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松浦武四郎顕彰之碑

住所 空知郡上富良野町西8線北33号深山峠

かみふらの十勝岳観光協会

国道237号線沿いにあり、深山峠アートパーク敷地内にあるが目立たない。
松浦武四郎の足跡を後世に伝えるため、1973(昭和48)年10月に建立した。
礎石は、陸上自衛隊三〇八地区施設隊により、演習場内の十勝岳から噴出した火山岩を搬出して据えつけられたもので、敷地は個人所有であったが、後年土地建物一切が上富良野町に寄贈されている。


碑文
江戸末期安政年間松浦武四郎は幕命を受け蝦夷地理調査の大使命を帯び、千古不斧の原始林に踏
み入り猛獣と戦いつつ遂に此の地に到達し、ここより眺望する富良野盆地を穀倉となることを
予言したのである。
折も折、十勝岳の一角が大爆発を起し天をもこがす凄しさに、従者で時の酋長クーチンコロは、驚き戦
き地にひれ伏して神に祈りを捧げたとのことである。
今ここより見渡す美しい田畑植林は、松浦武四郎の先見の明と、我れ我れの父祖開拓の血と汗の結晶の賜である。
今十勝岳連峰を望む深山峠にたたずみ、松浦武四郎の偉大なる足跡を偲び心ある人々の浄財によ
り碑を建立し、これを永く後世に伝えんとするものである。


1858(安政5)年、2月21日石狩を出た武四郎の一行は、3月2日チクベツ(忠別)番屋に到着し、石狩川の川上にあるウエンベツ(宇園別)まで一見した。
十勝へ越える仕度を整え、案内人と人夫は道すじを知っているものと入れ替えたりしている。
 3月9日、チクベツを出立した、このとき、武四郎、飯田豊之助、クウチンコロ、アイランケ、シリコツ子、ニポンテ、セツカウシ、イワンパカル、タヨトイ、アエコヤン、サダクロウ、イヤラクル、サケコヤンケ、イソテクが加わり一行14人となった。
このとき武四郎は、十勝へ駆け落ちした者がおると聞かされる。イソテク家とシリコツ子家から太刀や鍔(つば)など19品を無断で持ち去ったので、両人から「この度彼の地へ行き候はゞ、何卒して其者を捕らへ、品物など取り返しくれ候様」と頼まれ、承知して美瑛川支流のホロナイ(美瑛町美田第二)に露宿している。
 3月10日、夜明け前に出立し、ホロナイから東南東に向い、置杵牛川を渡り、美瑛川を越えてから進路を南に取り、美馬牛川の水源を確め、ビエベツ(上川郡美瑛町春日台間宮岳付近)の高地で、「硫黄の燃る烟実に目覚しく天にさし上がりたり。」と十勝岳の噴煙を眺め、上富良野町域へ足を踏み入れた。
そしてポンカンベツ(江幌完別川)沿いに下り、フウラヌイ大川(富良野川)を越え、笹原の丘陵地を歩き、「一か国位とも見られる平野にして、土肥え暖気にて、雪少しもなし。実に一大良域と云うべきの地味なり」と述べている。
クヲナイ(コルコニウシベツ川)を越えて、レリケウシナイ(旭日川)の川端に着くと「これより先は飲用できる水がない」というので、野宿する。
 3月11日、ニヨトイ(現・自衛隊演習場内)ベベルイ川を渡り更に支流のサッテキベベルイ(カラ川)を上り、雪の川の上で焚火し雪を沸かして昼食をする。先に進み急斜面を20丁ほど登ると、一昨日あたり泊った跡があり、案内人曰く「これはトカチの者の足跡である」といった。
「これより上へ行くとトドの木も薄くなり、寒風にさらされるようになるので、この所に泊るべし」と言われ、カラ川の水源の辺りで野宿するも夜には狼の遠吠えが絶え間なく聞こえていたという。
 3月12日、右にヲッチシバンザイウシベ(前富良野岳)、左にはヲッチシベンザイウシベ(富良野岳)鞍部であるルウチシ(路を越える)を越し、ヌモツベイトコ(現富良野市原始ケ原二の沢川・布部川水源)を経て、シーソラプチ川(空知川源流)上流、二股に宿泊し、そこから十勝に抜けている。
 3月13日、険しい谷間をよじ登り、十勝境と思われる峰にたどり着くが、磁針を確かめず渓間に下がったが、そこは昨夜泊ったシーソラプチ川の下流だったことが判明、落胆したが、暫く休んで再び先ほどの峰に登り、佐幌川へ下ることができた。
 3月14日ニトマフ(人舞)の乙名アラユク家に至ると、クウチンコロ、セツカウシ、イソテクは昔訪れたことがあるので、再開を喜んだ。
 3月16日、シリコンナ家に至り、このあと武四郎は十勝川を下り、3月21日大津で飯田と別れたあと釧路に至って、アカンからアバシリ越えの調査に向かうのである。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日) 〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

国道237号とは、旭川市を起点とし、浦河郡浦河町を終点とする一般国道で、総距離が260km。

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