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松浦判官宿泊聴佛法僧之地

住所 中川郡音威子府村物満内(地域名筬島)

音威子府村

中川の由来は、天塩川の中流にあることに由来する。
音威子府の由来は、アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)または(濁りたる泥川)(漂木の堆積する川口)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからで、こうした濁り川にはイトウがいるので名づけられた。「音江根布」と当初は書かれたが、駅が設置され現在の名に変わった。
物満内の由来は、アイヌ語の「モノマ・ナイ」(静かな川)で、1922(大正11)年、11月宗谷線を宗谷本線に改称。天塩線(現・宗谷本線)の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅を新設する。「筬島」とは、1922(大正11)年8月の北海道鉄道建設事務所長より、鉄道大臣宛の「新線駅名改称二関スル件」具申文書(道立図書館蔵)では、「当初筬島駅は土地の名前をとって物満内駅を考えていたが、二字以上の駅名は事務上繁雑であるので二字名に改称したい。改称駅名「筬島」の呼称の由来は、アイヌ語オサシマンナイ(川尻の下るところにある小沢の意義)による」とあり、オサシマを音訳して「筬島」としたが、オサシマンナイの地図は明治時代の地図にも見当たらないようである。地元ではオサネコ川に由来するとあり、オサとは織機の付属具(アイヌ語では外来語の筬)を意味し、ネコとは簗(やな)を意味すると書いてある。これはアイヌの人々が魚を獲るために使用した簗を意味する川がオサネコ川で、ここから「筬島」となったという説や他にも諸説あるが、起源は駅名改称具申書のオサシマンナイである。
国道40号線から筬島大橋を渡り筬島駅を過ぎ、舗装路を進んでいくと宗谷本線の踏切となるがその手前の角地に標柱がある。

1857(安政4)年幕末の探検家・松浦武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口からハママシケ(浜益)を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形でポロヌプ(幌延)、(オヌプナイ)雄信内、(ポンピラ)中川、(オトイネプ)音威子府、(ピウカ)美深と歩き、(ナイプト)名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、ペンケヌカナン(現・朝日町の御科三線)源流近くまで到達した。天塩日誌には当時の天塩川流域の様子や、アイヌの風俗・習慣なども描かれている。
6月10日、サツコタン(右川、中川町佐久)、オフユシケ(右川)、アヘシナイ(右川、中川町安川、安平志内川)に来た。今日の行程は凡そ八里。ここには人家3軒あり、エカシユ(家族3人)、カネアンホ(家族3人)、ラフン(家族2人)が住んでいた。
しかしどの家もひどく傷み朽ちかけている様子にビックリする。武四郎は北海道で一番貧しい場所のようであると書いている。
 11日、アヘシナイを夜明けを待ち出発。チライウツナイ(左川)、コチヤウシナイ(左川)、イカシマナイ(左川)、オホウシュ(右川)、オンネナイ(右川)、ヘンケオホシュ(右川)、この辺りから両岸が険しくなり川も急流となってくる。トンタセシュケ(平地)、ヘンケハツタラ(大砂州)、この辺りから両岸は岩の崖になり舟を引いて上る。カムイウルサン(中川郡中川町神路・神居山)の急峻な山が見え、深山幽谷の奇景である。崖の中間には大岩が崩れ落ちた跡があり、アイヌの伝説では、昔ここでイナウを捧げることを怠って通行した舟の上に岩が崩れ落ちたためで、強い神霊のこもった場所なので、ここを通る際はイナウとタバコと米を一掴みづつ供えてから通るのだという。この辺りは大岩が突き出し岬のようになったりして川幅が狭く水が滝のような勢いで流れている。ここを過ぎるとオヤウ(崖平)、シイヘヌカルシ(右手)、ここには岩の上から一筋の滝が落ち、7段になって流れ落ちてくる。カマイホロシ(岩壁)、ツチベツホ(左川)、この辺りは川底が平らだが所々に深みがあって溺死する者もいるので昔から川を歩いて渡るのを禁止しているのだという。
 その後、オニサッペ(右川、中川郡音威子府村鬼刺)、トンベツホ(音威子府頓別坊・ベンケオニサツベ)には家が2軒あり、アエトモ(家族7人)、トキノチ(家族6人)、ここに案内人のトセツの妻子が来ていたのでここで宿泊する。今日の行程は七里ほど。

この日、日が暮れてから近くでしきりに「ホッホッホ」と鳴く鳥の声を聴く。アイヌの人はアオタコダンチカフと言った。意味は黄泉鳥(よみじのとり)。この家の主であるアエトモが「昔、最上の旦那(最上徳内)もこの鳥の鳴き声を聞かれて、この鳥は本土の尊い高山にもいる仏法僧と同じであると、云われた。」とのことだ。
現在は、この鳥はコノハズクと判明している。

12日、トンベツホ(音威子府頓別坊・ベンケオニサツベ)を出発し、ノホリケソマ(左川)、この辺りは両岸が切り立った崖。ここを過ぎるとモノマナイ(音威子府村物満内)、トオリツハツタリ(大渕)でチョウザメが沢山居た。チウシヒリ(左山)、セタオマナイ(右川・左崖)、オトイネフ(左中川・中川郡音威子府村)、この近くに民家が一軒ありレウタンケ(家族5人)が住んでいる。さらに進みツトモオマナイ(右川)、サツル(左川・音威子府咲来)、ヘンケサツル(左川)、オヒタルンナイ(右川)、ヤムワッカナイ(右川・音威子府止若内)ウツカヤト岳(右山)、テーヘケナイ(左川)、オンネナイ(美深町恩根内)、シユンクタウシユキコマ(左川)、カマソ(急瀬)、ナウルナイ(左川)、シユマルクテ(左川)、オクルマトマナイ(左川・美深町小車)と進み、オクルマトマナイに泊まった。(現在の小車川は右川に当たるため間違えたものと思われるようだ)

その後、行程を折り返してきた一行は、25日はナイフト(名寄市)に泊まる。
26日は、舟を出し川の流れ早く夜にはオクルマトマナイのエカシテカニの家に再度泊まる。
27日は、11日にも泊まった、トンベツボ(音威子府村頓別坊)でアエトモの家に泊まる。アエトモはエカシ(長老)であり、様々な故事に詳しかった。「アイヌと普通は言うが、樺太ではカイナーと言い、この辺りでも男をカイナー、女をカイチーと言う」エカシは「カイというのはこの国に生まれた者ということで、ナはニシパ(長老)をさして旦那などという敬語であったのがアイノと呼び馴わした。しかし深山のコタンでは和人と接していないので、カイナーと言っている」と答えた。
1869(明治2)年武四郎は、明治政府に蝦夷地の新しい名をつけるよう命じられる。
熱田大神縁起頭書によると「夷人自らその国を呼ぶに加伊(かい)という、加伊はけだしその地名。その地その人、ひげ長きゆえに蝦夷(かい)の字を用う。その実ただにえびをとって、これを名ずくるには非るなり」とあり、「この地は、北にあるカイの人々の国」という意味を込めて「北加伊道」と命名。幕府はこれを取り入れて「東海道」などにならい蝦夷地を「北海道」と改称した。
現在は、中川郡音威子府村物満内に北海道命名の地碑があり武四郎の功績を讃えている。ちなみにトンベツホの説明板は筬島小学校跡にあったが現在は北海道命名の地碑の横に移動している。


物満内は、1919(大正8)年に二級町村制施行した際に付いた字名。はじめは常盤村。1963(昭和38)年からは音威子府村と改称した。1907(明治40)年に仮定県道天塩線(旭川〜天塩間)が開削され、モノマナイ駅逓(大串)を設置した。取扱人は大串房一郎がこの地の最初の入地者であった。1908(明治41)年には御料地の貸付を受けて20戸が入植する。1909(明治42)年4月咲来小学校所属物満内特別教授場として開設。上物満内(現・物満内)にも入植が始まり5戸入植する。1912(明治45)年には200戸程度の入植者が住み、開墾された面積は400町歩ほどだという。 当時の交通手段は川舟だった。この上物満内地区は農作物の出荷が困難だったこともあり換金作物は薄荷(ハッカ)だけだったという。開拓初期には、音威子府村にもアイヌの人びとが少数ながら住んでいた。頓別坊川口付近と物満内川口に各々3戸のアイヌが住んでいたようである。筬島地区に入植したひとは、様々な知恵や自然に対する知識などを学んだと言われている。岡穂内川、頓別坊川、鬼刺川、物満内川、音威子府川の出口付近で、アイヌそれぞれの生活圏があり、お互いを尊重しあう間柄だったという。この頃はアイヌとの共存共栄の生活が営まれ、入植当時は丸木舟の作り方を教わったり、鮭の皮で作る靴(チェプリケ)の作り方などを学び、実際に使用し物々交換も行われていた。1910(明治43)年頃に、物満内地区で近隣のアイヌが集まり「熊祭り」なる儀式が行われたのが最後となった。
 大正初期から物満内川やその支流にて砂金の採掘も行われた。1920(大正9)年には水稲の試作を試みる。後に造田が進む。1922(大正11)年天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅を新設する。1923(大正12)年の戸数は30戸、245人。この年に鬼刺川川口付近に鮭鱒孵化場を設置する。
 1932(昭和7)年、1939(昭和14)年に天塩川の氾濫により被害多し。1935(昭和10)年の戸数は64戸、382人。上物満内地区は10戸57人。1941(昭和16)年頃には上物満内地区の住民は当時の満州(中国東北部)に移住したことから無人となった。1945(昭和20)年には旭日勝白砂金有限会社が採掘を企画するも第二次世界大戦の終戦で中断する。戦後には上物満内地区に引揚者などが再度入植している。1950(昭和25)年〜1955(昭和30)年にかけて村営鮭鱒捕獲場を物満内川・頓別坊川・岡穂内川などの河口に設置する。1953年(昭和28)年頃まで砂金の採掘が続けられたようだがその後は採掘されなくなった。1961(昭和36)年頃の戸数は筬島地区で41戸212人。物満内地区22戸、103人。1964(昭和39)年には全戸に電気が通る。1967(昭和42)年には筬島橋が架橋される。1978(昭和53)年3月筬島小学校廃校となる。


1797(寛政9)年、この年編纂された松前地並西蝦夷地明細記で、「ヲトヱ子フ」と表記されている。当時はテシホ場所に属していた。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川流域を訪れ、音威子府村筬島(おさしま)付近でアイヌの長老の家に宿泊、アイヌと深い交流のあった松浦武四郎は、蝦夷地を命名する際に「アイヌの国」と意味する「カイ」を入れ「北加伊道」という名を提案、これがのちに「北海道」となった。現在音威子府村筬島(おさしま)には、北海道命名の地碑がある。
1897(明治30)年、官有地から「御料地」に編入される。
1903(明治36)年、農地を「天塩御料農業地」の貸付という形で始まった。
1904(明治37)年、開拓が始まる。常磐駅逓所(現・咲来地区)の開設、下名寄村から石川県人の長村秀がこの地に移り住み取扱人になり、これが音威子府村の開基となった。
1905(明治38)年、御料農業地の貸し付けに応じた小作32戸が入植。富山県人下村鉄太郎外5名が入植する。
1912(大正元)年、11月国鉄天塩線(現・宗谷本線)の恩根内駅〜音威子府間が開通し、咲来駅と音威子府駅が設置された。
1914(大正3)年、11月音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。
1916(大正5)年、中川村(現・中川町)から分村し、咲来市街地に戸長役場を置き、中川郡常盤村となる。
1917(大正6)年、役場庁舎落成する。
1919(大正8)年、二級町村制施行する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、止若内、茨内、音威子府、のちに上音威子府が加わる。11月名寄機関庫音威子府分庫設置。
1921(大正10)年、10月宗谷本線を宗谷線に改称。名寄機関庫音威子府分庫が音威子府機関庫となる。
1922(大正11)年、11月宗谷線を宗谷本線に改称。天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。
1926(大正15)年、9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。
1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。
1956(昭和31)年、咲来地区に簡易水道完成する。
1959(昭和34)年、音威子府地区に簡易水道完成する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。
1963(昭和38)年、常盤村から音威子府村と改称する。字は咲来、ヌプトモマナイ、物満内、上物満内、止若内、茨内、音威子府、上音威子府。音威子府市街の舗装、水銀灯完成する。
1965(昭和40)年、開村50周年記念式典挙行する。
1967(昭和42)年、天理ケ丘スキー場完成する。
1971(昭和46)年、第1期総合計画を策定、天塩川温泉の建設、音威富士スキー場整備などを行う。
1977(昭和52)年、7月字の区域変更と廃止後の字名は、止若内・ホロカサックル・咲来原野を統合し咲来に、上物満内を物満内に、茨内・ヌプトモマナイ・ルベシュペ区画外・チセネシリ・セタオマナイを音威子府に変更、上音威子府はそのまま。
1978(昭和53)年、6月名寄機関区音威子府支区廃止。筬島小学校跡に彫刻家・砂澤ビッキがアトリエを構えた。
1981(昭和56)年、「森と匠の村」を標榜した第2次計画を実施。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承。
1989(平成元)年、5月天北線全線廃止。宗谷バスに転換。
1990(平成2)年、5月音威子府駅舎改築。
2006(平成18)年、人口が1000人を割り込む。
音威子府村史・音威子府村史本編上巻参考

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