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朝日ヶ丘公園

住所 富良野市字下御料

ふらの観光協会

富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
富良野市街地から国道38号線を芦別に向かい約3kmほど。新空知橋を渡って道道800号北の峯線から山部方面に向かい600mほどの側道に入り約1kmほど。
富良野の市街地から空知川を隔てた西側にある小高い丘の景勝地で、1934(昭和9)年に公園として整備され開園した。
約3000本を越える桜の木が植えられており、5月上旬には桜の名所としても有名で、ツツジも500本ほど咲く。


公園内の丘をめぐる道路は車で通行できるが、一方通行なので注意して欲しい。

開拓期の伐採後に育った二次林と人工林がひろがり、ミズナラ、イタヤカエデ、ホオノキなどが鬱そうと茂っている。
山腹の斜面ではエゾエンゴサク・フクジュソウが群生している。
富良野市街・富良野盆地・十勝岳連峰が一望できるが、最近は木が生い茂り見える場所も限定的になってきている。
この丘は、通称「なまこ山」と呼ばれていて、23.3ヘクタールの面積で、1950(昭和25)年に日本百景に指定されている。


駐車場から歩いて山頂方面に向かうと、平和記念塔がある。
1944(昭和19)年に富良野出身の戦死者のために「忠霊塔」を建立。その後1950(昭和25)年、「平和祈念塔」に改称。
毎年 6月15日に慰霊行事が行われている。



荒田九平翁頌徳碑
碑の表面には、協和進公益の題額、荒田九平翁頌徳碑の文字は、当時の富良野町長である高松竹次。
裏面の碑文
荒田九平翁は明治十五年八月七日江洲長浜市小堀町に生る祖を造園芸術の始祖
小堀遠州に発し小堀姓を名乗り後荒田姓庄屋筋の家柄なり翁生涯を公事に捧げたる思想
的素地は儼としてここに存するものと云ふべし翁明治四十二年渡道砂川に
来り大正二年富良野に居す程なく自治振興会をつくり大正五年には聨合青年団を発足
せしめて青年の指導にあたる翁の功業多しと雖も朝日が丘公園の開発を以って其の最
もたるものとなすべし丘の眺望は天下の絶景昭和十一年朝日が丘公園期成会をつくり
全町の応援を求めて道路を開き整地をなし桜等を植樹す一二年九月ここに此地方開拓
の功労者兜谷徳平翁の胸像を建設し後全国観光地百選に選ばれ昭和三十年四月富良野
芦別道立公園に指定させられたり昭和十三年消防後援会を設立し十九年朝日丘忠霊塔
を建設し二十二年五月平和愛生会を設立今日の平和祭の礎地をつくれり二十三年三月
自治警察署の設置せらるや公安委員長として戦後治安維持の重責を荷なふ二十四年よ
り二十五年にかけて火防衛生用水幹線を掘鑿し二十六年六月衛生自治組合の設立を提
唱す翁病をえて昭和二十七年九月二十六日七十一才を以て没するや富良野町は町葬の
礼を以てす時恰も道立公園指定十周年に際会す翁を深く敬慕する小玉寛ニ氏夙に建碑
の志しあり衆挙げて其の工に讃し以て翁の高風を後昆に伝ふ
昭和三十九年五月
旭陽 竹内武夫撰

荒田九平(あらたきゅうへい)とは、1882(明治15)年、8月7日 - 昭和27)年9月26日、富良野の功労者。
滋賀県長浜市字小堀村(現・滋賀県長浜市小堀町)に生まれる。
18のとき足の一部を切断するも、人生を公共に捧げる決心をする。
1909(明治42)年、11月渡道し砂川村(現・砂川市付近)に移住し、農家を営む。
1913(大正2)年、11月富良野産業株式会社に入社する。
1914(大正3)年、7月代書人認可をもらい生計をたてるようになり、戸長役場前に事務所を開設。
1919(大正8)年、9月司法書士認可を受ける。
1946(昭和21)年、10月富良野町選挙管理委員長に任命される。
1947(昭和22)年、9月旭川地方裁判所及家事裁判所各種調停委員司法委員に選任。12月富良野町公安委員長に就任。
1948(昭和23)年、1月家事審判所参与員に選任される。
1949(昭和24)年、12月家事調停委員となる。
1951(昭和26)年、1月司法委員、旭川家庭裁判所参与員に選任される。


兜谷徳平翁の胸像
兜谷徳平(かぶとやとくへい)とは、1852(嘉永5)年9月7日 - (大正14)年2月16日、芦別、富良野の功労者で、富良野原野開拓の父と言われている。
富山県西礪波郡藪波村(現・富山県小矢部市浅地)で生まれた。
礪波郡役所に奉職するが3年で退職。
1890(明治23)年、藪波村の村会議員に当選。9月助役に推選される。
1891(明治24)年、3月藪並村の村長となる。
1894(明治27)年、北海道の新天地に憧れを抱き退職を願い出るが、人徳を惜しんでこれを受理せず現職のまま北海道に渡る。このとき移民団体を募り、六十八戸、三百二十余人を引率し、空知川沿岸の芦別村小百戸(現・芦別市福住町)に入植した。
1895(明治28)年、4月村長の退職を受理した。
1897(明治30)年、7月札幌郡白石村外一ヶ村の戸長になる。
1899(明治32)年、兜谷徳平が取扱人となり下富良野官設駅逓を設置、このとき芦別郵便局長も兼務していた。
1915(大正4)年、下富良野村村会議員に当選する。
1921(大正10)年、この年まで下富良野村村会議員を務めた。11月総延長15511間(約28.2km)に渡る用水路、山手幹線の着工。
1923(大正12)年、5月山手幹線の竣工。
1938(昭和13)年に建立したが、現在の胸像は1950(昭和25)年に作り直されたもの。


朝日ヶ丘総合都市公園も隣接しており、パークゴルフ場・アスレチックが整備されていて市民の憩いの場になっている。
近くには、石のふるさと空知川もある。

その昔、朝日ヶ丘公園にはジャンプ台もあり、有名選手を招いてジャンプ大会なども行ったことがある、当時はものすごい混雑で子供の頃の記憶にありますね。
1972(昭和47)年、12月朝日が丘ジャンプ台(70m級)完成。何度か使われその後ジャンプ大会は行われなくなり、近年ジャンプ台は解体された。

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