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山田嘉久平翁之碑

住所 富良野市島ノ下

ふらの観光協会

富良野市生涯学習センター

富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
島ノ下の地名はアイヌ語の「モシリ・ケシ・オマ・ナイ」(島の下手にある川)に由来する。1913(大正2)年に鉄道省が命名したもので、それまでは六戸と呼ばれていたという。
国道38号線から道道135号美唄富良野線に入り、約80mほど。
島ノ下渡船場も近くにあり、島ノ下駅から下流にあり、富問地区を結ぶ要所であった。山田嘉久平が初代、二代目は松永仲次郎がつとめた。1917(大正6)年から昭和初期に及び、島ノ下橋(国道38号線)が開通しその役目を終えている。

碑文
翁ハ安政元年十月七日広島県安芸郡壇原村字小助堂ニ生ル明
治三十五年五月島ノ下ニ移住人跡未踏ノ地ヲ開拓シ以テ今日ニ至ル
資性剛直質素ニシテ犠牲心ニ富ミ公共事業ニ尽セシ功大ナリ
仍テ部落民一同感謝ノ意ヲ表スルタメ之碑ヲ建テ記念トナス
大正十一年九月秋 1922(大正11)年、神社境内に碑を建立した。


春には、エゾエンゴサクが島ノ下神社境内一面に広がりとても綺麗である。


すぐそばに芦別市泉地区(字尻岸馬内)があり、ここには島ノ下温泉が2箇所あった。
坂田温泉、1906(明治39)年、杣夫によって発見され、温泉の経営が始まるがそれ以前から風呂を作って入っていたという。
その後、1912(大正元)年、御料局から借受けて、渡辺辰造が渡辺温泉を開業するも翌年廃業。
1913(大正2)年、渡辺温泉を引き継ぎ、堀川亀太郎が堀川温泉を開業。1932(昭和7)年、堀川亀太郎が亡くなり堀川亀五郎が跡を継ぎ、1952(昭和27)年まで営業した。
1952(昭和27)年、堀川温泉を坂田ノコが引き継ぎ坂田温泉となる。
1963(昭和38)年、8月坂田温泉を引き継ぎ五楽園を開業。1965(昭和40)年には新館(平屋6室)を建設。周囲を整備し、遊園地や池も作られたが廃業する。

もう一つは、佐々木温泉(不動閣温泉)で1931(昭和6)年、に300間(約545m)離れた沢から源泉を引いていた。平塚米蔵他1名が創業した。
その後、相良光昶が継いで相良温泉となる。
相良温泉を青木亀五郎が引き継ぎ青木温泉となる。
1944(昭和19)年、青木温泉を佐々木玉吉が継いで佐々木温泉となる。
1967(昭和42)年、佐々木温泉を保勇久好が継いで島ノ下温泉みゆき荘となり、浴場と局室を改装した。
この両温泉は、尻岸馬内川の対岸にあり行政区が違う芦別市泉にあったが、島ノ下温泉と呼ばれていた。

他にも松寿園温泉・平山温泉・緑泉荘があり、松寿園温泉は1928(昭和3)年4月、吉本千代市が建てた。鉱泉は島ノ下八十八ヵ所付近の沢から引いていた。
第七師団の療養地にも指定されていたこともあり、一時は盛大に営業したが、経営者が亡くなり廃業した。
平山温泉は、松寿園のそばにあり、年代も同じ頃、平山某が建てた。
緑泉荘は、両温泉の上部の森林の中にあり、1953(昭和28)年あたりに富良野営林署が作ったもので、数年で廃業した。泉源も同じものと思われる。
現在、島ノ下にはハイランドふらのがあり、富良野で最大面積のラベンダー畑が広がる、ラベンダーの森の中核施設で、温泉、宿泊、研修設備を兼ね備えた施設、ラベンダー畑を目の前にして立つ温泉がある。


山田嘉久平(やまだかくへい)とは、1854(安政元)〜1923(大正12)年、島ノ下開拓功労者。
広島県安芸郡壇原村(現・広島市段原)に生まれる。
1900(明治33)年、未墾地の貸与を受け、1902(明治35)年に入植、入植当時貸与地を6戸に分割したことから六戸部落とも称された。(このとき、山口弥吉他4名が入植した。)
以後、同地で開墾に励むと共に、部落の公職を務める。
1913(大正2)年、11月北海道官設鉄道十勝線(根室本線)の滝川〜下富良野間が開業し、島ノ下駅を新設した際には、開設のため鉄道用地7反(70アール)を寄付、神社建設にも敷地を寄付するなど大きく貢献した。

根室本線とは、滝川市滝川駅から帯広市・釧路市を経て根室市根室駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線である。
釧路駅から根室駅までの区間には「花咲線」の愛称が付けられている。
1899(明治32)年、9月北海道官設鉄道十勝線として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。11月美瑛〜上富良野間が延伸開業、上富良野駅を新設。
1900(明治33)年、8月上富良野〜下富良野間が延伸開業、下富良野駅を新設。12月下富良野〜鹿越間が延伸開業、山部信号停車場・金山駅・鹿越駅を新設。
1901(明治34)年、9月鹿越〜落合間が延伸開業、落合駅を新設。4月山部信号停車場を駅に変更する。
1902(明治35)年、12月幾寅駅を新設。
1905(明治38)年、4月官設鉄道に移管する。
1901(明治34)年、7月北海道官設鉄道釧路線釧路(後の浜釧路)〜白糠間が開業、白糠・庶路・大楽毛・釧路駅を新設。
1903(明治36)年、3月白糠〜音別間が延伸開業、音別駅を新設。12月音別〜浦幌間が延伸開業、浦幌駅・厚内駅を新設。
1904(明治37)年、8月浦幌〜豊頃間が延伸開業、豊頃駅を新設。12月豊頃〜利別間が延伸開業、利別・池田駅を新設。
1905(明治38)年、12月利別〜帯広間が延伸開業、帯広駅・止若駅を新設。
1907(明治40)年、9月落合〜帯広間が延伸開業により旭川 - 釧路間が全通する。狩勝給水給炭所・新内・新得・清水・佐念頃・芽室・伏古の各駅を新設。
1909(明治42)年、10月旭川〜釧路間が釧路線となる。
1913(大正2)年、10月下金山駅を新設。11月滝川〜下富良野間が開業する。幌倉・上赤平・平岸・下芦別・野花南・奔茂尻・島ノ下の各駅を新設し、滝川〜釧路間を釧路本線と改称し、下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。
1917(大正6)年、12月釧路〜厚岸を延伸開業。上別保・上尾幌・尾幌・門静・厚岸・浜厚岸の各駅を新設。釧路駅が現在の位置に移転。
1919(大正8)年、11月厚岸〜厚床間を延伸開業、糸魚沢・茶内・浜中・姉別・厚床駅を新設。
1920(大正9)年、11月厚床〜西和田間を延伸開業、初田牛・別当賀・落石・西和田の各駅を新設。
1921(大正10)年、8月西和田〜根室間延伸開業により全通する。花咲駅・根室駅を新設、滝川〜根室を根室本線と改称する。
1927(昭和2)年、12月26日布部駅を新設。
1942(昭和17)年、4月下富良野駅を富良野駅に改称する。
1943(昭和18)年、6月上赤平駅を赤平駅に改称する。
1946(昭和21)年、5月下芦別駅を芦別駅に、奔茂尻駅を滝里駅に改称する。
1952(昭和27)年、11月上別保駅を別保駅に改称する。
1954(昭和29)年、11月幌倉駅を東滝川駅に、伏古駅を西帯広駅に改称する。
1963(昭和38)年、11月止若駅を幕別駅に改称する。
1966(昭和41)年、3月釧路機関区にDD51形を配置。9月鹿越駅を信号場に(金山ダム建設にともなう線路付替)変更。9月落合〜新得間の新線を開業。10月落合〜新得間の旧線を廃止、新内駅・狩勝信号場廃止。
1969(昭和44)年、4月富良野〜釧路間ディーゼル機関車が走る。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道(JR北海道)が承継。
1991(平成3)年、7月花咲線全線ワンマン運転開始。10月野花南〜島ノ下間、滝里ダム建設にともなう線路付替を行う。滝里駅廃止となる。
1993(平成5)年、3月滝川〜釧路間で全普通列車ワンマン運転開始。

第7師団とは大日本帝国陸軍の師団の一つで、1885(明治18)年に。北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された。
屯田兵を母体とし1896年(明治29年)5月12日に編成され、北辺の守りを担う重要師団であり、「北鎮部隊」と呼んでいたそうだ。

エゾエンゴサク(蝦夷延胡索)とは、ケマンソウ科キケマン属の多年草で、北海道から東北地方に分布し、森林内、林縁部に生える小さな花。
早春に10〜20cmほどの花茎を伸ばし、薄青から薄紫の花を咲かせる。葉は楕円形の小葉3枚からなる。開花時期は4月下旬〜5月上旬。約2週間ほどでカタクリよりやや早く咲き始める。

国道38号線とは、滝川市から釧路市へ至る一般国道で、総距離は298.4km。

道道135号美唄富良野線とは、美唄市と富良野市を結ぶ主要道道で、総距離は32.4 km。美唄市美唄ダム付近から芦別市三段滝付近の間は未開通で、工事が進められている。

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