北海道応援サイト!がんばれ北海道!!下川鉱山

下川鉱山

住所 上川郡下川町班渓

しもかわ観光協会

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を訳したものである。
下川町の由来は、アイヌ語で名寄川支流パンケ川の沿岸を「パンケ・ヌカナン」(川下の・ヌカナン川)と称していたことから、意訳して「下川」とする。
班渓の由来は、地内を流れるパンケ川に由来する。
下川鉱山に通じる道道354号ペンケ下川停車場線を約10kmほど進むと下山鉱山跡地が見える。

下川銅山とも呼ばれ、銅、硫化鉄、亜鉛などを産出した。
鉱山に向かう途中にあった「40高中」の道路標示。これを見て「うわ、懐かしい!」という人は、きっと同年代だろう。1992(平成4)年の道路交通法改正により撤廃されるまで、道路標識や道路標示が、ドライバーに対して役目を果たしており、今でも旧道などで見られる。


ちなみに、鉱山へ向う途中にはズリを堆積したのだろうか石垣で隔てた丘が何箇所かに見られた。


この鉱山は、1941(昭和16)年、三菱鉱業株式会社による本格的な探鉱が開始され、1944(昭和19)年、軍需会社法の指定を受け、物資や労働力の優先取扱いを受け規模が拡大し、朝鮮人労働者398人、三盛鉱山(函館市)からの転換者91世帯を受け入れた。
1960(昭和35)年、人口15555人 3210世帯があったという。
それから幾度かの経営危機を乗り越えて日本で3位の銅鉱山となったが、銅の貿易自由化、探鉱・採鉱・環境対策のコスト増加などで収益が急速に悪化し、1982(昭和57)年閉山した。
42年間の操業で平均銅含有率2.34%の含銅硫化鉄鉱を約700万t産出した。
ここは、休鉱山だそうで、廃鉱ではないため施設内にての撮影許可は出ませんでした。
現在は「坑廃水処理を中心とする鉱害防止業務」を行うため、三菱マテリアルが出資したエコマネジメント株式会社が入っている。


トロッコ軌道は廃坑から鉱業所へ伸びている線。休山からかなりの年数が経過したがまだ新しい感じもした。


トロッコ軌道の下をくぐると新下川の鉱山住宅の集落跡があるが、残されているものは菱光小学校と幼稚園の廃墟、横断歩道がある。
地区内には幼稚園、小、中学校・郵便局・警察官駐在所などがあったが、建物は残っていない。この道路の突き当たりで舗装は切れ道も無くなる。


1933(昭和8)年、下川パンケ川支流落合沢で浅沼関市が転石を発見する。話を聞いた旭川の溝口政明・和寒村の高橋佐助が現地を調査する。
1937(昭和12)年、3月鉱区を買収し、今堀喜三郎探鉱を開始する。
1940(昭和15)年、探鉱し鉱床露頭を発見する。
1941(昭和16)年、3月三菱鉱業株式会社が、鉱区所有者名義で探鉱と試掘を開始する。下川村の牧村組と探鉱する。ペンケ〜パンケ間の峠越えの道路を開削する。
1942(昭和17)年、4月共同権者である今堀氏が脱退し、鉱区が三菱鉱業の所有となる。10月ペンケ森林鉄道が開通する。12月ボーリング調査の結果鉱床があることが分かり本操業に着手する。
1943(昭和18)年、9月パンケ地区に手選の選鉱場を作る。ペンケ〜パンケ間に鉱石輸送のための架空索道を建設する。
1944(昭和19)年、軍需会社法の指定を受ける。森林鉄道を索道終点まで延長し、機関車3台、ガソリン車1台で軌道輸送開始。
1945(昭和20)年、3月菱光国民学校が開校する。社宅、事務所、変電所、倉庫などを建設する。5月ペンケ地区に選鉱場が完成する(1日240tの処理能力)。
1946(昭和21)年、8月新下川診療所が開設される。11月選鉱場が全焼するがその後再建する。
1947(昭和22)年、2月新下川特定郵便局が開設される。下川中学校菱光分校が小学校に併置される。3月下川鉱業所を管轄していた手稲鉱山から独立し、新下川鉱業所となる。支所に加えた紋別の沼の上鉱山からの転入者を獲得し拡大生産を図る。
1949(昭和24)年、9月選鉱場完成する(月処理能力2500t)。
1950(昭和25)年、4月太平鉱業株式会社下川鉱業所となる。
1951(昭和26)年、ペンケ〜下川間の索道完成し、パンケ地区の森林軌道を廃止。道北乗合自動車株式会社(後の名士バス)が名寄〜下川鉱山間を1日4往復した。
1952(昭和27)年、12月社名が三菱金属鉱業株式会社に改称。
1953(昭和28)年、選鉱場を改造し、銅精錬と硫化精鉱が採取されるようになる。
1955(昭和30)年、月産8000t体制となる。7月水害で下川〜鉱山間が20日間不通となる。
1962(昭和37)年、3月鉱石の索道輸送を廃止しトラック輸送に切り替える。4月ペンケ道路が道道354号ペンケ下川停車場線に昇格。
1964(昭和39)年、10月22000t操業となる。
1969(昭和44)年、金属事業団下川支所開設による第一次鉱床精密調査が実施される。10月2万5000t出鉱となる。
1976(昭和51)年、三菱金属鉱業の5鉱山分離化(5鉱は、下川。古達部・松木・細倉・明延の鉱山)。7月独立し下川鉱業株式会社となる。
1978(昭和53)年、3月菱光中学校を下川中学校に統合し閉校する。
1979(昭和54)年、10月減産・減員・賃金ダウンなどの合理化が提案され、月産1万5000t体制に縮小し、従業員155名体制の大幅合理化を行なう。10月鉱山診療所が廃止される。
1980(昭和55)年、12月国の岩石透水性等試験を行う。マスコミ報道が過熱し、「高レベル核廃棄物が持ち込まれ埋め立てるのでは」「すでにドラム缶に詰めた廃棄物が持ち込まれている」等の噂が飛び交ったが、岩種選定比較の学術試験だけで一切の核種は持ち込まれないことを確認した。
1981(昭和56)年、3月新体制で再スタートする。月産5500t、従業員86名体制に縮小するが、累積赤字が30数億円に達していた。店舗が廃止され、バス運行便数が9本から5本になる。
1982(昭和57)年、12月採鉱を終了する。
1983(昭和58)年、2月坑内を水没させることになり閉抗神事式が行なわれた。8月鉱山地内居住無しとなる。
現在は「坑廃水処理を中心とする鉱害防止業務」を行うため、三菱マテリアルが出資したエコマネジメント株式会社が入っている。
(下川町史第1巻〜第4巻参考)

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