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下村湖人文学碑

住所 中川郡美深町紋穂内(森林公園びふかアイランド内)

美深町観光協会

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
美深の由来は、アイヌ語で「ピウカ」(石の多い場所)から。
紋穂内の由来は、アイヌ語の「モム・ポ・ナイ」(川尻に野原のある川)また、「モ・ヌポ・ナイ」(小さい野にある川)が転訛した。
国道40号の美深市街地から音威子府方向に約8.7kmほど右折(道の駅 びふか横の道)し約300mほど左手に碑がある。

林業保養センター びふか温泉駐車場横にある碑。
1937(昭和12)年下村湖人が美深に訪れ雄大な風景を賞賛し、1954(昭和29)年に詠まれた歌の碑が立つ。


大いなる
道というもの
世にあるを
思ふこころは
いまだも消えず
湖人


建立の趣意
「次郎物語」の著者下村湖人先生は昭和一二年の春
当地を訪れその雄大な風景を激賞されました
先生は昭和三十年に七十一歳をもって生涯を終えられましたが
この歌はその前年の昭和二十九年に詠まれたものでまさに
絶筆と云われているものであります
ここに先生のありし日を偲び歌碑を建立するものであります
昭和五十八年十月

道路向いには、松浦武四郎踏査之地碑・園内のオートキャンプ場の方に進むと「天塩川名」由来の地「テッシ」もある。

紋穂内地区は、1936(昭和11)年に字名地番改正からの字名である。モオヌポナイがモンポナイとなり、開拓当初からの通称地名だったものに漢字を当てた。1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川を遡り天塩国上川郡、中川郡を踏査する。この時「川の中に一条の岩石が立ち並んでいてあたかもテッシ(梁)をかけたようだ」といい、大昔鬼神が鮭を獲るために作った梁で、神聖な所だったという伝説があったと記している。
 1903(明治36)年福島県人の本多美之助が土地の払下げを受けて入植する。1911(明治44)年11月天塩鉄道(現・宗谷本線)名寄〜恩根内間を延伸開業、智恵文・美深・紋穂内・恩根内駅を新設。現・字西里へは渡船場を利用して移動していた。開拓当初は畑作がほとんどだった。
 1918(大正7)年北海道無煙炭鉱により紋穂内炭砿(後の松原無煙炭鉱)採炭開始する。1920(大正9)年6月1日智恵文村分村、下名寄村を美深村と改称する。
 昭和初期からは一部水稲も耕作するようになる。学校が天塩川の対岸にあったため増水時に渡船が使えなかったため1931(昭和6)年から臨時教育所があった。1940(昭和15)年この頃まで松原無煙炭鉱は採炭していたようである。1950(昭和25)年58戸、296人。1963(昭和38)年紋穂内橋が完成する。臨時教育所は閉鎖となる。その後天塩川の切替と築堤工事のため離農者が相次いだ。

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