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松浦武四郎宿営の地 オクルマトマナイ

住所 中川郡美深町恩根内 天塩川右岸

美深町観光協会

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
美深の由来は、アイヌ語の「ピウカ」(石の多い場所)から。
恩根内の由来は、アイヌ語の「オンネ・ナイ」(親である川)(老川)から。
道の駅 びふかから音威子府方向に約5.2kmほど国道40号進み側道を左手に入り約350mほど、宗谷本線の踏切を渡って直進し右手。

12日、前日に泊まったトンベツホ(音威子府頓別坊・ベンケオニサツベ)を出発し、ノホリケソマ(左川)、この辺りは両岸が切り立った崖。ここを過ぎるとモノマナイ(音威子府村物満内)、トオリツハツタリ(大渕)でチョウザメが沢山居た。チウシヒリ(左山)、セタオマナイ(右川・左崖)、オトイネフ(左中川・中川郡音威子府村)、この近くに民家が一軒ありレウタンケ(家族5人)が住んでいる。さらに進みツトモオマナイ(右川)、サツル(左川・音威子府咲来)、ヘンケサツル(左川)、オヒタルンナイ(右川)、ヤムワッカナイ(右川・音威子府止若内)ウツカヤト岳(右山)、テーヘケナイ(左川)、オンネナイ(美深町恩根内)、シユンクタウシユキコマ(左川)、カマソ(急瀬)、ナウルナイ(左川)、シユマルクテ(左川)、オクルマトマナイ(左川・美深町小車)と進み、オクルマトマナイに泊まった。(現在の小車川は右川に当たるため間違えたものと思われるようだ)
ここの一軒家は、エカシテカニ家族12人が住んでいた。天塩日誌では、この家は貧しげで屋根の破れにはふきの葉をかぶせただけの有様だったようである。
家に入るとタイキ(ノミ)が足にゴマを振りかけたかの如く飛びつき、払いのける様を見て子供たちが柳の大きな皮を剥いできて武四郎の座るところに敷いてくれた。
やがて母が帰ってきて、トレフ(ウバユリ)の団子を作ってくれた。ブシニ(朴)の葉で箱型の容器を作ってくれてそれに盛って出してくれた。その容器の作り方が珍しく帰途に数個もらい、あとである人に見せると「これらは古い葉手即ちひらて、くぼて、葉椀などの類と同じようなもので、本土では後世まで祭具に用いられたものだ」ということで、この地に本土の風習が残っているのも不思議なものだと思ったそうだ。
 トレフの団子を御馳走になったので武四郎も粥を沢山煮て、家族に振舞った。
夜には、この家の妻が炉に青葉を焚き蚊遣りをし、五弦琴を弾いてくれた。その音色は奥ゆかしく雅であった。「琴唄はないのか?」と尋ねると、「昔はあったが、今は忘れられ曲だけになった」と話してくれた。


翌13日、遠くの連山に残雪が見えるのを確認し出発する。オテレコツヘ(右川)、フトシヤウシナイ(右川)、この辺りも岩が両岸から突き出し、舟を網で引いて川を遡る。
テツシ(急流)にかかる、ここは川の中に岩が一列に並び、やな(梁)をかけたように見える。ここには大昔、神が岩を並べたという伝説があり、神聖なところとされている。テツシはやな(梁)のことである。
ここを過ぎると、パンケニウブ(左川・美深町斑渓仁宇布)、ウリウルベシベ(右川)、この川筋にはウリウ(雨竜郡)へ行く道が有ったと言われている。オキキイナイ(左川・雄木禽川)、ヒウカ(中川郡美深町)、ハンケトウイハラ(右川)、タイキオナイ(右川)、ヘチルル(左川)、ヘンケニウブ(左川・美深町辺渓仁宇布)、ここに人家が2軒ありコロカイは家族4人、トウリヘは家族二人だった。今夜はここで宿を取ったが蚊や虻が多くて難儀したようである。行程は七里(現・美深2線の鉄道付近)。近くには松浦武四郎宿営地  ヘンケニウブがある。
 ここではアイヌに伝わる染色技術も克明に記述されている。その後ナイフト(名寄)方向に進んでいく。

行程を折り返してきた一行は、25日はナイフト(名寄市)に泊まる。
26日は、舟を出し川の流れ早く夜にはオクルマトマナイのエカシテカニの家に再度泊まる。
27日は、11日にも泊まった、トンベツボ(音威子府村頓別坊)でアエトモの家に泊まる。アエトモはエカシ(長老)であり、様々な故事に詳しかった。「アイヌと普通は言うが、樺太ではカイナーと言い、この辺りでも男をカイナー、女をカイチーと言う」エカシは「カイというのはこの国に生まれた者ということで、ナはニシパ(長老)をさして旦那などという敬語であったのがアイノと呼び馴わした。しかし深山のコタンでは和人と接していないので、カイナーと言っている」と答えた。
1869(明治2)年、武四郎は、明治政府に蝦夷地の新しい名をつけるよう命じられる。
熱田大神縁起頭書によると「夷人自らその国を呼ぶに加伊(かい)という、加伊はけだしその地名。その地その人、ひげ長きゆえに蝦夷(かい)の字を用う。その実ただにえびをとって、これを名ずくるには非るなり」とあり、「この地は、北にあるカイの人々の国」という意味を込めて「北加伊道」と命名。幕府はこれを取り入れて「東海道」などにならい蝦夷地を「北海道」と改称した。

現在は、中川郡音威子府村物満内に北海道命名の地碑があり武四郎の功績を讃えている。

当時、天塩川流域の調査は往復24日間の道程で、豊かな自然とアイヌ文化に触れる旅でもあった、武四郎は「この地でアイヌの人々の暖かい心に触れました。」と記しており、お礼に詩2首を送っている。
美深町森林公園びふかアイランド内に松浦武四郎踏査之地碑があり武四郎が詠んだ感謝の歌である。
ゑみしらは筍にもる飯も古の
さまをつたへて葉椀にぞもる

かきならす五の緒ごと音さえて
千々の思いをわれも曳きけり

この日誌に基づき1935(昭和10)年12月恩根内17線踏切近くに、笠原晴雄氏が「幕吏松浦判官探検宿営之地」と記した木製の標柱を建て、武四郎の偉業と功績を讃えた。
1959(昭和34)年頃、この碑を恩根内28番地8に移設する。
美深町史では13日に宿泊とあるため、日付と文章は、丸山道子訳・松浦武四郎著「手塩日誌」を優先し参考としています。


松浦武四郎 宿営の地
 松浦武四郎は、安政4年(1875)旧暦の6月9日天塩を出立、
天塩川を遡って6月13日夜、この地のエカシテカニの家に一泊した。
さらに士別方面の調査を終え、6月24日帰路一泊している。
 武四郎が一夜の宿をした「エカシテカニ」の家族12人が一行を心
優しくもてなした様子や、当時のアイヌの生活状態、さらにこの地方
に伝わる五絃琴など「天塩日誌」や「アイヌ人物誌」などに見事に描
写されている。エカシテカニ家族の心のこもったウバユリ団子や母が
弾いた五絃琴の音色の手厚いもてなしに感激した武四郎は詩2首を柱
に記し送っている。美深町は、この詩を後世に継承するため「びふか
アイランド」内に詩碑を建立している。
 この地において、松浦武四郎探検家の研究者であった笠原晴雄氏は
偉大なる探検家武四郎の偉業を讃えようと昭和初期からこの地に「幕
吏松浦判官探検宿営之地」と記した木柱を建立していた。
 美深町は、この地を文化史跡として末永く武四郎の偉業を讃えここ
に碑を建立する。
平成10年10月 美深町

恩根内地区(現・西里以北)は、1936(昭和11)年からの字名で、開拓当初からオンネナイの名前が使われてきた。元は美深町の一部、オンネナイ・オン子ナイ・オンネナイ原野・オン子ナイ原野・シユマルプ子プだった。松浦武四郎が著した「丁巳日誌」にはヲン子ナイの記述がある。この頃のヲン子ナイは恩根内市街地よりも北の天塩川支流を指しているという。1857(安政4)年松浦武四郎が天塩川を遡り天塩国上川郡、中川郡を踏査する。旧暦6月7日天塩出発、12日恩根内オクルマツオマナイ(恩根内)エカシテカニの家に泊まる。13日ペンケニウプに1泊する。1858(安政5)年松浦武四郎が再度立ち寄る。
 1872(明治5)年10月8日宗谷支庁中主典佐藤正克らが天塩川を遡り上川郡と中川郡の調査をし、オクルマトマナイ(恩根内)に一泊する。1888(明治21)年内田瀞、柳本道義らが植民地選定測量のため美深に入り調査する。1891(明治24)年北海道植民地選定報文が刊行、この中にピウカ原野・オンネナイ原野と書かれる。1901(明治34)年恩根内原野として植民地選定調査が行われた場所で、最初の入植者は同年6月徳島県人笠原新吉が1〜14線までを団体移住、14〜27線までを財産証明などで540町歩の払い下げを受け、45戸の小作者を入植させた。恩根内16線に官設渡船場設置。しかし1〜14線はどういうわけか着手不能となり没収されている。同年11月1〜3線に秋川銀太郎が愛媛団体の団長となり約20万坪の貸下げを受けて入植する。1902(明治35)年3月に愛媛県人の神野槌之丈が3万坪の払い下げを受けて入植する。仮定県道開削する。11月オンネナイ駅逓所設置。取扱人坂東高三郎となる。1903(明治36)年3月に服部惣吉を団長とする徳島県渋野村と生名村の20戸が9〜13線に27万5000坪の払い下げを受け入植した。徳島県人青木卯蔵が団長となり11線で36万坪の貸付を受け開墾に従事し、福島県人本多美之助も4線東にて27万坪の払い下げを受け入地した。オンネナイ駅逓所を森内駅逓所に改称する。恩根内簡易教育所開設する。1908(明治41)年ピウカ駅逓所とオンネナイ駅逓所を9線に移設する。1909(明治42)年6月名寄〜恩根内間の鉄道敷設工事着工。恩根内簡易教育所は恩根内第二尋常小学校となる。1911(明治44)年11月天塩鉄道(現・宗谷本線)名寄〜恩根内間を延伸開業、恩根内駅を新設。恩根内駅前には50戸ほどの集落ができる。宿屋2軒・駅逓兼宿場1軒・運送業2軒・雑貨店10軒。1912(明治45)年浄土真宗本願寺派の説教所(後の)開設する。
 1912(大正元)年11月恩根内〜音威子府間を延伸開業、咲来・音威子府駅を新設。1914(大正3)年駅逓廃止する。1920(大正9)年6月1日智恵文村分村、下名寄村を美深村と改称する。1922(大正11)年永久橋である恩根内橋を架け渡船場を廃止する。この頃の恩根内市街地の戸数は60戸、310人。付近の戸数は261戸、1382人。1923(大正12)年1級町村制施行し、美深町となる。
 1927(昭和2)年真宗大谷派明誓寺開設する。1932(昭和7)年恩根内診療所開設する。1934(昭和9)年恩根内に水銀発見する(東洋水銀鉱業開発)。1945(昭和20)年小車水銀鉱閉鎖。1950(昭和25)年の世帯数は192戸、1040人。1978(昭和53)年真宗大谷派明誓寺廃寺となる。1982(昭和57)年教恩寺は廃寺となる。


1807(文化4)年、近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1811(文化8)年、間宮林蔵が天塩川を遡って実測をする。
1821(文政4)年、中川郡・上川郡は天塩場所に属する。幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川を遡り天塩国上川郡、中川郡を踏査する。旧暦6月7日天塩出発、12日恩根内オクルマツオマナイ(恩根内)エカシテカニの家に泊まる。13日ペンケニウプに1泊する。
1858(安政5)年、松浦武四郎が再度立ち寄る。
1869(明治2)年、8月15日蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。
1871(明治4)年、8月1日天塩・上川・中川一帯は水戸藩から開拓使に引き継がれる。
1872(明治5)年、10月8日宗谷支庁中主典佐藤正克らが天塩川を遡り上川郡と中川郡の調査をし、オクルマトマナイ(恩根内)に一泊する。
1880(明治13)年、天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1888(明治21)年、内田瀞、柳本道義らが植民地選定測量のため美深に入り調査する。
1889(明治22)年、横山荘次郎、石川貞治らが地質調査の為天塩川を遡り石狩川上流に至る。
1891(明治24)年、北海道植民地選定報文が刊行、この中にピウカ原野・オンネナイ原野と書かれる。
1893(明治26)年、増毛外5郡長長林顕三が丸木舟で天塩川を遡り調査する。
1897(明治30)年、5月6日天塩鉄道(現・宗谷本線)旭川より着工。天塩村の戸長役場管轄から中川・上川両郡を分離する。
1899(明治32)年、平喜三郎開拓の鍬を下ろし、美深町開基となる。
1900(明治33)年、山梨磐作、長野県人宮原代太郎入植。
1901(明治34)年、天塩国中川郡を上川支庁に編入、剣淵3ヵ村戸長役場所属となる。徳島県人笠原新吉が恩根内に入植。恩根内16線に官設渡船場設置。11月美深2線にピウカ駅逓所設置。駅逓取扱人に十亀庄平となる。
1902(明治35)年、11月オンネナイ駅逓所設置。取扱人に坂東高三郎となる。大久保農場で水田の試作が始まる。近藤農場内に簡易教育所設置。脇田某が2線に旅館を開く。
1905(明治38)年、2月ピウカ駅逓所を川端駅逓所に改称する。オンネナイ駅逓所を森内駅逓所に改称する。
1906(明治39)年、中川郡に中川村設置、上名寄外3村戸長役場所属となる。中川郡は下名寄村・中川村の2村となる。牧浦文蔵が8線で旅館を開く(市街地最初の旅館)。
1907(明治40)年、上名寄外3ヵ村戸長役場から分離、下名寄外1村戸長役場を美深5線に開庁。福島団体長竹内善兵衛がニウプに入植。
1908(明治41)年、ピウカ駅逓所とオンネナイ駅逓所を9線に移設する。
1909(明治42)年、6月名寄〜恩根内間の鉄道敷設工事着工。
1911(明治44)年、11月3日名寄〜恩根内間を延伸開業、智恵文・美深・紋穂内・恩根内駅を新設。
1912(明治45)年、1月ニウプ駅逓所設置(ニウプ25線)。折扱人に矢敷和佐となる。
1912(大正元)年、9月21日宗谷線に線名を改称。11月5日恩根内〜音威子府間を延伸開業、咲来・音威子府駅を新設。
1914(大正3)年、駅逓廃止する。
1916(大正5)年、北海木材工場自家発電により市街地に電気が点る。
1920(大正9)年、6月1日智恵文村分村、下名寄村を美深村と改称する。7月21日電話が開通。
1921(大正10)年、仁宇布発電所営業開始。
1922(大正11)年、11月4日宗谷線を宗谷本線に改称。
1923(大正12)年、1級町村制施行し、美深町となる。7月1日紋穂内にて石炭掘る。美深駅逓所廃止。
1931(昭和6)年、美深枝幸間鉄道敷設第1回現地調査実施。
1934(昭和9)年、恩根内に水銀発見する(東洋水銀鉱業開発)。
1935(昭和10)年、仁宇布殖民軌道が、仁宇布25線まで開通する。
1944(昭和19)年、道支弁森林軌道仁宇布25線から30線まで延長する。
1945(昭和20)年、小車水銀鉱閉鎖。
1948(昭和23)年、9月27日美深〜枝幸間鉄道敷設予定路線を西尾町長一行が実地踏査。
1951(昭和26)年、美深駅名「ぴうか」を「びふか」に改称。
1952(昭和27)年、7月美深〜枝幸間鉄道の名称を「美幸線」にする。
1955(昭和30)年、8月19日中国人俘殉難者慰霊祭執行。
1957(昭和32)年、7月4日美幸線着工式挙行。
1963(昭和38)年、仁宇布殖民軌道廃止。
1964(昭和39)年、美幸線、美深〜仁宇布間開通。
1973(昭和48)年、美深松山湿原が北海道学術自然保護区に指定される。
1976(昭和51)年、美深松山湿原が北海道自然環境保全地域に指定される。
1980(昭和55)年、美深森林公園内に林業保養センターびふか温泉オープンする。
1983(昭和58)年、森林公園に下村湖人歌碑建立する。
1984(昭和59)年、美深温泉内にチョウザメ鑑賞水槽完成。
1985(昭和60)年、美幸線廃止となる。
1989(平成元)年、シラカバ樹液「森の雫」商品化する。
1992(平成4)年、物産展示館「双子座館」オープン。びふか温泉増改築する。
1993(平成5)年、美深アイランド「双子座館」を道の駅に指定する。
1997(平成9)年、びふかアイランドにチョウザメ館オープンする。
1998(平成10)年、仁宇布トロッコ王国開国する。美深町開基100年記念式典挙行。松浦武四郎踏査之詩碑建立する。
2004(平成16)年、町内初、NPO法人トロッコ王国美深誕生する。
2007(平成19)年、仁宇布地区の新名所、「深緑の滝」「仁宇布の名水」に決定。
美深町史参考

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