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会田久左エ門の歌碑

住所 空知郡上富良野町安政火口への入口付近

かみふらの十勝岳観光協会

上ホロカメットク山西側山腹にある大爆裂火口である安政火口の手前にある小さな碑で、見落としやすい。
凌雲閣のそばにある登山口から徒歩約20分ほど歩く。安政火口分岐から数百mほどに碑があり、この先安政火口までの道は川に流されなくなっているので十分注意してほしい。
会田久左エ門は、当時「凌雲閣」の社長であり、1947(昭和22)年頃から十勝岳の地形図・登山道・湯源・開発道路・温泉宿の開発に生涯を捧げ尽力した人である。



1974(昭和49)年12月28日、安政火口の湯元の調子が悪くなったと、久左エ門と親戚の男子一人を連れて吹雪の中を修理に向かった。
当時、ここの温泉は雨水が浸透し溜まり水が熱せられたものなので、谷間から出るすべての温泉を効率よく集める必要があったという。
この場所は凹地で風が比較的弱いのと、地熱のため暖かく、冬でも雪が積もらず、作業はむしろ汗をかくほどだった。
ツルハシで詰まった湯元を改修し、セメントで水路を固め、一通りの改修作業が終って谷筋へ降りてくると猛吹雪に襲われ、汗ばんだ身体が一気に冷えた。
この急激な温度変化により久左エ門は脳出血で崩れるように倒れ、連れの男性が必死に運ぼうとしたが二重遭難になる恐れがあったので、下に助けを一人で呼びにいった。
救援隊が現場に到着し、上富良野町立病院に収容されたが、同日20時、久左エ門は六十九歳の生涯を閉じた。
 その後、会田久左エ門氏の十勝岳開発に全力を傾けた遺徳を讃えると共に、十勝岳登山の安全の為「登山指導標」を併せて建立することが決まり、会田久左エ門氏の倒れた地点に「十勝岳登山指導標」と共に「故會田久左エ門氏(号を青洞)」の遺徳を偲ぶ短歌二首」が刻まれた歌碑が建立された。
設置者は、富良野営林署・上富良野観光協会・上富良野町十勝岳山岳救助警備隊により、1975(昭和50)年8月8日建立。


碑文
風に叩かれ吹雪に耐えて
 岩に根を巻く松の幹

負けるものかと夜空に問えば
 月がほほえむ十勝岳
揮毫者 上富良野町長 和田松ヱ門

会田久左工門とは、1905(明治38)年 - 1974(昭和49)年12月28日、十勝岳温泉開発に尽力し、当時「凌雲閣」の社長であった。
山形県新庄に生れ、その後夕張に移住し、小樽、帯広と移り、その間スキーや農機具の製作に取り組んだ。
1938(昭和13)年、満鉄に就職。
1945(昭和20)年、終戦で現在の空知郡上富良野町西9線北29付近へ引き揚げて来た。
1946(昭和21)年、山本逸太郎他数人で大成木工株式会社を設立し、工場長になる。
1950(昭和25)年、絵が上手かったので看板屋を始める。この頃現在の凌雲閣に温泉を開発しようと志す。
現在の凌雲閣の上にある砂防ダムの辺りに湯を見付けたのと、安政火口(旧噴火口)より湯をパイプで引く事で現在地に温泉旅館を建てようとした。
大正時代には、旧噴火口で硫黄の採掘をし、トロ軌道と鉄索によって下げていたが、1926(大正15)年の爆発で30余人の犠牲者が出て中止になった。
当時、今の凌雲閣までの道は、翁温泉(現・バーデンかみふらの)の辺りより上はほとんどなく、資材を運ぶ苦労は言語に絶するものであったという。
又火口より引いたビニールパイプもよく破損し、砂防ダムの所に見付けた湯も大雨による岩石の落下で駄目になった。
現在の湯元はその後ボーリングによるもので今は湯の心配はないようだ。
1961(昭和36)年、この頃より刈り分け道路を作り、スガノ農機の初代社長・菅野豊治氏の授助を得て温泉旅館を建てる。
1963(昭和38)年、7月10日に落成式を行い、温泉旅館湯元凌雲閣オープン。

満鉄とは、正式名は南満州鉄道株式会社で、日露戦争後の1906(明治39)年に設立、1945(昭和20)年の第二次世界大戦の終結まで満州国に存在した日本の特殊会社で半官半民だった。
日露戦争の勝利により、多様な事業を展開し、鉄道経営に加えて炭鉱開発、製鉄業、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル、航空会社などの多様な事業を行い、最盛期には80余りの関連企業を持った。

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