音威子府発祥の地住所 中川郡音威子府村音威子府195付近音威子府村 中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。 音威子府の由来は、アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)または(濁りたる泥川)(漂木の堆積する川口)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからで、こうした濁り川にはイトウがいるので名づけられた。「音江根布」と当初は書かれたが、駅が設置され現在の名に変わった。 国道40号線の音威子府役場と消防支署の交差点から約350m。宗谷本線の踏切を渡り交差点を右折し、約70mほど。 音威子府村(おといねっぷむら)は、上川地方北部に位置する村で、北海道内で最も人口の少ない自治体である。 総面積の80%は森林で占められており、豊富な森林資源を生かした工芸による村おこしを推進し、「森と匠の村」と標榜している。 国道40号線から裏手にあるので目立たない、碑ではなく看板が建つだけだったが、現在はこの看板すら無くなっている。2016(平成28)年5月24日音威子府教育委員会に問い合わせたところ現在は文化財などの今後を協議中でしばらくは更地のままとのこと。今後看板を再度設置するかなども全く白紙の状態であるとの返答を頂きました。 音威子府村は、1897(明治30)年官有地から「御料地」に編入され、1903(明治36)年「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。 1905(明治38)年、御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植。このとき入った場所は比較的平坦な現在の咲来市街地、下北部、南部、止若内(ヤムワッカナイ)だったようで、音威子府地区では本線(現・駅前付近)に入植した。この年は単身入植者がほとんどで、住居とする掘立小屋の建設と、大森林を伐採し熊笹を刈り焼き払うのが主な仕事であった。 収穫するものはこの年はほとんどなかったようである。 1906(明治39)年、3月頃単身で入植した者は家族を呼び寄せ、開墾に従事した。1908(明治41)年「国有未開地処分法」により、咲来団体地区(現・咲来から歌登方向に進んだ咲来峠手前付近)に、1909(明治42)年には上物満内(現・物満内)にも入植が始まり、1912(明治45)年には200戸程度の入植者が住み、開墾された面積は400町歩ほどだという。 音威子府地区の入植は、1905(明治38)年加藤兼五郎がリーダーとなり、長瀬定造らと共に剣淵から本線(現・音威子府市街地)に入地し、御料地の借り受けをして現地の下見をして一旦剣淵に戻り、入植希望者を募り1906(明治39)年3月に入植した。 この年の入植者は、加藤兼五郎、加藤岩吉、加藤幸七、宇佐美亀太郎、長瀬定造、渡辺権三郎、渡辺鶴吉、渡辺忠五郎、長尾新右衛門、栗野金平だった。その後も入植者が入り、1908(明治41)年には音威子府川流域の方にも入植が始まる。 しかし、現在の音威子府市街地は当時地味が悪く、入植区画割されていたものの入植者は無く、熊の巣と言われていたそうだ。それでも1912(大正元)年、11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置される前あたりから市街地として再度区画割りされた。 開拓当初の運送は、主に駅逓が当たったようであるが、食料品や、日用品、雑貨などは天塩川を丸木舟で運送されていたようである。船着き場は、咲来では曹洞宗長慶寺(中川郡音威子府村字咲来)の裏手にあった。大正に入り咲来市街地中心部の天塩川沿いに当時小学校があり、南寄りに松原渡船場があった。 音威子府では、現在の役場裏手にあったようだが、現在は築堤があり場所は不明。音威子府に市街地が形成されてからは、現在の道の駅 おといねっぷのそばにある音威子府大橋付近にあった。 音威子府まで鉄道が開通し、1922(大正11)年天塩線の音威子府〜誉平(現・中川)間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設するまで宗谷線方面への物資の運送は、音威子府駅で荷下ろしされ、川舟で運送されていたことから舟付場までトロッコ路線も敷設されていた。このころ天塩川を回漕する舟を長門舟と呼んでいた。これは1900(明治33)年ころに天塩港を基点とし旅河伝次郎が約40石積みの舟を作り「長門丸」と称したことから天塩川を航行する舟は長門舟と呼んだ。 かつては宗谷本線から天北線が分岐し、交通の要衝だったが、天北線廃止後は中頓別・浜頓別方面や枝幸方面へ向かうバスとの乗換駅として、現在も重要な拠点であり、特急列車が停車する。 駅舎内には、立ち食いそば・うどんの常盤軒がある。 営業時間 9時30分〜16時 定休日 水曜日 立ち食い店ではあるがすぐ隣に駅舎のベンチがあるので、どんぶりを持ったまま座って食べることもできる。 実は、音威子府最大の生産量を誇るのはそばで、村内に営業所・工場があり畠山製麺が製造している。 そばの実、皮も全て挽いて粉にするため、麺が真っ黒で風味の強い独特のそばとなっていて、わざわざここまで食べに来るファンも多い。 現在も、「音威子府そば」として村の名産品となっており、土産用そば(生、乾麺)、そばつゆも販売している。 1797(寛政9)年、この年編纂された松前地並西蝦夷地明細記で、「ヲトヱ子フ」と表記されている。当時はテシホ場所に属していた。 1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を訪れ、音威子府村筬島(おさしま)付近でアイヌの長老の元に宿泊、アイヌと深い交流のあった松浦武四郎は、蝦夷地を命名する際に「アイヌの国」と意味する「カイ」を入れ「北加伊道」という名を提案、これがのちに「北海道」となった。現在音威子府村筬島(おさしま)には、北海道命名の地碑がある。 1897(明治30)年、官有地から「御料地」に編入される。 1903(明治36)年、農地を「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。 1904(明治37)年、開拓が始まる。常磐駅逓所(現・咲来地区)の開設、下名寄村から長村秀がこの地に移り住み取扱人になり、これが音威子府村の開基となった。 1905(明治38)年、御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植。富山県人下村鉄太郎外5名が入植する。 1912(大正元)年、11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置された。 1914(大正3)年、11月音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。 1916(大正5)年、中川村(現・中川町)から分村し、咲来市街地に戸長役場を置き、中川郡常盤村となる。 1917(大正6)年、役場庁舎落成する。 1919(大正8)年、二級町村制施行する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、止若内、茨内、音威子府、のちに上音威子府が加わる。11月名寄機関庫音威子府分庫設置。 1921(大正10)年、10月宗谷本線を宗谷線に改称。名寄機関庫音威子府分庫が音威子府機関庫となる。 1922(大正11)年、11月宗谷線を宗谷本線に改称。天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。 1926(大正15)年、9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。 1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。 1956(昭和31)年、咲来地区に簡易水道完成する。 1959(昭和34)年、音威子府地区に簡易水道完成する。 1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。 1963(昭和38)年、常盤村から音威子府村と改称する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、上物満内、止若内、茨内、音威子府、上音威子府。音威子府市街の舗装、水銀灯完成する。 1965(昭和40)年、開村50周年記念式典挙行する。 1967(昭和42)年、天理ケ丘スキー場完成する。 1971(昭和46)年、第1期総合計画を策定、天塩川温泉の建設、音威富士スキー場整備などを行う。 1977(昭和52)年、7月字の区域変更と廃止後の字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来に、上物満内を物満内に、茨内・ヌプトモマナイ・ルベシュペ区画外・チセネシリ・セタオマナイを音威子府に変更、上音威子府はそのまま。 1978(昭和53)年、6月名寄機関区音威子府支区廃止。筬島小学校跡に彫刻家・砂澤ビッキがアトリエを構えた。 1981(昭和56)年、「森と匠の村」を標榜した第2次計画を実施。 1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承。 1989(平成元)年、5月天北線全線廃止。宗谷バスに転換。 1990(平成2)年、5月音威子府駅舎改築。 2006(平成18)年、人口が1000人を割り込む。 音威子府村史・音威子府村史本編上巻参考 |