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水田発祥の地

住所 士別市大通北2丁目(西側)
士別観光協会

士別の由来は、アイヌ語の「シペッ」(大いなる川・または本流、親川)の意味で、母なる天塩川がこの地の発展の源であった。 2005(平成17)年9月、朝日町と合併し士別市となった。 読みが同じ標津町と区別するため「名寄士別」と呼ばれる。
国道40号線沿いにあり、国道239号線との交差点から名寄方向に約700m。

当時極寒の北海道でに稲作は向かないと言われていた。当時の開拓使や道庁も開拓初期には稲作に否定的だったようである。
上川管内で水稲の試作がされたのは、旭川の雨紛原野で造材夫をしていた青森県津軽の杉沢繁吉氏が、1891(明治24)年、「赤毛」の種もみを取り寄せ、5アール(五畝歩)を開田、27リットル(1斗5升)の収穫をあげた。これが上川の米作の始まりである。
その後、1899(明治32)年頃には上川の水田作付面積は500町歩に達していたが、塩狩峠の北にはたして米作は出来るのかという不安もあった。
1899(明治32)年7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、しかし入地してまもなく1戸(清水喜助宅)が火事になり99戸となった。それにちなんで当時そばにあった神社山を九十九(つくも)山と命名している。
1900(明治33)年に屯田兵村の山畑弁次郎と角田繁蔵は給与地である自宅付近の湿地に1反(10アール)の田んぼを作り、東旭川から赤毛種の種籾を試作し、15kg程度の収穫を見る。翌年その種籾で試作しても良好だったことから、この地方でも水田は有望だと信じ、上屯田兵字井熊太郎外7名が東旭川の加藤鉄蔵を訪ね話を聞き、実地調査をしその旨を荒井松四郎中隊長に報告。その後水田造成に力を入れることとなり、1902(明治35)年灌漑溝施設の建設を実施していった。


下士別でも1902(明治35)年に、43線東15番に入地した加藤彦左衛門が、浦臼村で収穫した種籾で水田の試作を試みる。稲の品種は不明だが、1反(10アールほど)作り3俵ほどの収穫をみた。

上士別では、1901(明治34)年22線に石川光親の農場管理人として庄司久助が入地、1903(明治36)年に角田村(現・栗山町)から香早生の種籾を取り寄せ、3反(30アールほど)の水田を造成し試作するが、1905(明治38)年ようやく少量の収穫を見るが中止する。その後阿達吉五郎がこの試作を継承するが1913(大正2)年の大凶作でその全てを失った。

多寄地区では、39線東3番に入地した小島政吉が、1901(明治34)年に旭川付近から求めた種籾で3反を試作する。秋には1反あたり75kg程度の収穫を見る。
1902(明治35)年35線西11番の岡田孫蔵が旭川付近から求めた種籾で2反を試作し、秋には1反あたり75kg程度の収穫を見る。
1901(明治34)年36線西8番に入地した富生貞吉は、旭川の雨紛原野で造材夫をしていた杉沢繁吉と共に水稲を試作した先覚者であり、1903(明治36)年より同地にて造田に着手。1907(明治40)年にはタヨロマ川の水利権を同士と共に獲得し、水利組合を興し、1908(明治41)年2haの水田を造成10アール当たり180kgの収穫を得た。

川南地区では、1907(明治40)年に吉本磯右衛門、高買万蔵が試作を行い、3年目にしてようやく1反(10アール)当り30kgの収穫を見た。
場所は不明だが、辻本茂七は1907(明治40)年に鷹栖村より種籾を買い求め、1反の水田を試作する。その後継続して試作し1910(明治43)年に1反当り90kgの収穫を見た。
1910(明治43)年小西六三郎は、雨竜郡北竜村の本願寺農場(現・沼田町字北竜第1)より魁種籾30kgを移入し、2反(20アール)の水田に試作し、1反あたり60kgの収穫を見た。

温根別地区では、1905(明治38)年に南8線の広田外次郎が5アールの水田を造った。品種は香早生だが収穫は分からないという。
北線では、1921(大正10)年に米元某が7平方mほど試作していい結果を得たとある。

この頃の試作者は、いずれも沢水や湿地などを利用したもので、品種は香早生や赤毛で道内の他の町村から取り寄せたものを作付した。土地に馴染んでいないこともあって最初はなかなか上手くいかなかったようである。
最初のころ取れる米は青米で食べられたものではなかったようであるが、当時は米よりもワラが目的であり、馬糧としての需要も高く、農家の必需品としても利用されていたワラジ、ツマゴ、カマス、縄などもワラが無いため北陸地方から取り寄せていたようで農民としてはワラのほうに需要を多くしていたようである。
士別町の水田面積は1921(大正10)年には69haだったが、1922(大正11)年には413ha、1926(大正15)年には2088haまで発展した。
多寄村(風連村と分村前)の水田面積も、1922(大正11)年1400ha、1924(大正13)年には2323haにも増加し、発展していくのである。



1798(寛政10)年、7月幕命により三名が手塩川筋を調査するため遡る。
1857(安政4)年、6月幕吏松浦武四郎が手塩川筋を遡り調査する。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1889(明治22)年、北海道庁の地質調査隊が手塩川を遡る。
1897(明治30)年、6月士別村が設置される。(剣淵村、士別村、多寄村、上多寄村、下多寄村)手塩村戸長役場の治下になる。
1898(明治31)年、5月宮城県人の大内勇記が深川より入植し、開拓の草分けとする。7月道庁技手佐々木五次郎が、屯田兵移住地区画設定のため士別に来る。北海道庁の河川調査隊が石狩川を遡り、剣淵水源に出る。9月河南政次郎が家族とともに入植する。10月屯田兵施設建設工事着工する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁の管轄から上川支庁管轄となる。役場も手塩村から剣淵村外3ヶ村戸長役場となる。7月1.2.12.13日名越源五郎以下第五中隊長の指揮下の屯田兵100戸が入地、これを士別開基とする 。10月士別尋常小学校が開校。
1900(明治33)年、5月新潟県人富山虎三郎率いる12戸が川南に入植。これが上士別村開拓の祖となる。下土別へも入植があった。7月士別郵便局が開設される。8月天塩線(現・宗谷本線として和寒〜士別間が延伸開業し、剣淵駅、士別駅を新設する。 山畑源蔵が兵村大通で水稲はじめて試作。
1901(明治34)年、温根別への入植はじまる。4月下名寄を加え剣淵外4ヶ村戸長役場となる。この頃温根別伊文3線沢にて砂金の採取が行われる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場から、多寄、上名寄、下名寄が分離し、上名寄外2ヶ村戸長役場を上名寄村に設置する。9月士別村戸長役場設置、神田藤三郎宅を借りて戸長役場を開設した。
1903(明治36)年、4月大通り東3丁目に士別村戸長役場庁舎を竣工する。9月手塩線の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。士別市字士別御料農地区画が貸し下げになり開拓が始まる。(1線〜9線)朝日町の開基となる。
1906(明治39)年、4月士別村2級町村制施行される。中川村が上名寄3ヶ村戸長役場の治下となる。士別座が西1条5丁目に開設される。 この頃養蚕が盛んになりハッカ、亜麻も栽培。
1907(明治40)年、1月マッチ製造株式会社士別製軸所が操業する。2月帝国製麻士別工場が操業開始する。3月多寄に市街地が形成される。下名寄、中川の2村が分離して、上名寄外1ヶ村(多寄)となる。
1909(明治42)年、10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。 3月上名寄と多寄村の仮定区域を定め、上名寄村風連別が多寄村に編入される。4月二級町村制施行される。11月この頃銭湯が開業する。本通37号(現・士別市朝日町中央4051)で水稲の試作が行われる。(朝日町の水稲の始まり)
1910(明治43)年、7月ペンケ殖民地(乙1線)に入植始まる。12月御料地3線に奥士別駅逓所が設置される。
1913(大正2)年、2月温根別にて砂金掘り盛んとなる。4月上士別村が士別村より分村独立する(戸数1004戸)。御料地市街(現・朝日町市街地)の貸下げが始まる。9月上士別村役場庁舎竣工する。
1915(大正4)年、士別村に一級町村制が施行される。11月士別町制施行される。
1917(大正6)年、11月士別役場新築落成する。(西2条4丁目)御料地25線にニイサマップ駅逓所が設置される。
1919(大正8)年、5月天塩川が氾濫し、開村以来の大水害となる。8月士別軌道株式会社設立。11月手塩水力電気株式会社操業する。
1920(大正9)年、6月士別軌道株式会社が士別〜上士別間に馬車鉄道を運行する。
1923(大正12)年、4月上士別村が一級町村制施行。
1925(大正14)年、上士別〜奥士別間に馬車鉄道開通する。
1926(大正15)年、4月上士別村と境界変更し、中士別12線以東を分割する。5月川西めん羊組合が設立される。 東士別土功組合により、かんがい溝開削がはじまる。
1927(昭和2)年、10月剣淵村を分割し、温根別村が分村独立する。12月士別にタクシーが現れる。同時に人力車が消えた。
1928(昭和3)年、9月馬車鉄道の動力が蒸気機関車になる。
1929(昭和4)年、8月九線神社が5線に移され糸魚神社となる。(現・朝日神社)
1930(昭和5)年、5月士別森林鉄道敷設工事が奥士別を起点に着工する。士別〜温根別間のバス運行開始する。10月温根別に電燈点く。
1931(昭和6)年、ペンケヌカナンブ移民地(三栄地区)の入植始まる。新奥士別移民地(茂志利地区)の入植始まる。
1934(昭和9)年、産業組合(農協の前身)発足。
1936(昭和11)年、10月明治製糖株式会社士別工場(現・日甜)操業開始する。
1938(昭和13)年、4月風連村を分割し、多寄村が分村独立し、多寄村は一級町村制施行。
1945(昭和20)年、9月戦後開拓者12戸63名ペンケ中の沢に入植する。
1946(昭和21)年、東洋製綿工場が操業。 東士別土功組合、甲子土功組合が上士別村土功組合(その後、昭和26年に上士別土地改良区に改称)と合併する。
1948(昭和23)年、6月自家水力発電により似峡地区に電燈が点く。7月士別町開基50周年記念式典挙行。士別、上土別、中士別、多奇、温根別農業協同組合設立。
1949(昭和24)年、6月士別電報電話局開設される。8月朝日村、上士別村から分村独立し、朝日村が誕生。10月朝日似峡間にバス運行開始。
1951(昭和26)年、12月天塩川電源開発期成会が結成され、岩尾内ダム建設陳情に乗り出す。
1952(昭和27)年、5月北日本農産工業株式会社(デイジー食品工業株式会社の前身)設立する。10月道北製酪協同組合(森永乳業士別工場の前身)設立する。士別〜朝日間道路冬期間の除雪が行われるようになり、バスが通年運行になる。
1954(昭和29)年、7月士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併、市制施行し士別市となる。9月市制施行記念式典挙行。
1955(昭和30)年、4月デイジー食品工業士別工場操業。10月士別飛行場設置される。
1957(昭和32)年、8月士別郷土研究会が発足する。森永乳業士別工場操業。 板見でん粉工場の製品が全国でん粉品評会にて農林大臣から賞状を授与され、朝日村の名を全国に知らせる。
1958(昭和33)年、士別市立図書館開館する。昭和砂鉄鉱業株式会社による剣淵川の砂クローム採鉱が開始。7月つくも市場開店する。
1959(昭和34)年、7月中央市場開店する。駅前広場造成される。11月道道101下川愛別線、朝日〜愛別間開通する。12月バス路線全線通年運行となる。若林服装研究所(後の若林服装女学院)開校する。
1962(昭和37)年、10月道道61号士別滝の上線が開通する。
1963(昭和38)年、38年度国家予算に、岩尾内ダム実施設計書が計上され、岩尾内ダム建設工事着工される。
1967(昭和42)年、3月似峡小中学校が廃校となる。7月岩尾内ダム建設起工式挙行。天塩川上流総合かん排事業着工。12月つくも水郷公園造成着工。
1969(昭和44)年、8月屯田兵屋を士別神社境内に復元保存する。オーストラリアからサフォーク種めん羊百頭導入。
1970(昭和45)年、11月岩尾内ダム方水路にゲートが下ろされ湛水開始する。
1972(昭和47)年、7月上士別町13線南2にて5〜6千年前と思われる居住跡地が発見される。11月道道101下川愛別線、朝日〜下川間開通する。12月森永乳業士別工場閉鎖となる。
1976(昭和51)年、6月少年自然の村を上士別遺跡近くに開村。7月SLをつくも水郷公園に保存。8月第一回手塩川祭り開催。9月温根別ダム工事着工。 1978(昭和53)年、1月天塩岳道立自然公園に指定される。西條士別店オープン。7月屯田兵屋と上士別遺跡を士別市文化財として指定する。
1980(昭和55)年、1月日向スキー場オープン。6月日向森林公園オープン。
1981(昭和56)年、7月士別市立博物館落成。翌年屯田兵屋を博物館に移転する。
1983(昭和58)年、6月ポンテシオ発電所運転開始。10月天塩岳ヒュッテ完成。
1984(昭和59)年、10月岩尾内湖展望台完成。トヨタ自動車(株)士別試験場第一期工事完成。
1986(昭和61)年、3月温根別ダム竣工。
1988(昭和63)年、1月トヨタ自動車士別試験場の竣工式を挙行。8月天塩岳避難小屋完成。
1991(平成3)年、10月天塩岳避難小屋にトイレ完成。
2000(平成12)年、12月岩尾内湖白樺キャンプ場管理棟完成。
2005(平成17)年、1月士別市、朝日町合併協定に調印する。9月1日士別市と合併し、士別市となる。
2009(平成21)年、デイジー食品工業士別工場が閉鎖となる。
士別市史・新士別市史参考

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