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温根別湖

住所 士別市温根別町伊文

士別観光協会

ダム便覧 温根別ダム

士別の由来は、アイヌ語の「シペッ」(大いなる川・または本流、親川)の意味で、母なる天塩川がこの地の発展の源であった。 2005(平成17)年9月、朝日町と合併し士別市となった。 読みが同じ標津町と区別するため「名寄士別」と呼ばれる。
温根別の由来は、アイヌ語の「オンネ・ペッ 」(主たる・川、大きい・川)の意。
伊文の由来は、当初イヌウシュベツと呼ばれこれは犬牛別川沿いに集落があったからであろう。アイヌ語の「イヌヌシペッ」(魚取りに滞在する・することを習いとする・川)もしくは(漁人の仮小屋ある川)である。1917(大正6)年、4月犬牛別簡易教習所が犬牛別尋常小学校と改称し、5月伊文尋常小学校と改称するのだが、伊文に名前が変わったことに関してはわからない。
温根別市街地から朱鞠内方向に国道239号線を約1.1km進み、道道251号雨竜旭川線をさらに直進し約10.2kmほど。

剣淵村オンネベツ(温根別地区)の入植は、剣淵村に屯田兵として1899(明治32)年に石川県能美郡三反田村(現・石川県能美郡川北町三反田付近)から田西喜三郎が家族と共に移住してきた。その弟である田西由太郎が、1901(明治34)年6月南7線に入植したのが温根別開拓の先駆者とされている。
この辺りは土地が肥沃で、農耕に適した場所だったからである。1924(大正13)年頃からは分村の気運も高まり「分村期成会」が発足。 1927(昭和2)年、10月剣淵村を分割し、温根別村が独立する。請願では村名を「静川村」と命名していたが、温根別に改称した。
当時の温根別地区では、地域の開発と共に灌漑用水不足に度々悩まされ不安定な経営を余儀なくされていた。
このことから、農業の近代化と合理化を進めるために犬牛別川上流に温根別ダムを建設し、畑地灌漑を含めた農業用水の確保とそれに伴う土地基盤整備を行い安定した農業経営の確立を図った。
ダムの着工は1972(昭和47)年、1982(昭和57)年には計画変更があり、1985(昭和60)年に竣工した。事業費は60億4253万円ほど。ダムに関係する市町は士別市と剣淵町。

ここには伊文部落があり、温根別ダムによって水没した。
ダム湖周辺には、「望郷懐旧」の碑と「感謝悠久」の碑が立つが、私はスルーしてしまったため写真はありません。
水量の少ない時期には旧道跡を見ることができ、少し上流では水没区域に残されたコンクリートの建造物があるが、士別市史に地図が載っており学校の跡ではないかと推測したが、伊文生産組合の飼料倉庫だったようである。
部落の後始末を最後までしていたのは野村岩雄氏で、1910(明治43)年に伊文で生まれ、酪農と畑作で生活してきた。伊文地区にダムの話が舞い込むとダム対策委員会会長に選ばれ、部落民を納得させ全戸の補償問題や、転出先、代替地問題などに奔走し、水没が決定してからも部落解散、学校閉校の期成会会長として地域に尽力した。
ちなみに温根別ダムは、提高33.7m、提長178m、総貯水量931万2千立方mのロックフィル式ダムである。


1897(明治30)年6月天塩国上川郡に剣淵村・士別村・多寄村・上名寄村が設置され、剣淵村が誕生し、手塩村戸長役場の治下になる。
1898(明治31)年、7月道庁技手佐々木五次郎が、屯田兵移住地区画設定のため士別に来る。北海道庁の河川調査隊が石狩川を遡り、剣淵水源に出る。10月屯田兵施設建設工事着工する。11月仮県道が剣淵村まで開鑿される。
1899(明治32)年、5月増毛支庁の管轄から上川支庁管轄となる。役場も手塩村から剣淵村外3ヶ村戸長役場となる。7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、これを士別開基とする 。
1900(明治33)年、8月天塩線(現・宗谷本線として和寒〜士別間が延伸開業し、剣淵駅、士別駅を新設する。 山畑源蔵が兵村大通で水稲はじめて試作。
1901(明治34)年、温根別への入植はじまる。4月下名寄を加え剣淵外4ヶ村戸長役場となる。この頃温根別伊文3線沢にて砂金の採取が行われる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場から、多寄、上名寄、下名寄が分離し、上名寄外2ヶ村戸長役場を上名寄村に設置する。9月士別村戸長役場設置、神田藤三郎宅を借りて戸長役場を開設した。伊文3線で砂金掘り始まる。温根別原野、仲線にも入植始まる。11月剣淵藤本より温根別原野7線まで道路開通する。
1905(明治38)年、9月第一温根別簡易教育所(温根別小学校の前身)開設。本線・南2線に市街地形成。南9線で広田外次郎、南10線で長谷川吾平が水稲の試作をする。
1906(明治39)年、4月温根別に駅逓所が開設される。取扱人は柳谷忠松となる。
1909(明治42)年、3月伊文地区に岐阜団体が入植する。団長は鈴木国松・石原定右衛門他17名。4月温根別特別教授所(白山小学校の前身)開校。10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 3月上名寄と多寄村の仮定区域を定め、上名寄村風連別が多寄村に編入される。4月二級町村制施行される。
1911(明治44)年、8月仲線に福島団体入植する。11月犬牛別簡易教習所(伊文小学校の前身)開校。
1913(大正2)年、2月温根別にて砂金掘り盛んとなり100人余の作業員が入地する。剣淵〜温根別間の郵便騎馬輸送始まる。4月上士別村が士別村より分村独立する(戸数1004戸)。
1915(大正4)年、士別村に一級町村制が施行される。11月士別町制施行される。
1917(大正6)年、4月犬牛別簡易教習所が犬牛別尋常小学校と改称する。5月伊文尋常小学校と改称する。伊文で澱粉工場が操業する。
1918(大正7)年、伊文地区で水稲試作に成功し、山田政吉が造田する。剣淵7号〜温根別南7線まで道路開通する。
1922(大正11)年、8月伊文水利組合創立する。水利面積は45町歩。
1923(大正12)年、犬牛別〜幌加内市街まで道費により開通する。
1926(大正15)年、公立伊文尋常小学校と改称する。10月校舎66平方m改築する。
1927(昭和2)年、6月温根別役場開庁。10月剣淵村を分割し、温根別村が分村独立する。
1928(昭和3)年、10月北線駅逓開設し、玉置栄吉が取扱人となる。この頃から造田開始する。
1930(昭和5)年、5月士別〜温根別間のバス運行開始する。10月温根別に電燈点く。北線・仲線ダム着工する。
1932(昭和7)年、10月温根別新仲線ダムが決壊する。温根別〜剣淵間の駅逓廃止となる。
1933(昭和8)年、9月南2線〜添牛内間バス運行始まる。
1934(昭和9)年、温根別仲線ダム完工する。この頃除虫菊の生産が盛んになる。
1938(昭和13)年、朱鞠内ダム建設に伴い北線川改修工事着工。
1939(昭和14)年、8月北線ダム洪水により決壊する。
1943(昭和18)年、6月温根別村2級町村制廃止となり、内務大臣指定村となる。
1947(昭和22)年、4月温根別村立伊文小学校と改称する。温根別中学校開校する(小学校に併置)。戦後開拓者18戸が入地する。
1951(昭和26)年、10月校舎を温根別村字犬牛別8線西3番地に移転し改築する。
1952(昭和27)年、白山・北温・伊文中学校は独立校となる。
1954(昭和29)年、7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。士別市立伊文小学校と改称する。9月市制施行記念式典挙行。
1957(昭和32)年、伊文3線砂防ダム完成する。伊文開基50周年記念式典挙行。
1959(昭和34)年、10月伊文小学校開校50周年記念式典挙行。
1963(昭和38)年、伊文地区通電する。
1964(昭和39)年、1月農業構造改善事業として農業組合法人「伊文生産組合」を設立する。
1966(昭和41)年、伊文ダム調査開始。
1969(昭和44)年、北線ダム復旧工事完了。
1970(昭和45)年、8月温根別ダム実施設計。
1972(昭和47)年、1月温根別ダム全体設計。
1973(昭和48)年、10月温根別ダム伊文水没地区住民と補償調印する。
1974(昭和49)年、9月伊文の大国神社を温根別神社に合祀する。10月伊文小学校・中学校閉校となる。伊文地区解散式挙行。
1975(昭和50)年、4月伊文小・中学校が白山小学校に統合される。
1976(昭和51)年、9月温根別ダム着工する。
1979(昭和54)年、7月温根別ダム定礎式挙行する。
1982(昭和57)年、6月トヨタ自動車士別試験場建設工事着手する。
1984(昭和59)年、4月トヨタ自動車士別試験場修祓式挙行する。第一期工事完成。
1986(昭和61)年、3月温根別ダム竣工。
1987(昭和62)年、10月トヨタ自動車士別試験場第三期工事完了。
1988(昭和63)年、1月トヨタテストコース安全祈願祭挙行。11月ダイハツ自動車試験場耐寒テスト開始。
1998(平成10)年、3月道営北線ダム完了。
記念誌平成15年発行の翔温百進参考(伊文地区に特化し年表は作成しています)

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