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三毛別羆事件跡地

住所 苫前郡苫前町三渓

苫前町

苫前町は、明治20年代後半になると原野の開拓が始まった。
未開の原野への入植は続いたが、掘っ立て小屋に住み、粗末な衣類を身に付け、空腹に耐えながら原始林に挑み、マサカリで伐採し開墾していた。
大正に入り、町内三毛別・通称六線沢(現・三渓)で貧しい生活に耐えながら原野を拓き、痩せた土地に耕作をしていた15戸の家族に不運が起きたのである。
三毛別の由来は、アイヌ語で「サンケ・ペツ」(川下へ流しだす川)を意味する。
1915(大正4)年、11月初旬のある夜明け前、開拓村の人家に巨大な羆(ヒグマ)が姿を現した。
村は開拓に入ったばかりの土地でもあり、野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、ぬかるみに残った足跡の大きさにビックリしたという。
11月20日、ふたたびヒグマが現れ、隣村から2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せた。
11月30日、三度現れた羆を撃ったが仕留めるには至らなかった。
このとき山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。
大正4年、12月9日〜10日の両日、約380kgの巨大な羆が現れた。冬眠を逸した「穴持たず」と呼ばれる(手負いでもあった)この羆は、空腹に任せて次々と人家を襲い臨月の女性と子供を食い殺したのである。
三毛別川上流に居を構える太田家では、12月9日、当主の三郎の内縁の妻・マユと太田家に預けられていた小児・幹雄の二人が留守に残り、穀物の選別作業をしていた。
同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(通称・オド)(59)が昼にいつものように飯を食べに戻ると、土間の囲炉裏端に幹雄がいたが傍らには血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけた。側頭部には親指大の穴が穿たれ、幹雄は亡くなっていた。
オドはマユを呼んだが何の応答もなかった。
入口の反対側の窓は破られ、土間の囲炉裏まで続く羆の足跡が見つかったのである。
羆の足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていたという。

早朝、男性たちは討伐およびマユの亡骸を収容すべく約30人の捜索隊を結成した。
足跡を追って森に入ると、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。
馬を軽々と越える巨体、全身黒褐色一色で、胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持っていた。
捜索隊に襲いかかった羆は、発砲され逃走し彼らに被害はなかった。
周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に血に染まった雪の一画と、その下から黒い足袋を履いた膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見した。
マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動で、人間の肉の味を覚え、一度口にした獲物に強い執着を示すそうだ。

夜になり、太田家では通夜が行われたが、再びこの羆が現れ、通夜が一転して悲鳴と怒号の渦と化す。
人々は梁に上がったりトイレに逃げて奇跡的に助かった。
益々興奮した羆は再び近くの明景家に襲い、9人のうち5人を喰い殺したのである。
男性たちは明景家を取り囲み、一同は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名を中心に配置、残りは家の裏手に回った。
空砲を撃つと、羆は入口を破って現れ、男性が撃とうとしたが不発。他の者も撃ちかねている隙に、羆は姿を消した。

12月12日、六線沢羆出没の連絡は北海道庁にもたらされ、保安課から羽幌分署長・菅貢警部に討伐隊の組織が指示された。
菅警部は近隣の青年会や消防団またはアイヌにも協力を仰ぎ、多くの人員が三毛別に集まった。

12月13日、旭川の陸軍第7師団から歩兵第28連隊が事件解決のために投入される運びとなり、将兵30名が出動する。
菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。
そして夜、対岸でうごめく物影に菅隊長が、「人か、熊か!」と声をかけるも返答がない。
隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放ったが、闇に紛れて姿を消した。

12月14日、夜が明け対岸を調査した一行は、羆の足跡と血痕を見つけ、討伐隊を差し向ける決定が下された。
いち早く山に入ったのは、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った熊撃ち名人マタギの山本兵吉だった。
ヒグマはミズナラの木で体を休め、山本は20mほどまで近づきハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。
一発目の弾は羆の心臓近くを撃ちぬいた。二発目は頭部を正確に射抜き、12月14日午前10時、日本国内で最も大きな獣害事件で、羆が数度にわたり民家を襲い、7名が死亡、3名の重傷者を出した羆は死んだ。
その時、空には暗雲が立ち込め吹雪も激しくなり、この天候の変わりように人々は恐れおののき、「クマ嵐だ」と叫んだと言われている。
三日間で投入された討伐隊員は、延べ600人、アイヌ犬10頭以上、鉄砲は60丁にのぼる討伐劇だった。
羆は、重さ340s、身の丈2.7mにも及ぶ、エゾヒグマとしてはかなりの巨体を持ったオスだった。
推定7〜8歳と見られ、体に比べ頭部が異様に大きいという特徴を持っていた。現在は、この毛皮や、頭蓋骨はすべて失われ残ってはいないそうだ。


惨劇のあった現場は、当時の情景が再現され開拓者の住居やヒグマの越冬の穴までも含めて当時のままに復元されている。
事件を解説する看板と、民家に襲いかかろうとするヒグマの像がある。
うっそうと木々が茂る現地は、山奥で今にもヒグマが出現しそうな雰囲気。途中の三渓神社に犠牲者の慰霊碑が有る。
場所は、国道239号線の古丹別交差点から道道1049号線を南に入り約18km先にある。

紀元前6000年頃、苫前町に人が住み始める。
紀元前800年頃、香川3線(遺跡)に集落ができる。
1634(寛永11)年、トママイ交易場所開かれる。
1670(寛文10)年、この年に書かれた「寛文拾年狄蜂起集書」に「ともまい」の地名がある。
1804(文化元)年、運上屋を建てる。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が初めて苫前を訪れ宿泊。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再度訪れる。
1858(安政5)年、苫前に一泊した翌日、古丹別川を遡り、イシカルンクシナイに止宿。(現・岩見付近)
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1859(安政6)年、庄内藩の支配地となり陣屋を置く。
1864(元治元)年、大絵馬を奉納される(苫前神社に現存)
1876(明治9)年、子供たちに読み書きを教え寺子屋発祥となる。
1880(明治13)年、 3村(苫前村・白志泊村・力昼村)の長役場を苫前村に設置された。
1894(明治27)年、苫前郡苫前村が白志泊村を編入、苫前郡羽幌村(現・羽幌町)を分村する。
1896(明治29)年、古丹別原野に本州より団体移住する。
1897(明治30)年、苫前村の戸長役場が羽幌村戸長役場を分離する。
1902(明治35)年、苫前郡力昼村(りきびる)を編入、二級町村制、苫前郡苫前村となる。
1915(大正4)年、一級町村制施行される。留萌〜苫前間に乗合馬車が走る。三毛別羆事件が発生し7人犠牲になる。
1922(大正11)年、留萌−羽幌間乗合自動車営業始まる。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線建設工事着工。
1928(昭和3)年、電灯が付き。ラジオが入る。
1931(昭和6)年、鬼鹿〜古丹別間の鉄道開通。
1932(昭和7)年、羽幌まで鉄道開通。
1934(昭和9)年、苫前船入潤(漁港)完成する。
1942(昭和17)年、霧立への森林鉄道開通。林業が本格化する。
1948(昭和23)年、町制施行、現在の苫前町となる。
1958(昭和33)年、国鉄羽幌線全線開通。
1983(昭和58)年、郷土資料館ができる。
1987(昭和62)年、国鉄羽幌線3月29日で廃止する。

国道239号線とは、網走市を起点とし、留萌市を終点とする一般国道である。天塩山地を横断する重要な道路でもある。

道道1049号苫前小平線とは、苫前町と小平町を結ぶ一般道道であるが、苫前町三渓から小平町寧楽までの区間は未開通である。
通称「ベアーロード」との別名がつけられ、道端に熊の絵が描かれた看板が見られる。

ヒグマ(羆)とは、ネコ目(食肉目)クマ科に属する哺乳類で、クマ科では最大の体長を誇る。
オスの成獣で、体長2.5〜3mで体重250〜500kg、メスは、体長1.8〜2.5mで体重100〜300kgほど。
ヒグマは、栄養状態により個体差が顕著で、溯上するサケ・マス類を豊富に食べる環境にいるヒグマは大きくなるという。
中でも有名なのが、エゾヒグマで1980(昭和55)年、羽幌町で射殺された体重450kgの通称「北海太郎」(苫前郷土資料館に剥製が展示されている)や、2007(平成19)年11月にえりも町の箱罠にかかった推定年齢17歳、520kgのオスなど大型の個体もいる。

陸軍第7師団とは大日本帝国陸軍の師団の一つで、1885(明治18)年に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された。
屯田兵を母体とし1896年(明治29年)5月12日に編成され、北辺の守りを担う重要師団であり、「北鎮部隊」と呼んでいたそうだ。

山本兵吉とは、1950(昭和25)年、92歳で没。
彼の前半生について正確なところは分からないが、日露戦争に従軍していたらしい。
鬼鹿村温根沢の住人で、鉄砲撃ちにかけては天塩国にこの人在りと評判が高かった。
山本兵吉が愛用していた銃は、日露戦争に従軍した時に捕獲した戦利品で、軍帽がトレードマークだったという。
生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

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