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大正大爆発丸谷温泉遭難者慰霊碑

住所 上川郡美瑛町白金

社団法人 美瑛観光協会

びえい白金温泉観光協会

上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもの
美瑛の由来は、アイヌ語の「ピイェ」より転訛したもので「油ぎった川、濁った川」という意味。
どの土地を掘っても濁り水が出たことに由来するそうで、開拓者が「ビエイ」と訛って呼んでいたものに「美しく、明朗で王者の如し」という意味の「美瑛」の漢字があてられた。
白金温泉から道道966号十勝岳温泉美瑛線を望岳台に向かい5kmほど車で走ると標高930mのビューポイントがある。
眺望が自慢のポイントで美瑛や遠くは旭川まで見ることも出来る。
望岳台は十勝岳登山の拠点にもなっており、学生から年配まで、広い年代の方々が登山に挑んでいる。この駐車場のそばには十勝岳爆発記念の碑もある。
1926(大正15)年、5月24日の十勝岳の大爆発は山の姿をまったく変えるほど大規模なもので、12時ごろ発生した水蒸気爆発では、小規模な火山泥流が発生して現在の望岳台付近まで流下した。このとき熱泥によって、丸谷温泉主の「父・丸谷吉之助氏」「二男・吉幸氏」「三男・政幸氏」の三名が犠牲になった。
同日、16時18分には大規模な水蒸気爆発が起こり中央火口丘の西半分が崩壊、これにより生じた岩屑なだれは噴火から約1分で火口から2.4kmの地点にあった硫黄鉱山の平山鉱業所宿舎を飲み込み、さらに山頂付近の残雪を融かして泥流を発生させた。
この泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し、25分で約25km離れた上富良野市街に到達した。
この爆発で、現在の白金温泉附近にあった「畠山温泉」でも、主人畠山三郎氏夫妻・孫の次郎、湯治客の堀田ミヨキさんの4名が犠牲になった。
爆発にともなう火山灰、溶岩、泥流による被害は甚大で、上富良野を中心に死者・行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。
十勝岳山麓温泉の先駆者として苦心惨憺の結果、温泉を切り開き、父と共に丸谷温泉の施設拡充に心血を注いでいた中で、丸谷温泉は、施設、住人ともに溶岩と泥流の下に埋没する悲運に遭遇した。そこで、丸谷温泉の遺族は爆発50年を記念し、1975(昭和50)年5月24日、望岳台に慰霊碑を建立したもので、国立公園の中とあって大理石などは使えず、溶岩をケルン風に積み上げて慰霊碑にした。

大正大爆発 丸谷温泉遭難者慰霊碑
 明治三十七年祖父常吉、十勝岳一帯の
泉源を調査 温泉を発見 関係機関の許
可を得 道路の開作 旅館施設を整え 
第一より第三温泉として開業した 盛業
時には 年間湯治客 五百余名を数えた
なお 施設の拡充を計画 新築作業に従
事中 大正十五年五月二十四日 十勝岳
大爆発に遭遇し 父吉之助 兄吉幸 
政幸、一瞬にして山津波に巻込まれ死亡
温泉はもとより、施設とともに、潰滅し
た。遺族は、母を中心として、幾多の辛
苦を克服 今日に至る
 茲に爆発五十年を記念遭難の父兄及
び母の労苦を偲び、慰霊のため、この碑
を建立する
昭和五十年五月二十四日
遺族建立

丸谷常吉とは、1857(安政4)年1月26日 - 1925(大正14)年5月26日、丸谷温泉の創業者。
宮城県遠田郡田尻村一九九番地(現・宮城県大崎市田尻付近)にて、父久吉、母まつ、の一男二女の長男として生れる。
1891(明治24)年、渡道して札幌に移住し7年開拓に従事した。
1898(明治31)年、7月神居村台場ヶ原番外地(現・旭川市神居町忠和)に移り住み、開墾する。12月近文一線一號區劃外(現・花咲4丁目付近)に移り住み、後の中島公園になった地を、六十余名と共に開墾する。
1902(明治35)年、十勝岳に高山植物の採取に出掛けた所、温泉を発見する。このとき吹上温泉を発見したと推定される。
1905(明治38)年、11月北海道庁へ温泉使用の出願する。
1907(明治40)年、9月北海道庁より許可が降りて家屋其他の準備をする。
1909(明治42)年、温泉開業する。温泉は硫性塩類泉で、一日の宿泊代一圓、罎結一升一本二圓、湯花一斤一圓五十錢である。第一温泉・第二温泉・第三温泉・第四温泉と拡張し、盛業時は年間の湯治客は五百余名が利用された。
常吉氏は奉仕的観念の強い人で、丸谷温泉付近に施療所の建設を考えていたが病に伏せり、事業を息子吉之助氏に遺言して死去した。

丸谷吉之助とは、1874(明治7)年12月3日 - 1926(大正15)年5月24日、丸谷温泉の経営者。
父常吉、母みへの一男二女の長男として、宮城県遠田郡田尻村一九九番地(現・宮城県大崎市田尻付近)に生れる。
吉之助氏には、七男五女あり、長男實行氏は遞信局に奉職し、次男吉幸氏・三男政幸氏の父子三人は十勝岳大爆発で亡くなった。四男久幸氏、六男武雄氏、七男敏夫氏、二女三女共に高等女学校に進んだ。
1891(明治24)年、常吉が34歳の時に渡道し、札幌区白石村廣嶌(現札幌市白石区付近)に移住し7年開拓に従事した。
1898(明治31)年、7月神居村台場ヶ原番外地(現・旭川市神居町忠和)に移り住み、開墾する。12月近文一線一號區劃外(現・花咲4丁目付近)に移り住み、後の中島公園になった地を、六十余名と共に開墾する。
1907(明治40)年、旭川町に「蛇(じゃ)の湯温泉」を経営する。「その薬湯の原料に、十勝岳噴火口付近から湧出する湯滝の壷の湯華を採取し利用していた」と記載があるそうだ。
909(明治42)年、温泉開業する。温泉は硫性塩類泉で、一日の宿泊代一圓、罎結一升一本二圓、湯花一斤一圓五十錢である。第一温泉・第二温泉・第三温泉・第四温泉と拡張し、盛業時は年間の湯治客は五百余名が利用された。
1919(大正8)年、7月石狩川大洪水にて「蛇(じゃ)の湯温泉」流失する。
1920(大正9)年、層雲峡温泉の将来を目指して、北海道庁に出願したが、「塩谷忠氏」に許可が下り、丸谷吉之助氏は納得せず、旭川区裁判所に民事訴訟を提起したが敗訴した。

その後十勝岳望岳台の「丸谷の水」が、1961(昭和36)年に発見される。
沢から湧き出すPH6.2の湧水を発見し「丸谷の水」と命名された。水量は毎分0.7リットルほど。タンクをおいて貯水してあったそうだが、現在は無い。

道道966号十勝岳温泉美瑛線とは、空知郡上富良野町と上川郡美瑛町を結ぶ一般道道で、総距離は32.9km。

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