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札天山収蔵館

住所 上川郡下川町一の橋

開設期間 4月末〜10月末
開館日 毎週土曜日・日曜日・祝祭日
開館時間 9時〜17時
料金 無料

しもかわ観光協会

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を訳したものである。
下川町の由来は、アイヌ語で名寄川支流パンケ川の沿岸を「パンケ・ヌカナン」(川下の・ヌカナン川)と称していたことから、意訳して「下川」とする。
一の橋の由来は、下川市街より興部までの仮定県道(現・国道239号)の開削は、1903(明治36)年に行われ、名寄川に3本の橋が架設され、最上流の橋が「一の橋」である。由来も、名寄川にかかる最上流の橋「一の橋」に由来する。一の橋市街地と幸成からなる。
札天山の由来は近くにある札天山(591.6m)に由来するのであろう。
下川町市街地から国道239号線を興部方向に約11.3kmほどの一の橋市街地右手に小さな看板があるので右折し、約100mほど右手。

ここ一の橋地区は、古くは然別(しかりべつ)と呼ばれ、1903(明治36)年、シカリベツ駅逓が開設され付近に商店が出来る。
1905(明治38)年、2月シカリベツ駅逓を一の橋駅逓に改称する。
1907(明治40)年、一の橋に村上貞次郎入植する。
1920(大正9)年、10月名寄線、下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。一ノ橋駅の開設以降小市街を形成した。鉄道開通に伴い駅逓は廃止される。
その後、一の橋営林署を中心に木工場などが集積したが、鉄道、営林署の廃止により衰退した。


この資料館は、2002(平成14)年に閉校した一の橋小学校を利用したもので、下川町開拓110年を記念して、2009(平成21)年10月下川町郷土資料展示保存施設「札天山収蔵館」として再利用されたもの。
地元で利用されていた農具や下川鉱山サンル鉱山の資料、国鉄名寄本線下川駅等などの資料などを多数展示されている。
館内は様々なコーナーに分けられており、教室をそのまま使った展示室は手作り感漂う面白い演出。当時の児童が書いたものなどそのまま残されていた。
下川町市街地にはこれとは別に下川町ふるさと交流館がある。


体育館に展示されているものは特に興味を惹く。
当時の鉱山で使われていたブルドーザや馬そり、名寄本線の看板、農具など懐かしいものから珍しい物まで並び時間を忘れるほど。



1798(寛政10)年、幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日記
1800(寛政12)年、間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。
1807(文化4)年、近藤重蔵らがオホーツク沿岸から名寄川上流に出る。
1859(安政4)年、松浦武四郎天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。手塩国に6郡が設けられる(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)。8月天塩地方は水戸藩領となる。
1871(明治4)年、天塩一帯の支配は水戸藩から開拓使に移る。
1872(明治5)年、宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。
1882(明治15)年、開拓使廃止され、札幌県に属す。
1886(明治19)年、4月北海道庁を設置する。
1888(明治21)年、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画が設定される。
1897(明治30)年、5月天塩道路(現・国道40号)旭川から着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。(現・下川町は上名寄村に属す)
1899(明治32)年、5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。下川地区区画測量行われる。
1900(明治33)年、上名寄村に山形団体が入植。越中・相馬団体入植する。
1901(明治34)年、岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線〜19線に集団移住し、開拓元年となる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場より分離し、上名寄村他二ヶ村(多寄、下名寄)戸長役場を設置する。上名寄に岐阜団体第二陣が到着する。八丈団体が入植する。5月ニの橋に新潟県人、谷庄三郎が入地する。10月名寄〜下川間に仮道路ができる。
1903(明治36)年、9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。藤原次郎左衛門が水稲の試作に成功する。パンケヌカナン駅逓、シカリベツ駅逓が開設され付近に商店が出来る。下パンケ地区の開拓が始まる。
1904(明治37)年、北見街道の名寄〜紋別間が完工する。6月上名寄19線に簡易教育所設置する。上名寄19線に小祠を建立し天照皇大神を奉斉。
1905(明治38)年、2月パンケヌカナン駅逓を下川駅逓に、シカリベツ駅逓を一の橋駅逓に改称する。4月天塩線が官設鉄道に移管となる。
1906(明治39)年、下名寄(現・美深町)が上名寄戸長役場から分離する。3月下川郵便局が開設される。この頃から下川の木材流送が始まる。
1907(明治40)年、4月下名寄・中川のニ村を割き、上名寄他一ヶ村戸長役場を設置する。23線に下川簡易教育所を設置する。一の橋に村上貞次郎入植する。山火事が起こり上興部の境まで延焼する。砂金ブームとなり下川の各沢で採取・発掘される。澱粉工場が稼働する。
1908(明治41)年、8月下川簡易教育所を下川尋常小学校に改称する。珊瑠・二の橋特別教育所開設される。然別(一の橋)特別教授場開設する。
1909(明治42)年、4月戸長役場制が廃止となり多寄村が離れ、二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。上名寄村風連別が多寄村に編入される。10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 下川医院が開業する。
1911(明治44)年、4月上名寄〜羽幌間の鉄道建設運動がおこる。11月天塩線の名寄〜恩根内間が延伸開業し、智恵文駅、美深駅、紋穂内駅、恩根内駅を新設する。一の橋からの造材が本格化し、夏季に名寄へ流送する。
1912(大正元)年、9月天塩線が宗谷線に改称となる。上パンケ八号以南の開拓が始まる。
1913(大正2)年、上パンケ神社建立する。
1915(大正4)年、11月一級町村制が施行され、上名寄村が名寄町となり属する。ペンケ地区に小作人が入地する。
1916(大正5)年、6月名寄電力発電株式会社設立する。谷井農場でパンケ御料地を借受ける。
1917(大正6)年、サンルにて寺島庄次郎が金の転石発見する。
1918(大正7)年、下川尋常小学校に高等科を設置する。合資会社下川木工場を設立する。名寄線の鉄道工事着工する。
1919(大正8)年、3月下川木工場を株式会社とし、ハネ材を利用して火力発電を行う。余剰電気を市街地にも供給する。9月名羽線(名雨線)の敷設運動始まる。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。宗谷線が宗谷本線に改称となる。上名寄と下川の駅周辺に市街が出来る。
1920(大正9)年、6月下名寄村から智恵文が分村し二級町村制施行する。10月名寄線、下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。名寄女子職業学校(現・名寄市立大学短期大学部)が創設される。
1921(大正10)年、3月中湧別〜興部間が名寄東線として開業する。名寄〜上興部間を名寄西線に改称する。下川で米の試作が行われる。10月上興部〜興部間が延伸開業し全通し、線路全通に伴い線路名を名寄線に改称する。一の橋も駅周辺に市街が形成される。
1922(大正11)年、下川分村運動が広まる。
1923(大正12)年、11月名寄線を名寄本線と改称。
1924(大正13)年、1月名寄町から分村、二級町村制が施行され上川郡下川村となる。
1926(大正15)年、11月上名寄にサケ・マス孵化場設置する。12月珊瑠鉱山が三井鉱山株式会社による操業を開始する。
1928(昭和3)年、5月北海道バター工場(雪印乳業株式会社)開設する。一の橋に村上経木工場開設する。サンルに林木工場開設する。上名寄に電灯点く。
1930(昭和5)年、3月4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。8月下川診療所開設する。上名寄に貯水池出来る。
1932(昭和7)年、10月湧別線の遠軽〜下湧別間を名寄本線に編入し、名寄本線(名寄〜遠軽〜中湧別〜下湧別)とする。パンケ・21線・22線・新興地区の開拓始まる。
1933(昭和8)年、ペンケ落合沢にて浅沼関市氏が鉱石を発見し、今堀喜三郎が採鉱に着手する。三井珊瑠鉱業所に精錬所を建設する。桑の沢の開拓が始まる。御車沢に開拓者が入植する。一の橋に電灯が灯る。
1934(昭和9)年、名羽線(名雨線)の着工にかかる。山本貞二がサンル12線に木工場を建設する。
1936(昭和11)年、サンル軌道敷設する。
1937(昭和12)年、11月名寄〜初茶志内間を名雨線として新規開業する。
1939(昭和14)年、森林軌道パンケ線開通する。
1941(昭和16)年、三菱鉱業株式会社(下川鉱山)による操業を開始する。
1942(昭和17)年、パンケ森林軌道を新設する。下川集乳所設置する。
1944(昭和19)年、三井珊瑠鉱業所金山廃鉱になる。
1945(昭和20)年、新下川鉱山に選鉱場完成する。開拓移民緊急入植。東京・横浜方面から開拓者が入植し、数年間続いた。
1946(昭和21)年、11月新下川鉱山選鉱場が全焼する。
1947(昭和22)年、パンケ地区が電化となる。
1948(昭和23)年、パンケ村の有地解放により11戸が入植する。
1949(昭和24)年、3月町制施行し下川町となる。
1950(昭和25)年、下川〜風連間の開拓道路開削する。サンルに自家発電施設設置。新下川鉱山索道輸送に切り替える。ペンケ軌道を撤去する。
1951(昭和26)年、6月下川〜雄武間の開発道路を開削する。12月下川町役場新築落成する。磯部鉱業所サンル金山の事業開始。
1952(昭和27)年、8月陸上保安隊名寄駐屯部隊キャンプ地工事着工する(現・自衛隊名寄駐屯地)。
1954(昭和29)年、8月智恵文村と合併、新名寄町が発足する。一の橋までバスが運行される。上名寄中学校校舎竣工する。翌年独立する。
1956(昭和31)年、4月市制施行し名寄市となる。5月一の橋市街で大火が起こる。サンル森林軌道を廃止し、トラックに切り替える。
1957(昭和32)年、5月下川市街地にて大火。王子製紙山林から火災が起き、下川風連境まで延焼する。12月桑の沢、21線が電化となる。
1959(昭和34)年、8月毘沙門天像を町有形文化財に指定する。パンケ森林軌道を撤去する。
1962(昭和37)年、4月奥サンル、幸成地区が開拓パイロット事業に指定される。
1963(昭和38)年、1月町立下川病院新館新築落成する。9月二の橋が電化となる。12月下川病院旧病棟の改築完成する。
1964(昭和39)年、6月下川〜朝日間の道路着工する。10月下川小学校ハルニレを有形文化財に、上名寄郷土芸能をを無形文化財に指定する。
1968(昭和43)年、5月名寄川頭首工通水式挙行。6月奥サンルにて大火。
1970(昭和45)年、1月下川シャンツェ完成する。
1971(昭和46)年、開成・渓和・二の橋・珊瑠・下川の小学校が統合となる。
1972(昭和47)年、3月渓和・珊瑠・二の橋・開成小学校の閉校式を挙行。珊瑠中学校を下川中学校に統合する。8月第一回矢文湖「鮭まつり」第一回商工祭開催する。11月道道下川〜朝日線開通する。統合した下川小学校校舎落成する。
1974(昭和49)年、9月下川町独立五十周年記念式典挙行。役場庁舎新築落成。11月一の橋簡易水道通水。12月町民保養センター「五味温泉」オープン。
1976(昭和51)年、3月町営サンル牧場計画が策定される。三菱金属下川鉱業所が分離「下川鉱業株式会社」となる。
1977(昭和52)年、12月50m級のシャンツェ完成する。
1979(昭和54)年、9月上名寄地区用水施設工事着工する。10月モサンル遺跡発見する。
1981(昭和56)年、6月サンル牧場開設される。12月林業従事者管理休養施設(五味温泉の前身)オープンする。
1982(昭和57)年、4月ふるさと開発振興公社(五味温泉)の発足。12月「下川鳴る石」を文化財に指定。
1983(昭和58)年、2月下川鉱山が休山する。
1984(昭和59)年、4月字名、地番の改正が行われる。
1985(昭和60)年、5月下川木工場が全焼する。6月桜ヶ丘遺跡の発掘始まる。
1986(昭和61)年、3月国有林の「象の鼻」の払下げを受ける。道開発局のサンルダム建設計画が具体化する。4月珊瑠鉱山が休山する。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道が承継する。7月町営スキー場ロッジ建設工事着工し12月に完成する。サンルダムの工事が決定する。
1988(昭和63)年、2月「しもかわ冬まつり」に代わって「アイスキャンドルフェスティバル」開催する。5月「桜まつり」に代わって「万里の長城祭」を開催。
1989(平成元)年、4月名寄本線が廃止される。5月バス転換となる。
1991(平成3)年、7月「ふるさと交流館」オープンする。
1993(平成5)年、サンルダム建設事業開始する。8月林業等休養施設増設工事着工する。
1995(平成7)年、5月桜ヶ丘公園、万里の長城メモリアルゲートのオープン式挙行。
1998(平成10)年、10月「サンル神社」を下川神社に合祀する。12月五味温泉交流促進施設を整備してオープンする。
2000(平成12)年、万里の長城全長2000mが完成する。10月開拓100年記念式典が挙行。
2017(平成29)年、11月サンルダム本体コンクリート打設完了する。
2018(平成30)年、6月試験湛水開始する。
2019(平成31)年、3月竣工式挙行。4月ダム管理開始する。
(下川町史第1巻〜第4巻参考)

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