谷線が宗谷本線に改称となる。
1920(大正9)年、5月旭川監獄名寄出張所(現・名寄拘置支所)設置する。6月下名寄村から智恵文が分村し二級町村制施行する。 名寄女子職業学校(現・名寄市立大学短期大学部)が創設される。
1922(大正11)年、改正鉄道敷設法に予定線として、名雨線「天塩国名寄ヨリ石狩国雨龍ヲ経テ天塩国羽幌ニ至ル鉄道」と記載される。
1924(大正13)年、1月名寄村から下川村が分村する。
1927(昭和2)年、2月株式会社名寄運送社(現・日本通運株式会社)開設される。3月町立名寄高等女学校(現・名寄高等学校)創立する。
1928(昭和3)年、5月北海道バター工場(雪印乳業株式会社)開設する。
1929(昭和4)年、10月名羽線の予算内閣にて成立する。
1930(昭和5)年、3月名寄緬羊組合開設する。4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。
1934(昭和9)年、3月名寄都市計画区域に指定される。名寄大橋竣工する。名羽線(名雨線)の着工にかかる。天塩川治水工事に着手する。名羽線の第65議会で予算23万4900円で着工し、1938(昭和13)年竣工が貴・衆両院を通過する。
1937(昭和12)年、11月名寄〜初茶志内間を名雨線として新規開し、西名寄駅・初茶志内駅を新設。
1939(昭和14)年、6月名寄町の字名地番改正する。9月「名寄鈴石」(なよろすずいし)、「名寄高師小僧」(なよろたかしこぞう)が天然記念物に指定さる。
1941(昭和16)年、10月初茶志内〜朱鞠内間を延伸開業し、幌加内線に名雨線を編入して深川〜名寄間を深名線と改称する。
1943(昭和18)年、6月名寄運動公園開設する。
1952(昭和27)年、2月第1回雪まつり(昭和38年樹氷まつりと改称する)開催する。8月陸上保安隊名寄駐屯部隊キャンプ地工事着工する(現・自衛隊名寄駐屯地)。
1954(昭和29)年、8月智恵文村と合併、新名寄町が発足する。
1956(昭和31)年、4月市制施行し名寄市となる。5月智東の天塩川右岸に先住民族の遺跡(縄文式)が発掘される。
1957(昭和32)年、3月美深〜名寄間の智東道路が完成する。
1959(昭和34)年、11月名羽線が建設線に決定する。
1960(昭和35)年、4月天塩川製紙株式会社名寄工場設立する。
1962(昭和37)年、4月羽幌町にて名羽線起工式挙行。
1964(昭和39)年、9月名寄ゴルフ場完成する。10月名羽線朱鞠内にてくい打式挙行。
1966(昭和41)年、4月天塩川水系一級河川に昇格となる。7月名羽線朱鞠内側着工式挙行。
1970(昭和45)年、7月名寄市プラネタリウム館完成する。8月名寄市立名寄図書館落成・開館する。ピヤシリ観光開発道路開通する。10月開発道路名寄遠別線起工する。12月ピヤシリシャンツェ完成(70m級)する。
1973(昭和48)年、12月名寄市清掃工場完成する。国設名寄ピヤシリスキー場オープンする。
1978(昭和53)年、8月智恵文地区の字名を「字智恵文」に統一する。
1980(昭和55)年、2月雪印乳業名寄工場閉鎖となる。
1981(昭和56)年、5月ピヤシリ森林公園オープンする。
1986(昭和61)年、7月 「スーポロの碑」76年ぶりに再建立される。
1989(平成元)年、4月名寄本線廃止となる。10月ピヤシリにログハウス完成する。
1991(平成3)年、1月住友ゴム名寄タイヤテストコース竣工する。
1995(平成7)年、7月ピヤシリシャンツェ、ミディアムヒル(50m級)完成する。9月深名線廃止となる。
1996(平成8)年、2月名寄市北国博物館オープンする。
1997(平成9)年、11月名寄バイパス(現・名寄美深道路)の名寄IC〜名寄北IC間供用開始する。12月「名寄温泉サンピラー」オープンする。
2000(平成12)年、8月名寄市開拓100年記念式典挙行。
2002(平成14)年、10月ピヤシリシャンツェ ノーマルヒル(K点 90m)完成する。
2003(平成15)年、3月名寄バイパスの名寄北IC〜智恵文IC(現・智恵文南入口)間供用開始する。9月名寄駅開業100周年記念行事挙行。智恵文神社御創祀100年記念式典挙行。11月ピヤシリスキー場第3ペアリフト竣工式挙行。
2006(平成18)年、3月風連町と合併し新・名寄市が発足する。11月名寄バイパスの智恵文南入口〜智恵文IC間供用開始する。
2010(平成22)年、3月名寄バイパスの智恵文IC〜美深IC間の供用開始する。これに伴い名寄バイパス区間全線開通する。
新名寄市史1〜3巻参考

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system