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旧天北線資料室

住所 中川郡音威子府村字音威子府
開館時間は窓口が開いてる時間とのこと
入館料 無料
音威子府村

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
音威子府の由来は、アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)または(濁りたる泥川)(漂木の堆積する川口)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからで、こうした濁り川にはイトウがいるので名づけられた。「音江根布」と当初は書かれたが、駅が設置され現在の名に変わった。
音威子府市街地の国道40号線国道275号線の分岐から名寄方向に約150mほどの交差点を駅方向に左折、道道391号音威子府停車場線を約140mほどの駅舎内にある。

音威子府駅の一角に併設されている資料室。1914年(大正3年)11月宗谷線の音威子府〜小頓別間を延伸開業から始まり。1989年(平成元年)まで、音威子府から枝幸郡浜頓別町等を経て、南稚内を結んでいた天北線に関する資料を中心に展示している。
1987(昭和62)年4月JR北海道に変わり、1989(平成元)年5月年に廃止された。
館内には、天北線で使用されていた駅名看板や道具、音威子府駅構内の鉄道模型、路線地図などがあり、2014(平成26)年10月から館内リニューアルされている。
ちなみに、音威子府駅舎内にある立ち食いそば屋「常盤軒」は、そばが黒く太い麺が特徴で、道内の駅そばの中でも美味しいと評判である。


音威子府村は、もとは常盤。常盤の由来は、常盤の松のように栄えるようにと命名したものである。古くはヲトイ子フ・ヲトヱ子フなどと呼ばれた。江戸期から見られる地名である。松浦武四郎が著した「丁巳日誌」には、「ヲトイ子フ、左りの方山に傍て小川有、巾十間計、遅流のよし。むかしより此処に人家有しとかや。当時は此処より五六丁上に一軒有る計也・・・・・其者等夫婦は前にも云ごとく下え下り・・・・此家は腐朽したり」とある。当時からオホーツク沿岸と往来する山路があり、冬の時期に山路を使い、夏はパンケサクル川沿いの道が利用された。
 1897(明治30)年官有地から「御料地」に編入され、1903(明治36)年「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。1904(明治37)年3月咲来にパンケサックル駅逓所(常盤駅逓所)が開設し、石川県出身の長村秀が下名寄から来て取扱人となったが、1903(明治36)年10月には初代取扱人に任命されていた。1905(明治38)年御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植。このとき入った場所は比較的平坦な現在の咲来市街地、下北部、南部、止若内(ヤムワッカナイ)だったようで、音威子府地区では本線(現・駅前付近)に入植した。この年は単身入植者がほとんどだった。加藤兼五郎がリーダーとなり、長瀬定造らと共に剣淵から本線(現・音威子府市街地)に入地し、御料地の借り受けをして現地の下見をして一旦剣淵に戻り、入植希望者を募った。パンケサックルを常盤に変更し、常盤駅逓所と改称。常盤駅逓所の官馬は道産子馬7頭で、郵便の逓送、荷物の継立、旅客の輸送などに使われた。12月塚田藤右衛門が長村秀より常盤駅逓所を継承してから、入植が本格的になたようである。この当時北見枝幸の砂金掘りが盛んだったこともあり、この常盤駅逓を経て往来するものが多かった。1906(明治39)年4月「中川村」(現在の音威子府村を含む)の名称誕生。3月に加藤兼五郎らが入植したのはこの年である。鈴木利平、児玉仁三郎、中谷半次郎、山崎栄次郎らを中心に、多くの人が現在の咲来地区で開墾に従事した。1907(明治40)年9月塚田藤右衛門が亡くなり、塚田喜之次郎が取扱人となった。1908(明治41)年「国有未開地処分法」により、音威子府川流域の方にも入植が始まる。咲来団体地区(現・咲来から歌登方向に進んだ咲来峠手前付近)に。1909(明治42)年には上物満内(現・物満内)にも入植が始まり、1912(明治45)年には200戸程度の入植者が住み、開墾された面積は400町歩ほど。 しかし、現在の音威子府市街地は当時地味が悪く、入植区画割されていたものの入植者は無く、熊の巣と言われていたそうだ。船着き場は、咲来では曹洞宗長慶寺(中川郡音威子府村字咲来)の裏手にあった。音威子府では、現在の役場裏手にあったようだが、現在は築堤があり場所は不明。音威子府に市街地が形成されてからは、現在の道の駅 おといねっぷのそばにある音威子府大橋付近にあった。

 1912(大正元)年11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置される前あたりから市街地として再度区画割りされた。1913(大正2)年音威子府特別教育所設置。1914(大正3)年11月宗谷線(後の天北線)の音威子府〜小頓別間を延伸開業から始まる。1915(大正4)年音威子府特別教育所を音威子府尋常小学校と改称する。1914(大正5)年に音威子府村の前身である常盤村役場が咲来に設けられ、中川郡常盤村となる。この時の世帯数は462戸、2312人。1917(大正6)年役場庁舎落成する。1919(大正8)年二級町村制施行する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、止若内、茨内、音威子府、のちに上音威子府が加わる。10月宗谷線を宗谷本線に改称。1920(大正9)年世帯数は726戸、4147人。稲作の試作が行われるが成果は不明。1922(大正11)年天塩線の音威子府〜誉平(現・中川)間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設するまで宗谷線方面への物資の運送は、音威子府駅で荷下ろしされ、川舟で運送されていたことから舟付場までトロッコ路線も敷設されていた。世帯数は市街地で223戸、1255人。1924(大正13)年6月鉄道の利用などにより利用が低下し、常盤駅逓所は廃止となった。1925(大正14)年に現在の音威子府中心部へ役場が移るまで常盤村が中心地だった。1926(大正15)年9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通する。当該区間を天塩線に改称する。
 1930(昭和5)年4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。1940(昭和15)年世帯数は249戸、1353人。1953(昭和28)年中川町神路地区に天塩川水力発電のダム建造計画が持ち上がるが反対され断念。1955(昭和30)年開村以来の大水害に襲われ被災家屋97戸、523町歩の耕地が被害を受けた。1957(昭和32)年音威子府〜中川間の国道40号が竣工し交通体系が変わった。1959(昭和34)年音威子府地区に簡易水道完成する。1961(昭和36)年4月北見線を天北線に改称する。1963(昭和38)年常盤村から音威子府村と改称する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、上物満内、止若内、茨内、音威子府、上音威子府。音威子府市街の舗装、水銀灯完成する。1971(昭和46)年天塩川温泉の建設、音威富士スキー場整備などを行う。1977(昭和52)年7月字の区域変更と廃止後の字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来に、上物満内を物満内に、茨内・ヌプトモマナイ・ルベシュペ区画外・チセネシリ・セタオマナイを音威子府に変更、上音威子府はそのまま。1978(昭和53)年筬島小学校跡に彫刻家・砂澤ビッキがアトリエを構えた。
 1989(平成元)年5月天北線全線廃止。宗谷バスに転換。1990(平成2)年5月音威子府駅舎改築。
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