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スーポロ・智東遺跡群・金毘羅大権現の碑

住所 名寄市智恵文智東
NPO法人 なよろ観光まちづくり協会

名寄市の由来はアイヌ語の「ナイ・オロ・プト」(渓流に注ぐ口)。名寄川天塩川に注ぐ様子から。松浦武四郎が著した「天塩日誌」では「左ナイブト 本名ナヨロフト」と記している。
智恵文の由来は、アイヌ語の「チエプ・ウン・トウ」(魚の入る沼・鮭の入る沼)に由来し、宗谷本線の智恵文と智北駅の間には、昔からフナ、コイ、ワカサギが豊富に獲れる天塩川の河跡湖の智恵文沼がある。
智東の由来は、智恵文村の東にあることから。
国道40号線が智恵文11線の交差点で左折する交差点から右折し、道道252号美深名寄線を名寄方向に約3km進み、道道252号美深名寄線が右折するがそこをさらに智東方向に直進し、約2kmほど右手。

盛土した場所に、「天塩川」と書いた青の柱が目に入る。碑を正面に見て左手のガードレールが切れる取り付け道路を降りて行くと仮道らしいものがあるのでそこを歩くといい。真っすぐ降りることはできない(歩道がなく、雨後は水がたまる)。正面から左が「スーポロ川舟安全祈願碑」、中央に「金毘羅大権現」右が「智東遺跡群」の説明板になっているが智東遺跡群の看板は風雪により倒れている。

碑の建立は1910(明治43)年7月栗津源次郎、河井和五郎、久保佐七らが発起人として金比羅大権現を勧誘し、安全祈願碑として守護神としたものである。当時は人が近づけない急峻な左岸にあったようであるが、その後川中に没した。
1976(昭和51)年に河川改修のため測量調査を行った際偶然発見され、引き揚げられた碑の表には、「金比羅大権現」、裏には「明治四十三年七月十日」の文字が刻まれている。
碑は「遭難慰霊碑」として、1986(昭和61)年7月現在の天塩川右岸に移設し建立された。

1911(明治44)年5月中川郡下名寄村字智恵文三線(現・名寄市智恵文智東)アイヌ語で「スーポロ」(激流の所)、または「カムイコタン」(神の住む所)とも呼ばれ、丸木舟の操作に慣れたアイヌでも恐れていた場所(天塩川随一の難所・天塩川智東の滝)で忌まわしい事件が起きた。
天塩川は入植から鉄道が敷設されるまで重要な交通路で、運送船の往来も多かった。しかし智東の滝付近では、毎年のように舟の転覆事故が起きて水死者をだしていた。当時は第一の滝と第二の滝があって、アイヌは「ペンケ・シュポロ」(川上の・渦流)・「パンケ・シュポロ」(川下の・渦流)と呼んでいたようである。
滝と滝の間は18m程度で、第一の滝で舟の操縦を誤るとたちまち激しい水に飲まれ転覆した。たとえ第一の滝を安全に通行しても第二の滝で操縦を誤れば災難を避けることは出来ないとも言われた。
 この日事故を起こしたのは、長門型の運送船が天塩線(現・JR宗谷本線)の鉄道工事用のトロ車両40個(1個重量37.5kg)を積み込み、41人が乗船していた。
午前11時半頃、名寄太13線(現・名寄市西11条北2丁目付近)の渡船場から出発した船は、過積載状態で水面から船べりまでの間隔は数十cmほどしかなかった。
正午を過ぎ、風が強くなり船の操縦がままならなくなってきた。雨も降りだし、水が今にも船内に入ってきそうになってくる。そこで乗客の一人が転覆する可能性があるので、引き返し後日にしたらと進言するも却下され、大雨の中漕行を続けた。第一の滝に差し掛かると、強風が吹く中過度の積載をしていた船は操縦不能となり、岸に激突する。船頭は船を立て直そうとするが、激流が船内に3度浸水してくる。4度目の浸水で沈没となり、第二の滝でさらに被害が拡大し溺れ死ぬ人もでてくる。この事故で水死や行方不明になった人は15人に及んだ。乗船者のほとんどが鉄道工事関係者で落合組の関係者だったという。
運送船の遭難は毎年恒例となっていたようだが、三人以上の犠牲者が出たのは、これが初めてとのこと、新聞でも大きく取り上げられた。
当初、碑は落合組が慰霊碑として建立されたと言われていたが、その後の調査で碑は安全祈願碑として事故の前年に建立されたものとわかった。

ちなみに、1910年(明治43)年頃の記録によると、名寄から天塩河口の間には20ヶ所の船着場や多くの渡船場があった。各地の船着場付近には集落が形成され、郵便局、駐在所などの公共機関、雑貨店、旅館、飲食店などがあり賑わっていた。その後、時代とともに渡船場は橋梁に変わり、渡船場も閉鎖され、舟運は1957(昭和32)年度までの運航であったようである。

スーポロ・川舟安全祈願碑
 名寄市智東は東の九度山の山地と西の智恵文丘陵の間を天塩川
が渓谷をなして流れています。特にここより川下側はかつて川幅
がより狭く、川の屈曲と川底の岩により早瀬となって流れていま
した。この所はアイヌ語で「スーポロ(激流の所)」とも「カムイ
コタン(神の住む所)」とも呼ばれ、丸木舟の操作に慣れたアイヌ
にも恐れられた天塩川随一の難所でした。
 和人の開拓後も鉄道が音威子府へ開通するまでたびたび川舟の
遭難があり、「天塩川・智東の滝」とも呼ばれていました。その
ため明治43年7月10日にこの地の通行の安全を祈願するため川舟
関係者により建立されたのが、「金比羅大権現」の石碑です。とこ
ろが、翌年の明治44年5月22日に鉄道建設資材を積んだ川舟がこ
こで転覆し15名もの遭難者を出してしまいました。新聞にも報道
された大事故でしたが、碑が人の近づけない左岸に建てられてい
た事もあり、事故の記憶とともに忘れられ所在が不明でした。そ
の後、昭和51年に至り河川改修の測量時に偶然に発見されました
 このたび天塩川治水の歴史を語る史跡として碑を右岸に移設し
旭川開発建設部の多大な協力により再建立しました。
<協力機関>旭川開発建設部名寄河川事務所
     名寄郷土史研究会・光名寺
     山崎組(株)・第一建設(株)
一九八六年七月十日 名寄市教育委員会

「智東遺跡群」の看板は風雪により倒れている。
先史時代、天塩川の川筋を中心に多数の遺跡が発見されており、無土器時代の石器は九十九山遺跡・日進篠原遺跡・モサンル遺跡などで発見されている。
縄文時代のものは、名寄の智東C遺跡で大型の土器を備えた集石墓が見つかり、当時の埋葬法を知る貴重な発見がされ、智東B遺跡では住居跡が残っており、天塩川両岸の高台には、チャシも点在している。

「智東遺跡群」
名寄に人類が住みついたのは、今から約一万
年程前のようです。ここ智東にも、そういう
先史時代の遺跡がたくさん残されております
例えば、智東駅前付近の天塩川河岸や、吉野川
下流の両岸一帯には、縄文時代(今から約9
千年〜2千年程前)や、擦文時代(今から約
1千年前)の大規模な遺跡があることが、色
々な調査でわかってきております。
古代の人達は、地面を50cm〜1m程掘りくぼ
めて、そこに柱を立て屋根をかけた竪穴住居
に住んで、天塩川や、その支流で漁をしたり
弓、矢などで獣などを獲って生活していたよ
うです。また擦文時代になると、わずかです
が、原始的な農耕をしていたことが発掘調査
でわかりました。彼らは日当りが良く、水辺
に近く、しかも食料が豊富な土地を巧みに、
選んで住んでいたようです。
私達人類の歴史を知る貴重な遺跡を、皆の手
で大切にしたいものです。
名寄市教育委員会


1798(寛政10)年、7月幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日誌)
1800(寛政12)年、間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。
1807(文化4)年、近藤重蔵が宗谷の帰路に天塩川を遡り、石狩川筋にでる。
1859(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、手塩国に6郡が設けられる。(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前は水戸藩の支配下にあった)
1871(明治4)年、8月天塩一帯(天塩・中川・上川)の支配は水戸藩から開拓使に移る。
1872(明治5)年、宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。
1877(明治10)年、10月苫前戸長役場の管轄下に入る。
1880(明治13)年、3月増毛、留萌、苫前、上川、中川6郡を管轄する、増毛郡役所が開庁しその治下に入る。
1882(明治15)年、開拓使廃止となる。三県設置に伴い札幌県に属し、その治下に入る。
1886(明治19)年、三県制度廃止となり、北海道庁が設置される。
1887(明治20)年、上川郡に上名寄(現・名寄市)、多寄、士別、剣淵の四ヵ村を置き、増毛支庁の管轄に入る。
1888(明治21)年、7月地質調査隊の内田瀞ら一行が、名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画を設定する。
1897(明治30)年、5月天塩道路(現・国道40号)旭川着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。
1898(明治31)年、5月大屋敷磯吉が上名寄村に入植する。
1899(明治32)年、5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。
1900(明治33)年、10月上名寄〜士別間の仮県道完成する。
1901(明治34)年、6月官設駅逓設置される。12月上名寄〜恩根内に至る道路完成する。
1902(明治35)年、4月剣淵戸長役場より上名寄、多寄、下名寄村が分離し、三村戸長役場を上名寄村に設置する。5月岐阜、相馬団体で水稲試作する。9月三村戸長役場庁舎完成する。(現・大通り1丁目)。上名寄簡易教育所開所する。名寄神社建設される。
1903(明治36)年、9月天塩線(現・宗谷本線)の士別〜名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄〜興部間の道路開通する。
1904(明治37)年、北見街道の名寄〜紋別間が完工する。
1905(明治38)年、4月天塩線が官設鉄道に移管となる。
1906(明治39)年、下名寄(現・美深町)が上名寄戸長役場から分離する。
1909(明治42)年、4月戸長役場制が廃止となり二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。10月旭川〜名寄間が天塩線と改称される。
1911(明治44)年、4月上名寄〜羽幌間の鉄道建設運動がおこる。11月天塩線の名寄〜恩根内間が延伸開業し、智恵文駅、美深駅、紋穂内駅、恩根内駅を新設する。
1912(大正元)年、9月天塩線が宗谷線に改称となる。
1915(大正4)年、11月一級町村制施行し名寄町となる。
1919(大正8)年、7月名寄町役場竣工する。東洋酒精株式会社開設する。9月名羽線(名雨線)の敷設運動始まる。10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。宗谷線が宗谷本線に改称となる。
1920(大正9)年、5月旭川監獄名寄出張所(現・名寄拘置支所)設置する。6月下名寄村から智恵文が分村し二級町村制施行する。 名寄女子職業学校(現・名寄市立大学短期大学部)が創設される。
1922(大正11)年、改正鉄道敷設法に予定線として、名雨線「天塩国名寄ヨリ石狩国雨龍ヲ経テ天塩国羽幌ニ至ル鉄道」と記載される。
1924(大正13)年、1月名寄村から下川村が分村する。
1927(昭和2)年、2月株式会社名寄運送社(現・日本通運株式会社)開設される。3月町立名寄高等女学校(現・名寄高等学校)創立する。
1928(昭和3)年、5月北海道バター工場(雪印乳業株式会社)開設する。
1929(昭和4)年、10月名羽線の予算内閣にて成立する。
1930(昭和5)年、3月名寄緬羊組合開設する。4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。
1934(昭和9)年、3月名寄都市計画区域に指定される。名寄大橋竣工する。名羽線(名雨線)の着工にかかる。天塩川治水工事に着手する。名羽線の第65議会で予算23万4900円で着工し、1938(昭和13)年竣工が貴・衆両院を通過する。
1937(昭和12)年、11月名寄〜初茶志内間を名雨線として新規開し、西名寄駅・初茶志内駅を新設。
1939(昭和14)年、6月名寄町の字名地番改正する。9月「名寄鈴石」(なよろすずいし)、「名寄高師小僧」(なよろたかしこぞう)が天然記念物に指定さる。
1941(昭和16)年、10月初茶志内〜朱鞠内間を延伸開業し、幌加内線に名雨線を編入して深川〜名寄間を深名線と改称する。
1943(昭和18)年、6月名寄運動公園開設する。
1952(昭和27)年、2月第1回雪まつり(昭和38年樹氷まつりと改称する)開催する。8月陸上保安隊名寄駐屯部隊キャンプ地工事着工する(現・自衛隊名寄駐屯地)。
1954(昭和29)年、8月智恵文村と合併、新名寄町が発足する。
1956(昭和31)年、4月市制施行し名寄市となる。5月智東の天塩川右岸に先住民族の遺跡(縄文式)が発掘される。
1957(昭和32)年、3月美深〜名寄間の智東道路が完成する。
1959(昭和34)年、11月名羽線が建設線に決定する。
1960(昭和35)年、4月天塩川製紙株式会社名寄工場設立する。
1962(昭和37)年、4月羽幌町にて名羽線起工式挙行。
1964(昭和39)年、9月名寄ゴルフ場完成する。10月名羽線朱鞠内にてくい打式挙行。
1966(昭和41)年、4月天塩川水系一級河川に昇格となる。7月名羽線朱鞠内側着工式挙行。
1970(昭和45)年、7月名寄市プラネタリウム館完成する。8月名寄市立名寄図書館落成・開館する。ピヤシリ観光開発道路開通する。10月開発道路名寄遠別線起工する。12月ピヤシリシャンツェ完成(70m級)する。
1973(昭和48)年、12月名寄市清掃工場完成する。国設名寄ピヤシリスキー場オープンする。
1978(昭和53)年、8月智恵文地区の字名を「字智恵文」に統一する。
1980(昭和55)年、2月雪印乳業名寄工場閉鎖となる。
1981(昭和56)年、5月ピヤシリ森林公園オープンする。
1986(昭和61)年、7月 「スーポロの碑」76年ぶりに再建立される。
1989(平成元)年、4月名寄本線廃止となる。10月ピヤシリにログハウス完成する。
1991(平成3)年、1月住友ゴム名寄タイヤテストコース竣工する。
1995(平成7)年、7月ピヤシリシャンツェ、ミディアムヒル(50m級)完成する。9月深名線廃止となる。
1996(平成8)年、2月名寄市北国博物館オープンする。
1997(平成9)年、11月名寄バイパス(現・名寄美深道路)の名寄IC〜名寄北IC間供用開始する。12月「名寄温泉サンピラー」オープンする。
2000(平成12)年、8月名寄市開拓100年記念式典挙行。
2002(平成14)年、10月ピヤシリシャンツェ ノーマルヒル(K点 90m)完成する。
2003(平成15)年、3月名寄バイパスの名寄北IC〜智恵文IC(現・智恵文南入口)間供用開始する。9月名寄駅開業100周年記念行事挙行。智恵文神社御創祀100年記念式典挙行。11月ピヤシリスキー場第3ペアリフト竣工式挙行。
2006(平成18)年、3月風連町と合併し新・名寄市が発足する。11月名寄バイパスの智恵文南入口〜智恵文IC間供用開始する。
2010(平成22)年、3月名寄バイパスの智恵文IC〜美深IC間の供用開始する。これに伴い名寄バイパス区間全線開通する。
新名寄市史1〜3巻参考

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