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水稲発祥之地碑

住所 富良野市南扇山東8線南3号

ふらの観光協会

富良野市生涯学習センター

富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
扇山の由来は、小泉玉貴(扇山小学校校長)が神社の山の形からつけ、1919(大正8)年頃から定着した。
富良野市街地から国道38号線を帯広方面に約2.6kmほど進み、側道に入り真っ直ぐ650mほど。
近くには、扇山開拓碑もある。
富良野市の米作は、1899(明治32)年、滝川より徒歩で水苗を持参したものと他の苗を合わせて、操上貞次が自宅裏で苗植えし、約5畝歩(495.8u)試作し、6斗(約108.2リットル)の収穫を得たことにはじまる。品種は赤毛と呼ばれていた。
碑石の表面には、北海道知事田中敏文揮毫による。「富良野町水稲発祥之地」

高さ9尺(約2.7m)、幅2尺5寸(約75.7cm)
裏面には、明治三十二年繰上貞次氏始作す
開町五十周年記念
昭和二十七年八月二十二日建之
発起者
扇山郷土誌編纂委員会

功績を後世に伝えるため、1952(昭和27)年、8月富良野開町50周年記念事業の一環として建立される。

1900(明治33)年、から4ヵ年かけ造田計画を立案するも水の誘導に困り、布礼別川上流より水を引く計画を立て工事に着手した。(家族5.6人で工事を担った)
それから数十日後には完成し、目的地まで水を流すことが出来た。
これも扇山最初の用水路であり、現在の第四幹線と言われている。
1928(昭和3)年、上川産米100万石を突破したことを記念した祝典が行われ、上川の稲作を盛況に導いた水稲試作功労者5名、水稲試作成功者13名、水稲開発功労者60名、新品種・優良品種選出者9名、優良農具考案者6名がそれぞれ表彰され、その中に水稲試作功労者・富良野町繰上貞次もいた。
富良野市史第二巻参考

田中敏文(たなかとしぶみ)とは、1911(明治44)年11月9日 - 1982(昭和57)年12月20日、北海道知事。
青森県出身で、九州帝国大学卒業後、北海道庁に入庁。林政部森林土木係長、全道庁職員組合委員長となる。
1947(昭和22)年4月21日、北海道庁長官選挙に日本社会党から出馬、初の民選・北海道知事として当選する。知事になった時の年齢は35歳で、最年少の公選知事である。
1954年の昭和天皇、香淳皇后の来道時には全日程をお供した。北海道知事を3期、1947年4月21日〜1959(昭和34)年4月22日まで務め、引退した。

繰上貞次とは、1848(嘉永元)年 - 1919(大正8)年、富良野開拓功労者、富良野水稲栽培創始者。
東伯郡中北条村(現・鳥取県東伯郡北栄町北条)に生まれる。
1894(明治27)年、家族で渡道し、空知郡江部乙村に移住する。その後水田造成の必要性を見出し、道庁より稲苗を借り受け開発に着手し江部乙の水田開発に多大なる貢献をした。
1898(明治31)年、中村千幹の奨めで富良野に移住する。神代農場の小作人として15町歩(約148.7u)を開墾する。
その後7町5反歩の譲渡を受け、自作農の先駆者となる。
1899(明治32)年、水稲栽培を試みるため、江部乙の屯田大隊にいた繰上粂蔵から赤毛の稲苗を取り寄せ住宅裏手、5畝歩(495.8u)試作し、6斗(約108.2リットル)の収穫を得た。

国道38号線とは、滝川市から釧路市へ至る一般国道で、総距離は298.4km。

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