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咲来開拓之碑

住所 中川郡音威子府村咲来

音威子府村

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
音威子府の由来は、アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)または(濁りたる泥川)(漂木の堆積する川口)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからで、こうした濁り川にはイトウがいるので名づけられた。「音江根布」と当初は書かれたが、駅が設置され現在の名に変わった。
咲来の由来は、アイヌ語の「サク・ル」(夏の通り道)。「パンケサクル」(下流の夏の道)に由来する。かつてはアイヌがオホーツク海側と往来していたことを物語っている。1912(大正元)年11月咲来駅が設置されたときに漢字をあてた。1977(昭和52)年の字名改正時に止若内、ホロカサックル、咲来原野と合わせ現在に至る。
国道40号線沿いにあり、道道220号歌登咲来停車場線の交差点付近にある。

碑は神社の鳥居がある方の高台にある。案内板などはない。

咲来地区は、古くはサクルー・サクル・サツル・パンケサクル・パンケサツルなどとも呼んだ。作留とも書いた。松浦武四郎が著した「丁巳日誌」には「パンケサツル」「ヘンケサツル」という記述もある。1897(明治30)年官有地から「御料地」に編入される。入植は音威子府村史には記録がないとあるが、1903(明治36)年農地を「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。1904(明治37)年3月咲来にパンケサックル駅逓所(常盤駅逓所)が開設し、石川県出身の長村秀が下名寄から来て取扱人となったが、1903(明治36)年10月には初代取扱人に任命されており最初の入地者である。1905(明治38)年パンケサックルを「常盤村」に変更し、常盤駅逓所と改称。由来は咲来市街地から天塩川向いにあったヌプトモマナイ地区に大きなエゾ松があり、当時の上川支庁長が「常盤の松のように栄えるように」と命名したのが「常盤」(この松は大正初期に台風にて倒れた)。12月塚田藤右衛門が長村秀より常盤駅逓所を継承してから、入植が本格的になたようである。この当時北見枝幸の砂金掘りが盛んだったこともあり、この常盤駅逓を経て往来するものが多かった。1906(明治39)年には、鈴木利平、児玉仁三郎、中谷半次郎、山崎栄次郎らを中心に、多くの人が現在の咲来地区で開墾に従事した。この年商店4戸が開店している。(大正中期には商業関係は17軒、旅館3軒にもなった)1907(明治40)年咲来簡易教育所が開設。1908(明治41)年咲来団体地区に奈良、富山、秋田の開拓団が、北海道国有未開地処分法により82戸分の土地貸付を受けて入植した。入植当時の食料は、イナキビ、ソバ、トウモロコシ、ムギ類などが自家用食料で、開墾後はナタネ、ハッカ、防虫菊などが換金作物として栽培した。1909(明治42)年咲来簡易教育所が咲来尋常小学校に改称する。咲来郵便局設置。この頃常磐神社の基礎となる標柱が建立されたが、詳細な場所はわからない。(この碑の隣には鳥居があり、神社らしきものがあるが今もしっかり守られているのかは不明である)1907(明治40)年枝幸港から咲来に通ずる仮定県道工事はじまるが実際に通れるようになったのは1910(明治43)年。1908(明治41)年上幌別32線に駅逓が設置され大友駅逓と称し常盤駅逓との逓送業務行う。。
 1912(大正元)年11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置され駅員は7名在駐した。これにより本幌別(現・枝幸郡枝幸町歌登)から農作物も搬入され市街地は活気ついた。1913(大正2)年止若内(ヤムワッカナイ)の、岡田春治、山田寛一郎が水車式、上北部で松本貞七が水車式、下北部では山下徳一、中谷半次郎が馬回し式の澱粉工場を建設し馬鈴薯から澱粉を製造した。1915(大正4)年下北部(咲来八線)に野田繁造、山下徳市、渡口善松が共同で蒸気式による澱粉工場を建設したが、操作のミスで噴出した蒸気で犠牲者もでたようである。1914(大正5)年音威子府村の前身である常盤村役場が中川村から分離して咲来に設けられる。戸数は452戸、2312人。1919(大正8)年二級町村制施行する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、止若内、茨内、音威子府となる。この頃旅館3軒、商店関係は17軒にもなっている。1920(大正9)年私設消防団が組織される。1923(大正12)年公設消防組が設置され番屋が建設される。戸数75戸、338人。1924(大正13)年6月鉄道の利用などにより利用が低下し、常盤駅逓所は廃止となった。1925(大正14)年咲来側の住民の反対を押し切った形で役場が移転する。(現在の音威子府中心部)役場が移るまで常盤村が中心地だった。

 大正中期から昭和10年頃までは歌登本幌別からの農産物が行き来し、冬には造材の木材が咲来駅まで搬出されて賑った。1935(昭和10)年の世帯数は263戸。1591人。そのうち市街地は81戸、458人。終戦頃までは馬鈴薯が主体だったが前後して稲作も進められている。1947(昭和22)年咲来中学校設立する。1951(昭和26)年北見道路710番地(咲来から咲来峠越えの方面)にて咲来石炭を採掘する。1957(昭和32)年北王炭坑として採掘する。1960(昭和35)年世帯数は266戸、1364人。そのうち市街地は118戸、490人。1962(昭和37)年には農村地区に電気が点く。1963(昭和38)年常盤村から音威子府村と改称する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、上物満内、止若内、茨内、音威子府、上音威子府。 この頃から離農者が増える。世帯数は65戸386人。1977(昭和52)年7月字の区域変更と廃止後の字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来となった。

止若内は、1909(明治42)年に御料地の貸付がはじまった。この年の入植は岡田春治、石川友太郎が、1910(明治43)年には桝井五平、服部寛蔵、十川国一、山田相松、中尾助蔵、山口又市、山口長八、佐々木駒吉、今野鶴松、佐藤忠治、合田吉太郎、松井権右衛門らが入植した。
この地区は、地味肥沃ではあったが西側の山が迫り日照時間が少ないことと、天塩川の対岸だったこともあり、渡船場を渡らなければならない不便な土地であった。1962(昭和37)年には吊り橋が架橋され、1971(昭和46)年には永久橋が架橋され、1973(昭和48)年には天塩川温泉も開発され、現在は住民保養センター 天塩川温泉がある。

余談ではあるが、咲来地区の天塩川両岸には、6か所の遺跡が点在している。先住のアイヌがパンケサックル川沿いにオホーツク海側と往来していたようで、サクルー、サクル、パンケサクルなど「下流の夏の道」と訳されたようである。
止若内も「ヤムワッカナイ」(冷水川)が由来である。旧咲来小学校付近の対岸に当時、大きなエゾマツがありこの松を巡り義経伝説があったようで、狩猟の時の仮小屋を建てた場所だという。松は大正初期に倒れたが「シ子シュンコウシ」(一本の・エゾマツが・そこにいつも立っている・ところ)と地名にも残っており、アイヌにとっても重要な場所だったのだろう。


1797(寛政9)年、この年編纂された松前地並西蝦夷地明細記で、「ヲトヱ子フ」と表記されている。当時はテシホ場所に属していた。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を訪れ、音威子府村筬島(おさしま)付近でアイヌの長老の家に宿泊、アイヌと深い交流のあった松浦武四郎は、蝦夷地を命名する際に「アイヌの国」と意味する「カイ」を入れ「北加伊道」という名を提案、これがのちに「北海道」となった。現在音威子府村筬島(おさしま)には、北海道命名の地碑がある。
1897(明治30)年、官有地から「御料地」に編入される。
1903(明治36)年、農地を「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。
1904(明治37)年、開拓が始まる。常磐駅逓所(現・咲来地区)の開設、下名寄村から石川県人の長村秀がこの地に移り住み取扱人になり、これが音威子府村の開基となった。
1905(明治38)年、御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植。富山県人下村鉄太郎外5名が入植する。
1912(大正元)年、11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置された。
1914(大正3)年、11月音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。
1916(大正5)年、中川村(現・中川町)から分村し、咲来市街地に戸長役場を置き、中川郡常盤村となる。
1917(大正6)年、役場庁舎落成する。
1919(大正8)年、二級町村制施行する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、止若内、茨内、音威子府、のちに上音威子府が加わる。11月名寄機関庫音威子府分庫設置。
1921(大正10)年、10月宗谷本線を宗谷線に改称。名寄機関庫音威子府分庫が音威子府機関庫となる。
1922(大正11)年、11月宗谷線を宗谷本線に改称。天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。
1926(大正15)年、9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。
1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。
1956(昭和31)年、咲来地区に簡易水道完成する。
1959(昭和34)年、音威子府地区に簡易水道完成する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。
1963(昭和38)年、常盤村から音威子府村と改称する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、上物満内、止若内、茨内、音威子府、上音威子府。音威子府市街の舗装、水銀灯完成する。
1965(昭和40)年、開村50周年記念式典挙行する。
1967(昭和42)年、天理ケ丘スキー場完成する。
1971(昭和46)年、第1期総合計画を策定、天塩川温泉の建設、音威富士スキー場整備などを行う。
1977(昭和52)年、7月字の区域変更と廃止後の字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来に、上物満内を物満内に、茨内・ヌプトモマナイ・ルベシュペ区画外・チセネシリ・セタオマナイを音威子府に変更、上音威子府はそのまま。
1978(昭和53)年、6月名寄機関区音威子府支区廃止。筬島小学校跡に彫刻家・砂澤ビッキがアトリエを構えた。
1981(昭和56)年、「森と匠の村」を標榜した第2次計画を実施。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承。
1989(平成元)年、5月天北線全線廃止。宗谷バスに転換。
1990(平成2)年、5月音威子府駅舎改築。
2006(平成18)年、人口が1000人を割り込む。
音威子府村史・音威子府村史本編上巻参考

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