北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

松浦武四郎宿営地 リイチャニ(ケネフチ)

住所 士別市北町(剣淵川堤防)

士別観光協会

士別の由来は、アイヌ語の「シペッ」(大いなる川・または本流、親川)の意味で、母なる天塩川がこの地の発展の源であった。 2005(平成17)年9月朝日町と合併し士別市となった。 読みが同じ標津町と区別するため「名寄士別」と呼ばれる。
北町の由来は、中央市街地より北部に位置するため。
国道40号線国道239号線の交差点を羽幌方向に約600mの交差点を右折し、道道976号西風連士別線を名寄方向に約3.1kmを左折し、道なりに約1.9kmの交差点を左折し、剣淵川の堤防方向に進んだ先にある。

かなり分かり難い場所にあるので注意してほしい。案内看板などは一切ない。

6月20日、ナイブト(名寄市)から舟を出し、天塩川本流にでる。フシコフト(右川)、ウリウルベシベ(右川・名寄市有利里川)この川筋はウリウ(雨竜郡)に出る山越えの道筋だたようである。
ケロムンウシナイ(左川)、フウレベツ(左中川・名寄市風連町)、タヨロマ(左川・タヨロマ川)、ユウンベウンフト(右川)大きな渕で五尋(1尋(ひろ)は約1.81mなので約9.05mほどだろうか)のチョウザメが上がったという意味の名称とのこと。
クワウシナイ(右川)、トツフトンナイ(並行して)、フイタウシナイ(右川)、ニセウクシナイ(右川)、キナチャウシナイ(左川)、ヘタヌ(二股・天塩川本流と剣淵川の合流点)、ここにも大きな渕があり、右にケネフチ(大川・士別市剣淵川川口)、これは赤楊(ハンノキ)が多い意味。このあたりの乙名ニシハコロ(家族9人)の家に泊まる。ここまでの行程は凡そ7里。
このケネフチは天塩川第二の支流であり、この川に沿い点々とアイヌの小部落があるという。さらに上流では川が二つに分かれ右の方は犬牛別川(雨竜方面)、左の方は石狩川ヒイ(比布川方向)に向かう。アイヌはこの川筋を往来していたようである。

翌日21日は、この年は閏年で立秋とおもうが暦が無く分からなかったと書いてある。
この日は、ケネフチ(剣淵川)を50町歩ほど遡り、大体の地形を見て引き返した。
それから天塩川本流に戻る。ウツ(急流)では人家が3軒あった。ここを過ぎてマクンベツ(右川)、クンカツテックル(平地)に3軒があった。
さらに進むと、川の流れが幾筋にもなり、流木や倒木が多く難儀しながら舟を進めた。オンネト(右小川上沼)を過ぎサッテクベツ(左川)に到着する。天塩から同行したアエリテンカ(家族3人)、トセツ(家族4人)の家があるが、皆出かけており留守だった。近くにはルヒサンケ(家族3人)の家もあるがどこも留守だったようである。
ここにも松浦武四郎宿営地(サッテクベツ)がある。

案内板
「天之穂日誌」によると、松浦武四郎は、1857年
(安政4年)旧暦6月19日に、ここリイチャニのニシパ
コロの家に宿泊している。
「その家は誰も住んでおらず、屋根も腐れていた
ので、そのそばに野宿しようとしたが、蚊が多くて食
事もできない始末。しかたなく家に入り、火をも燃やし
て泊まったが、明け方前に雨が降り出し、滝のような
雨漏りにどうしょうもなく、ずぶ濡れになってしまっ
た。」とある。
 武四郎は次の日、剣淵川を50町余り上がって、大
体の地形を見て、合流点へ引き返している。

日付と文章は、丸山道子訳・松浦武四郎著「手塩日誌」を優先し参考としています。


2017(平成29)頃に新たに看板が設置されている。リイチャニの看板は堤防から下りた川側にあるが、新たに設置された看板は堤防上に設置されている。

ここ北町地区は、1898(明治31)年9月には河南友吉が剣淵川と天塩川の合流点近くにて漁を主に暮らしていたのが始まりで、その後は士別屯田兵の共有地となり、北公有地とも呼ばれていた。1912(大正元)年の人口は25戸。1906(明治39)年頃までに7戸の入植を見る。
 士別兵村では公有財産委員会を設置して長くこの地を管理運営し、1915(大正4)年には士別村に一級町村制が施行され、士別町に北公有地は寄附されることとなる。当時の士別町は、500haの北・南公有地の灌漑溝を改修し、水田耕作に力を注ぐが、戦後の農地改革によって公有地は全て解放した。
1936(昭和11)年10月には明治製糖株式会社士別工場(現・日甜)操業開始する。1947(昭和22)年にはタービン水車を原動力とする共同の澱粉工場が開設される。1954(昭和29)年7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。これに伴い北公有地は北町と改称する。1961(昭和36)年には全戸に電気が通る。この頃の人口は72戸400人を越えた。1972(昭和47)年一部が東1条北となった。


1798(寛政10)年、7月幕命により三名が手塩川筋を調査するため遡る。
1857(安政4)年、6月幕吏松浦武四郎が手塩川筋を遡り調査する。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1889(明治22)年、北海道庁の地質調査隊が手塩川を遡る。
1897(明治30)年、6月士別村が設置される。(剣淵村、士別村、多寄村、上多寄村、下多寄村)手塩村戸長役場の治下になる。
1898(明治31)年、5月宮城県人の大内勇記が深川より入植し、開拓の草分けとする。7月道庁技手佐々木五次郎が、屯田兵移住地区画設定のため士別に来る。北海道庁の河川調査隊が石狩川を遡り、剣淵水源に出る。9月河南政次郎が家族とともに入植する。10月屯田兵施設建設工事着工する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁の管轄から上川支庁管轄となる。役場も手塩村から剣淵村外3ヶ村戸長役場となる。7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、これを士別開基とする 。10月士別尋常小学校が開校。
1900(明治33)年、5月新潟県人富山虎三郎率いる12戸が川南に入植。これが上士別村開拓の祖となる。下土別へも入植があった。7月士別郵便局が開設される。8月天塩線(現・宗谷本線として和寒〜士別間が延伸開業し、剣淵駅、士別駅を新設する。 山畑源蔵が兵村大通で水稲はじめて試作。
1901(明治34)年、温根別への入植はじまる。4月下名寄を加え剣淵外4ヶ村戸長役場となる。この頃温根別伊文3線沢にて砂金の採取が行われる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場から、多寄、上名寄、下名寄が分離し、上名寄外2ヶ村戸長役場を上名寄村に設置する。9月士別村戸長役場設置、神田藤三郎宅を借りて戸長役場を開設した。
1903(明治36)年、4月大通り東3丁目に士別村戸長役場庁舎を竣工する。9月手塩線の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。士別市字士別御料農地区画が貸し下げになり開拓が始まる。(1線〜9線)朝日町の開基となる。
1906(明治39)年、4月士別村2級町村制施行される。中川村が上名寄3ヶ村戸長役場の治下となる。士別座が西1条5丁目に開設される。 この頃養蚕が盛んになりハッカ、亜麻も栽培。
1907(明治40)年、1月マッチ製造株式会社士別製軸所が操業する。2月帝国製麻士別工場が操業開始する。3月多寄に市街地が形成される。下名寄、中川の2村が分離して、上名寄外1ヶ村(多寄)となる。
1909(明治42)年、10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 3月上名寄と多寄村の仮定区域を定め、上名寄村風連別が多寄村に編入される。4月二級町村制施行される。11月この頃銭湯が開業する。本通37号(現・士別市朝日町中央4051)で水稲の試作が行われる。(朝日町の水稲の始まり)
1910(明治43)年、7月ペンケ殖民地(乙1線)に入植始まる。12月御料地3線に奥士別駅逓所が設置される。
1913(大正2)年、2月温根別にて砂金掘り盛んとなる。4月上士別村が士別村より分村独立する(戸数1004戸)。御料地市街(現・朝日町市街地)の貸下げが始まる。9月上士別村役場庁舎竣工する。
1915(大正4)年、士別村に一級町村制が施行される。11月士別町制施行される。
1917(大正6)年、11月士別役場新築落成する。(西2条4丁目)御料地25線にニイサマップ駅逓所が設置される。
1919(大正8)年、5月天塩川が氾濫し、開村以来の大水害となる。8月士別軌道株式会社設立。11月手塩水力電気株式会社操業する。
1920(大正9)年、6月士別軌道株式会社が士別〜上士別間に馬車鉄道を運行する。
1923(大正12)年、4月上士別村が一級町村制施行。
1925(大正14)年、上士別〜奥士別間に馬車鉄道開通する。
1926(大正15)年、4月上士別村と境界変更し、中士別12線以東を分割する。5月川西めん羊組合が設立される。 東士別土功組合により、かんがい溝開削がはじまる。
1927(昭和2)年、10月剣淵村を分割し、温根別村が分村独立する。12月士別にタクシーが現れる。同時に人力車が消えた。
1928(昭和3)年、9月馬車鉄道の動力が蒸気機関車になる。
1929(昭和4)年、8月九線神社が5線に移され糸魚神社となる。(現・朝日神社)
1930(昭和5)年、5月士別森林鉄道敷設工事が奥士別を起点に着工する。士別〜温根別間のバス運行開始する。10月温根別に電燈点く。
1931(昭和6)年、ペンケヌカナンブ移民地(三栄地区)の入植始まる。新奥士別移民地(茂志利地区)の入植始まる。
1934(昭和9)年、産業組合(農協の前身)発足。
1936(昭和11)年、10月明治製糖株式会社士別工場(現・日甜)操業開始する。
1938(昭和13)年、4月風連村を分割し、多寄村が分村独立し、多寄村は一級町村制施行。
1945(昭和20)年、9月戦後開拓者12戸63名ペンケ中の沢に入植する。
1946(昭和21)年、東洋製綿工場が操業。 東士別土功組合、甲子土功組合が上士別村土功組合(その後、昭和26年に上士別土地改良区に改称)と合併する。
1948(昭和23)年、6月自家水力発電により似峡地区に電燈が点く。7月士別町開基50周年記念式典挙行。士別、上土別、中士別、多奇、温根別農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、6月士別電報電話局開設される。8月朝日村、上士別村から分村独立し、朝日村が誕生。10月朝日似峡間にバス運行開始。
1951(昭和26)年、12月天塩川電源開発期成会が結成され、岩尾内ダム建設陳情に乗り出す。
1952(昭和27)年、5月北日本農産工業株式会社(デイジー食品工業株式会社の前身)設立する。10月道北製酪協同組合(森永乳業士別工場の前身)設立する。士別〜朝日間道路冬期間の除雪が行われるようになり、バスが通年運行になる。
1954(昭和29)年、7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。9月市制施行記念式典挙行。
1955(昭和30)年、4月デイジー食品工業士別工場操業。10月士別飛行場設置される。
1957(昭和32)年、8月士別郷土研究会が発足する。森永乳業士別工場操業。 板見でん粉工場の製品が全国でん粉品評会にて農林大臣から賞状を授与され、朝日村の名を全国に知らせる。
1958(昭和33)年、士別市立図書館開館する。昭和砂鉄鉱業株式会社による剣淵川の砂クローム採鉱が開始。7月つくも市場開店する。
1959(昭和34)年、7月中央市場開店する。駅前広場造成される。11月道道101下川愛別線、朝日〜愛別間開通する。12月バス路線全線通年運行となる。若林服装研究所(後の若林服装女学院)開校する。
1962(昭和37)年、10月道道61号士別滝の上線が開通する。
1963(昭和38)年、38年度国家予算に、岩尾内ダム実施設計書が計上され、岩尾内ダム建設工事着工される。
1967(昭和42)年、3月似峡小中学校が廃校となる。7月岩尾内ダム建設起工式挙行。天塩川上流総合かん排事業着工。12月つくも水郷公園造成着工。
1969(昭和44)年、8月屯田兵屋を士別神社境内に復元保存する。オーストラリアからサフォーク種めん羊百頭導入。
1970(昭和45)年、11月岩尾内ダム方水路にゲートが下ろされ湛水開始する。
1972(昭和47)年、7月上士別町13線南2にて5〜6千年前と思われる居住跡地が発見される。11月道道101下川愛別線、朝日〜下川間開通する。12月森永乳業士別工場閉鎖となる。
1976(昭和51)年、6月少年自然の村を上士別遺跡近くに開村。7月SLをつくも水郷公園に保存。8月第一回手塩川祭り開催。9月温根別ダム工事着工。
1978(昭和53)年、1月天塩岳道立自然公園に指定される。西條士別店オープン。7月屯田兵屋と上士別遺跡を士別市文化財として指定する。
1980(昭和55)年、1月日向スキー場オープン。6月日向森林公園オープン。
1981(昭和56)年、7月士別市立博物館落成。翌年屯田兵屋を博物館に移転する。
1983(昭和58)年、6月ポンテシオ発電所運転開始。10月天塩岳ヒュッテ完成。
1984(昭和59)年、10月岩尾内湖展望台完成。トヨタ自動車(株)士別試験場第一期工事完成。
1986(昭和61)年、3月温根別ダム竣工。
1988(昭和63)年、1月トヨタ自動車士別試験場の竣工式を挙行。8月天塩岳避難小屋完成。
1991(平成3)年、10月天塩岳避難小屋にトイレ完成。
2000(平成12)年、12月岩尾内湖白樺キャンプ場管理棟完成。
2005(平成17)年、1月士別市、朝日町合併協定に調印する。9月1日士別市と合併し、士別市となる。
2009(平成21)年、デイジー食品工業士別工場が閉鎖となる。
士別市史・新士別市史参考

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system