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苫前町水田発祥の地

住所 苫前郡苫前町字香川

苫前町

国道232号を留萌から北上、古丹別川に架かる橋を越えてすぐ右側に大きな石碑と「苫前町水田発祥の地」と書かれた木碑が建っている。
1884(明治17)年、当時誰も成し得なかった道北での水稲栽培に立ち向かい、その偉業を成し遂げた開拓者、藤田万助翁の功績をたたえ、苫前町香川の古丹別川のそばに、没後13年祭に当たる1907(明治40)年に「水田発祥の地碑」を古丹別に建立した。
1968(昭和43)年に修復再建された後、1984(昭和59)年に現在地に移設されたものである。
1881(明治14)年、以来毎年水稲を試作し、試行錯誤を繰り返したが、1884(明治17)年にようやく収穫が得られ、この地方でも稲作が可能なことを示した。
苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」toma-oma-i(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。
この当時はまだ札幌近辺でも稲作の試作が行われている段階で、旭川でも1891(明治24)年が水稲発祥となっていることから、苫前で稲作に成功したことは、北海道の稲作史上重要な出来事であったとも言える。
藤田翁の功績をたたえる石碑は、地元農家の有志によって建てられ、現在も道北の農業史に輝く偉業として伝えられており、1980(昭和55)年、9月18日苫前町指定文化財として指定された。

碑文
藤田萬助君
記念之碑銘
故藤田萬助君盛岡仙北町人父日貞蔵世業農君其第二子安政二年歳三十四辭郷来北海道・・・・
石碑は高さ約3.5m、建立当時に書かれていた漢文の碑文が今も記されており、内容は「岩手県からこの地に入植した 藤田万助翁が道北地方でも米が作れることを証明した苫前地方の農業の先駆者として大きな功績を残した」というもので、藤田翁の農業にかけた思いをたたえている。


紀元前6000年頃、苫前町に人が住み始める。
紀元前800年頃、香川3線(遺跡)に集落ができる。
1634(寛永11)年、トママイ交易場所開かれる。
1670(寛文10)年、この年に書かれた「寛文拾年狄蜂起集書」に「ともまい」の地名がある。
1804(文化元)年、運上屋を建てる。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が初めて苫前を訪れ宿泊。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再度訪れる。
1858(安政5)年、苫前に一泊した翌日、古丹別川を遡り、イシカルンクシナイに止宿。(現・岩見付近)
1859(安政6)年、庄内藩の支配地となり陣屋を置く。
1864(元治元)年、大絵馬を奉納される(苫前神社に現存)
1876(明治9)年、子供たちに読み書きを教え寺子屋発祥となる。
1880(明治13)年、 3村(苫前村・白志泊村・力昼村)の長役場を苫前村に設置された。
1894(明治27)年、苫前郡苫前村が白志泊村を編入、苫前郡羽幌村(現・羽幌町)を分村する。
1896(明治29)年、古丹別原野に本州より団体移住する。
1897(明治30)年、苫前村の戸長役場が羽幌村戸長役場を分離する。
1902(明治35)年、苫前郡力昼村(りきびる)を編入、二級町村制、苫前郡苫前村となる。
1915(大正4)年、一級町村制施行される。留萌〜苫前間に乗合馬車が走る。三毛別羆事件が発生し7人犠牲になる。
1922(大正11)年、留萌−羽幌間乗合自動車営業始まる。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線建設工事着工。
1928(昭和3)年、電灯が付き。ラジオが入る。
1931(昭和6)年、鬼鹿〜古丹別間の鉄道開通。
1932(昭和7)年、羽幌まで鉄道開通。
1934(昭和9)年、苫前船入潤(漁港)完成する。
1942(昭和17)年、霧立への森林鉄道開通。林業が本格化する。
1948(昭和23)年、町制施行、現在の苫前町となる。
1958(昭和33)年、国鉄羽幌線全線開通。
1983(昭和58)年、郷土資料館ができる。
1987(昭和62)年、国鉄羽幌線3月29日で廃止する。

藤田万助とは、1822(文政5)年、岩手県盛岡市で生まれ、1858(安政5)年、36歳の時に漁役夫として北海道に渡り、各地を渡り歩いた後古丹別川尻で農耕を始めた。
荒野を拓いて 麦・豆・野菜など栽培し、1881(明治14)年、水田を開き水稲栽培を試みる。
当時の北海道は、石狩地方でさえ米は試作の段階で、上川や北空知地方では稲作を手掛ける農家すらいない時代だった。
道北の寒冷の荒野の中、一人手製の農具で水田を作り、わずかな種もみで稲作に立ち向かった藤田翁の努力は並々ならぬものがあった。
何度も失敗し試行錯誤のなか、1884(明治17)年、収量はわずかだったが、開拓者とともに「白い飯」を腹いっぱい食べ、喜びをかみしめたと伝えられている。

国道232号とは、稚内市を起点とし、留萌市を終点とする一般国道である。

寛文拾年狄蜂起集書とは、弘前藩の関係者によって書かれたもので、アイヌのコタンの戸数や有力者の名前など、アイヌ民族の様子が記録されている書物。
シャクシャインの戦い、1669年6月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起なども書かれている。

船入澗(ふないりま)とは、ハシケによる貨物の積み下ろし場のこと。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

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