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沼崎重平翁彰徳碑

住所 上川郡美瑛町美馬牛北1丁目

美瑛町観光協会

JR富良野線美馬牛駅前、駅を背にし右手にひっそりと碑が建っている。
びばうしは、アイヌ語の「ピパ・ウシ」(沼貝がいるところ)から。
この碑は、沼崎農場主・美馬牛駅の開駅に尽力した沼崎重平翁を讃えたもので、1955(昭和30)年、6月10日沼崎農場及び美馬牛の人々が『沼崎重平翁彰徳碑』を建立したもの。


碑文
沼崎重平翁資性温良仁慈に富む明治三十九年北海道拓殖医として本町に移住医院開業爾来十有五年僻村医療の為専念其間村会議員を勤められ寸暇のない身で開拓事業にも尽瘁された功績は筆舌に尽し難い大正二年美馬牛駅を中心とする区域を沼崎農場とし開拓指導に力を注がれたが美瑛上富良野両市街には何れも三里余の行程を有し交通不便の為発展に支障あると痛感された翁は此処に停車場の設置請額運動を起し爾来十有数年間初心貫徹の為あらゆる困難を排除し大正十四年遂に停車場設置許可を得美馬牛駅と命名翌十五年九月開設された翁は又美瑛宇莫別川未曾有の水害復興に身命を賭しての功績に依り美瑛原野の一部貸付を得農場として開発された現在美瑛町沼崎農場が即ちこれである翁は其後本町を去り旭川市に於て沼崎医院を開設され専ら仁術に尽瘁されている是等数々の功績を刻名して永遠に伝える。

沼崎重平とは、1878(明治11)年11月11日 - 1959(昭和34)年4月15日、旭川で最初の総合病院を作った医師。
1878(明治11)年11月11日茨城県稲敷郡根本村字下根本(現・茨城県稲敷郡新利根町新利根村)にて、歯科医師沼崎弥兵衛の三男として生まれる。
小学校を卒業後私塾で漢学を学ぶ、その後1897(明治30)年、医を志し上京、東京医学専門学校に入る。
1902(明治35)年、5月医術開業後期試験に合格。同年6月30日医師免許証交付、社団法人東京慈会病院研究員となる。
1904(明治37)年、郷里の根本村で自宅を改装して開業するも経営は困難だったという。友人の飯田喜平氏が旭川第七師団の将校として赴任しており、美瑛村の村医として来て戴きたいとの懇望を受ける。
1906(明治39)年、8月美瑛村の開拓医として北海道に赴き、沼崎医院を開業する。
1913(大正2)年、第二マルハチ牧場を譲り受け開拓事業に着手した。美瑛と上富良野に沼崎農場を作る。
1915(大正4)年、4月1日二級町村制が実施され、村議会議員に当選したが、政治との両立が出来ないことを悟り辞職して医療に専念した。
美瑛−上富良野間に鉄道が開通したのは1899(明治32)年、11月15日18.9kmその間、停車場がなく沿線住民より駅の設置が要望され、1914(大正3)年請願陳情を出す。
1920(大正9)年、10月美瑛を後にし、旭川市二条十丁目の向井病院を引き続ぎ、吉池守太氏と共同経営をし、旭川で最初の総合病院となる。
1925(大正14)年8月沼崎農場近くに停車場設置を考えたが地形的に困難とのこと、やむなく現在の美馬牛駅周辺の土地十五町歩を沼崎重平が買収し、鉄道省に鉄道用地として寄付して正式許可となる。
1926(大正15)年、9月美馬牛駅開業する。
1930(昭和5)年、12月共同経営の吉池守太氏が六条十丁目の自宅で開院したため、沼崎先生一人が病院経営をする事になり、旭川医師会副会長などを歴任する。
1934(昭和9)年、沼崎農場を小作人に解放し自作農になる。
1941(昭和16)年、四条九丁目の阿部病院を買収し沼崎内科として開院する。
1945(昭和20)年、長男修氏が、東北大学医学部卒業し、沼崎病院を手伝う。
1952(昭和27)年、父の跡を継いで沼崎病院長になる。

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