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下川駅逓跡

住所 上川郡下川町西町 (町立下川病院敷地)

しもかわ観光協会

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を訳したものである。
下川町の由来は、アイヌ語で名寄川支流パンケ川の沿岸を「パンケ・ヌカナン」(川下の・ヌカナン川)と称していたことから、意訳して「下川」とする。
国道239号線沿いに位置し、道道101号下川愛別線の交差点にある。

下川駅逓跡は、名寄とシカリベツ(一ノ橋)の中継駅逓として、1903(明治36)年に上名寄23線(現・下川町西町(町立下川病院敷地))に官設パンケヌカナン駅逓所が開設された。
取扱人は、稲田梅次郎氏で官馬は8頭、放牧地は3万坪で、川向(現・北町)名寄川対岸ではないかと思われる。他に馬夫と女中が雇われていた。
当時の賃銭は、隣の駅逓まで馬一頭45銭、宿泊料は60銭、移住民は二食に弁当つきで35銭で、一日の旅客数は平均20人程度だったようである。
1904(明治37)年10月からは、名寄経由で枝幸・興部や雄武方面に郵便物の逓送業務が始まる。下川町史には、当時は砂金が郵便で出されていたと石丸サダ氏(一ノ橋駅逓取扱人石丸滝蔵氏の妻)が話している。
それ以前の逓送業務は、士別までしかなく、1901(明治34)年には名寄に駅逓が出来たが、逓送業務は行わなかったようである。1902(明治35)年には、現在の名寄市街四条南三に上名寄郵便局(現・名寄郵便局)ができ、下川や美深・士別間を私有馬10頭をもって逓送した。
1905(明治38)年2月、道庁告示によりパンケヌカナンから下川駅逓に改称する。下川、一ノ橋と呼ぶようになったのもこの頃だそうだ。
1906(明治39)年3月、上名寄24線(現・上川郡下川町錦町81)に下川郵便局が開設され、逓送業務開始する。
1919(大正8)年、10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、下川駅を新設する。
1920(大正9)年、10月、名寄線下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。
この鉄路の開通で、駅逓は歴史的役目を終え廃駅となっている。碑は2000(平成12)年に再設置されたものである。


ちなみに開拓前の道路は、松浦武四郎の北海道の新道切り開き意見書の中に、名寄(ナイプト)〜下川(パンケヌカナン)〜サンルベシベ(サンル越え)幌内(ポロナイ)に出るものがあり、これは現在の道道下川幌内線(現・道道60号下川雄武線)にあたるようである。
その後、手塩道路(現・国道40号線)が、1900(明治33)年名寄まで開通し、これによりその沿線に移住者が増えていった。
しかしこの道路は刈分け道路で、道幅も狭く途中湿地などのぬかるみが多く、人馬がやっと通れる程度のものだったようである。1901(明治34)年に下川地区に最初に入植した岐阜団体は、前年度区画測量のためつけた刈分け道の跡が僅かに残っておりここを通ったが、道らしいものではなかったようで、かなり難儀したようだ。
1902(明治35)年には、オコッペ〜名寄間道路の名寄〜パンケヌカナン(現・下川町)間の道路が開通。1903(明治36)年には名寄〜興部間の道路も開通し、網走まで通じた。
1901(明治34)年、岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線〜19線に集団移住し、下川の開拓元年となる。その後も市村甚助率いる岐阜団体、浅沼凪之助率いる八丈団体が入植。新潟県より谷庄三郎氏が二ノ橋に入植、その後も入地が進んでいったが、現在の下川市街地が農地として拓けなかったのは湿地が多かった為だが、駅逓が設置されたことにより市街地区としてその後発展していった。

1798(寛政10)年、幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日記
1800(寛政12)年、間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。
1807(文化4)年、近藤重蔵らがオホーツク沿岸から名寄川上流に出る。
1859(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。
1871(明治4)年、天塩一帯の支配は水戸藩から開拓使に移る。
1872(明治5)年、宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。 1888(明治21)年、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画が設定される。
1897(明治30)年、5月天塩道路(現・国道40号)旭川着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。(現・下川町は上名寄村に属す)
1899年(明治32年)5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。下川地区区画測量行われる。
1901(明治34)年、岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線〜19線に集団移住し、開拓元年となる。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場より分離し、上名寄村他二ヶ村(多寄、下名寄)戸長役場を設置する。5月ニの橋に新潟県人、谷庄三郎が入地する。10月名寄〜下川間に仮道路ができる。
1903(明治36)年、藤原次郎左衛門が水稲の試作に成功する。パンケヌカナン駅逓、シカリベツ駅逓が開設され付近に商店が出来る。
1905(明治38)年、2月パンケヌカナン駅逓を下川駅逓に、シカリベツ駅逓を一の橋駅逓に改称する。
1907(明治40)年、4月下名寄・中川のニ村を割き、上名寄他一ヶ村戸長役場を設置する。一の橋に村上貞次郎入植する。
1909(明治42)年、4月多寄村が離れ、二級町村制が施行され上名寄村となる。
1915(大正4)年、11月一級町村制が施行され、上名寄村が名寄町となり属する。
1919(大正8)年、10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通する。
1920(大正9)年、10月名寄線、下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。
1923(大正12)年、11月名寄線を名寄本線と改称。
1924(大正13)年、1月名寄町から分村、二級町村制が施行され上川郡下川村となる。
1926(大正15)年、12月珊瑠鉱山が三井鉱山株式会社による操業を開始する。
1932(昭和7)年、10月湧別線の遠軽〜下湧別間を名寄本線に編入し、名寄本線(名寄〜遠軽〜中湧別〜下湧別)とする。パンケ・21線・22線開拓始まる。
1941(昭和16)年、三菱鉱業株式会社(下川鉱山)による操業を開始する。
1944(昭和19)年、三井珊瑠鉱業所金山廃鉱になる。
1949(昭和24)年、3月町制施行し下川町となる。
1950(昭和25)年、新下川鉱山索道輸送に切り替える。
1951(昭和26)年、磯部鉱業所サンル金山の事業開始。
1974(昭和49)年、12月町民保養センター「五味温泉」オープン。
1976(昭和51)年、三菱金属下川鉱業所が分離「下川鉱業株式会社」となる。
1979(昭和54)年、モサンル遺跡発見する。
1982(昭和57)年、ふるさと開発振興公社(五味温泉)の発足。「下川鳴る石」を文化財に指定。
1983(昭和58)年、2月下川鉱山が休山する。
1985(昭和60)年、桜ヶ丘遺跡の発掘始まる。
1986(昭和61)年、3月道開発局のサンルダム建設計画が具体化する。4月珊瑠鉱山が休山する。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道が承継する。
1988(昭和63)年、2月「しもかわ冬まつり」に代わって「アイスキャンドルフェスティバル」開催する。5月「桜まつり」に代わって「万里の長城祭」を開催。
1989(平成元)年、4月名寄本線が廃止される。5月バス転換となる。
1991(平成3)年、7月「ふるさと交流館」オープンする。
1993(平成5)年、サンルダム建設事業開始する。
1995(平成7)年、桜ヶ丘公園、万里の長城メモリアルゲートのオープン式挙行。
1998(平成10)年、「サンル神社」を下川神社に合祀する。
2000(平成12)年、万里の長城全長2000mが完成する。10月開拓100年記念式典が挙行。
(下川町史第1巻〜第4巻参考)

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