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東中開拓者顕彰の碑・奉安殿

住所 空知郡上富良野町東8線北18号

かみふらの観光協会

かみふらのの郷土をさぐる会

東中神社の境内にある開拓者顕彰の碑は、北海道開拓100年・上富良野町開基70年を記念し、東中開拓の草創期の人々116名を刻み、功績を讃えて建立されたものである。
   碑文
遥かに明治をしのび北海道に政治の手が指しのべられて満100年、その後わが郷土東中が拓かれて70年、父祖の手よる田畑1200町歩とその土ににじむ汗の香ひ山に残した鍬の響き遥かなる日より書きせぬ。
べべルイの清流泰然と平野を見おろすオプタテシケの容姿この地に風雪にたえ苦難を忍び、原始の森を拓き明日への灯を燃しつづけた幾多の先人を偲ぶ
今や輝かしく築かれし東中の文化無限に伸び行くこの地の産業、喜びに溢れて生きぬく人々われ等の父祖が朝には十勝岳に拍手を打って祈り、夕べには先祖の位牌にぬがづいて念じた信仰と勇気と敬意と感謝の誠を捧げん。
ここに同志相ばかり明治30年以来、拓北の雄図を胸に、深く秘めて津軽の海を渡って移り来し草創期の人々の名をつらねてその労をねぎらい功を讃えて碑を建つ。
既に、この地より国家社会に有為の人材、数多出でたり老も若きもこの碑に刻まれし開拓者の雄魂に対し、心から平れ伏されたし
昭和43年5月、誌


西谷翁頌功碑
西谷元右ヱ門は、1875(明治8年8月、三重県多気郡外城田村(現・三重県多気郡多気町)に父忠蔵の長男として生れる。
家は代々農家で、20才の時独立して、米穀、茶などの商店を開いたが、日清戦争の経済界の不振で、事業は失敗した。
1895(明治28)年3月、北海道移民団に加わり、父と共に空知郡幌向村(現・夕張郡長沼町)に移住したのが21才の時。
当時幌向原野の主産物である燕麦を大量に買い占めたのが、日露戦争前後の経済界の波乱に巻き込まれて大失敗に終り、1908(明治41)2月、上富良野に転居する。
その後、6期に渡り村議会議員として活躍し東中地区の発展に大きく貢献した。
碑は東中産業組合によって、1937(昭和12)年、10月建立した。


東中奉安殿
造営された奉安殿は、天皇陛下の御真影、教育勅語謄本などを奉安するために学校の敷地内に作られた施設。
1915(大正4)年10月、建築物の材質は、一位(オンコ材)を使用し、宮大工工匠松岡氏によって完成した。
奉安殿の建物は、倍本の熊野神社境内に一度移設された。
1941(昭和16)年、舗道車に乗せ、馬道を馬引きで倍本神社に運んだそうで、神社境内までは傾斜がきつく苦労して移設されたようだ。
1963(昭和38)年、倍本神社は東中神社へ合祀される。このとき奉安殿も東中神社に一緒に奉られることになる。
ちなみに二代目、東中奉安殿は、1940(昭和15)年、東中小学校校舎の北側の地に、御影石の石材で造営されたとあるが、敗戦後軍国主義の追放に従い2代目の奉安殿は解体された。
現在東中神社の境内にある奉安殿は、1915(大正4)年10月、宮大工工匠松岡氏によって作られたもので、森の奥深く(倍本神社)に鎮座していたため解体を逃れた貴重なものなのである。
この建造物は、唐(中国の建築技術)伝来の奉安殿造りとしては、全国的にも極めて希少価値が高く、1973(昭和48)年、6月15日町の文化財に指定された。


東中富良野神社は、1899(明治32)年に創立とあるが、最初は「地神」「山神」の形で奉られていた神々を、1902(明治35)年、天照大神を祭神として統合され、祭られたそうだ。
当時官設鉄道の線路が旭川から、富良野原野を通り十勝に向かって敷設される予定だったが、途中の鳥沼が湿地帯で軟弱地盤だった為、当時の鉄道建設技術では困難との判断で変更、上富良野駅より中富良野経由で富良野まで鉄道が敷かれた。
東中に停車場建設が浮上していたこともあり、東中神社がこの地に造営されたのだそうだ。

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