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上富良野町 ラベンダー発祥の地

住所 空知郡上富良野町東7線北20

かみふらの十勝岳観光協会

空知の由来は、アイヌ語の「ソーラップチ」(滝が・ごちゃごちゃ落ちている・川)と呼ばれ、和人がそれをソラチと呼んだことに由来する。
上富良野町の由来は、富良野川の上流にあたる事から。
富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
上富良野の市街地から道道298号上富良野旭中富良野線を富良野方向へ約5.5kmほど進み、デボツナイ川の掛かる6線橋を越えて斜め左方向に側道を約1.0km左手の会館横に碑がある。

上富良野町にラベンダーが作付けされたのは、1948(昭和23)年で、1951(昭和26)年には東中地区内にボイラー式蒸留場が設けられおり、栽培農家自ら蒸留作業にあたっていた。
作付面積の拡大に伴い、島津・江花・旭野・日の出・里仁地区にも蒸留施設が設置され、最盛期には85ha(約850000平方メートル)と全国有数の生産量を誇った。蒸留場は現在解体され見ることは出来ない。
1970(昭和45)年当時の国鉄のカレンダーにラベンダーが採用されたときに始まり、1976(昭和51)年全国キャンペーン「一枚の切符から」のポスターにも採用され、1977(昭和52)年東中の吉河喜逸氏が耕作していたラベンダー畑の写真が「北海道新聞」に掲載されたこともあり、観光客が年々増加してきたとも言われている。
ラベンダーの観光面での知名度と価値観が高まり、1981(昭和56)年「町花」に認定された。
ここで、はっきり申し上げておきたいのは上富良野のラベンダー発祥の地はここ東中であり、町営の日の出公園にある碑自体は発祥の地ではなく、上富良野の観光PRを目的とした発祥の碑であるということ。中富良野町のファーム富田は、観光における発祥の地と言えるのでお間違えの無いように。そして日本における発祥の地は、札幌市南沢3条4丁目の札幌南沢神社境内に碑がある。1940(昭和15)年に札幌南ノ沢(現・札幌市南区南沢)の麻田農場にて16.4haのラベンダーが植えらたのが国内最初。1942(昭和17)年にラベンダーオイルの抽出成功につながっていく。最盛期は1970(昭和45)年だが、その後安価な合成香料輸入の影響により、香料原料として札幌におけるラベンダー畑は、1972(昭和47)年に栽培を終えた。

碑文
上富良野町の ラベンダーの由来
 ラベンダーは、フランス原産のシソ科の多年生小灌木で、
古くから地中海沿岸で香料作物として栽培されている。
 昭和12年に日本各地で試験栽培が行われた結果、北海
道が最も適していることがわかり、昭和15年から本格的な
栽培が始まった。
 上富良野町には、昭和23年に東中在住の植田美一、太田
晋太郎、岩崎久二男氏等が曽田香料株式会社札幌工場と委託
栽培契約を結び栽培されたのが始まりで、富良野地方で初め
てラベンダーの根が下ろされたのである。
 昭和26年には、東中を始め、町の数箇所に蒸留工場が設置
され生産地として最盛期には85ha、全国の85%が生産された。
 その後、輸入品の増加等の影響を受け栽培面積は昭和45
年をピークに減反の一途をたどり、昭和52年には香料原料
としての買い付けは中止となった。
 しかし、丘一面を紫色に染めるラベンダーを愛する人々の
手によって栽培が継続されていたことが踏み台となり、昭和
50年頃から観光面でラベンダーの知名度が高まり始め、新
たな観光作物としての道が開かれた。
 昭和56年には「町花」に認定され町民に親しまれている。
ラベンダーは、北海道の初夏を代表する花として、この東
中から第二の道を踏み出したのです。

東中地区は、私が調べた範囲では東中になったいきさつはわからなかった。1887(明治20)年道庁技師柳本通義らが、フラヌ原野の殖民地選定事業を行う。1895(明治28)年測量の役人に請ひ萱原を貰い受けて、現在の中富良野西1線北19号あたりに、伊藤喜太郎が単独入殖する。1896(明治29)年5月殖民地区画を設定する。1897(明治30)年4月三重団体田中常次郎、田村栄次郎、久野伝兵衛、高田治郎吉、川田七五郎、吉澤源七、川辺三蔵、服部代次郎の一行8名が単身で上富良野の西3線北29号175番地に入地する。1897(明治30)年7月歌志内村、富良野村を創立。歌志内村外1箇村戸長役場を歌志内に置く。1898(明治31)年東8線北15号(東中地区)で纓坂源三郎が雨紛産赤毛種籾1斗余を移入し、べベルイ川から揚水して、反当り1石2斗の米を収穫し、富良野の稲作の起源となる。東中で牧野吉蔵が鍛冶業を始める。東中地区に神田農場・倍本農場開設する。9月北海道官設鉄道(後の富良野線)旭川〜美瑛間開通し辺別、美瑛駅新設。11月美瑛〜上富良野間延伸開業し、上富良野駅新設。官設鉄道の線路が旭川から富良野原野を通り十勝に向かって敷設される予定だったが、途中の鳥沼が湿地帯で軟弱地盤だった為、当時の鉄道建設技術では困難との判断で変更、上富良野駅より中富良野経由で富良野まで鉄道が敷かれた。
東中に停車場建設が浮上していたこともあり、入植も早い段階で開始され、東中富良野神社は1899(明治32)年創立。3月神田和蔵が東中富良野簡易教育所を開く(現・東9線北17号付近)。1900(明治33)年9月東中富良野簡易教育所(現・東中小学校)を東9線北17号に校舎建築し授業を開始。東中に灌漑溝できる。1902(明治35)年天照大神を祭神として統合され、祭られている。1903(明治36)年7月石狩国空知郡富良野村の南方を下富良野村とし、富良野村を上富良野村と改称する。成立時の世帯数は520戸。3160人。1904(明治37)年東中で豚の飼育を始める。1905(明治38)年真宗高野山派説教所開設(東8線北18号)創立時の建物を弘照寺出張所「源照庵」として存置。東中富良野尋常小学校校舎を、東7線北18号に新築し移転する。1906(明治39)年4月戸長役場を廃止し2級町村制を施行。空知郡上富良野村。字中富良野・上富良野となり世帯数は847戸、4525人。1907(明治40)年東中で佐藤農場・五十嵐農場経営に着手。1908(明治41)年2月東中で西谷牧場開場する。4月真宗興正派上富良野説教所(現・東6線北20号付近)として創立。東中に橋野農場開場。1910(明治43)年東中ベベルイ地区に伊藤祐三郎を団体長として宮城団体入殖。東中に神田牧場開場。1911(明治44)年東中金比羅神社(現・東8線北20号付近)創祀。
 1913(大正2)年東中に西谷牧場開場。1915(大正4)年東中斜線道路に砂利を敷く。東中で養蜂を始める。1917(大正6)年4月上富良野村を分割、中富良野村をおき、二級町村制を施行。1919(大正8)年4月下富良野村が富良野町となる。上富良野村一級町村施行。上富良野村の世帯数は1924戸。10691人。村役場庁舎を建設(現・本町1丁目1番)。真宗興正派上富良野説教所が東9線北19号に移転。1920(大正9)年東中に向井・長野農場設立。1923(大正12)年3月東中富良野尋常高等小学校校舎全焼失する。4月東中高台地区造田計画の水源確保のため、水源をヌノッペ川に求めた幹線水路(現・ヌノッペ幹線用水路)造成工事が竣工する。1924(大正13)年9月東中富良野尋常高等小学校校舎新築落成。1926(大正15)年5月24日十勝岳大爆発により大規模な泥流が発生し、上富良野・美瑛・中富良野各村に甚大な被害を与え、死者・行方不明144人、被災戸数482戸、田畑全滅1187町歩の被害を出した。
 1928(昭和3)年4月上富良野〜東中間に幌形客用車を運転開始。1929(昭和4)年4月東中に佐渡団体入地。東中市街地区に電灯がつく。1930(昭和5)年12月上富良野村の世帯数は1655戸。人口1万104人。1935(昭和10)年10月上富良野村の世帯数は1759戸。1万1092人。大印自動車会社が富良野沿線バス開業。上富良野駅前〜東中〜鳥沼〜富良野駅前、上富良野〜中富良野〜富良野間を運行。1937(昭和12)年10月東中神社境内に西谷翁頌徳碑(西谷元右ヱ門)建立。12月東中郵便局集配業務を開始する。1944(昭和19)年東中診療所が設置される。1946(昭和21)年東中倍本西谷木工場を澱粉工場に改造し、秋から本格的生産操業に入る。真宗興正派上富良野説教所が寺号公称により専妙寺となる。1947(昭和22)年5月上富良野中学校東中分校が開校。東中小学校に併置し授業を行う。10月上富良野村の世帯数は2093戸。1万2587人。1948(昭和23)年2月東中酪農協同組合設立。東中集乳所集乳開始。東中でラベンダー苗7000本を植え付け、富良野地方でラベンダー栽培のはじめとなる。11月東中診療所が道立東中診療所となる。1949(昭和24)年6月旭川中央洋裁女学校東中分校開校。1950(昭和25)年9月上富良野中学校東中分校が「東中中学校」と改称し独立。1951(昭和26)年8月町制施行し上富良野町となる。1952(昭和27)年4月東中郷土誌発刊する。1953(昭和28)年10月東中豆類精撰工場を新設。1955(昭和30)年東中診療所閉鎖。1959(昭和34)年11月東中市街付近に親子連れの熊が出没し、4人(重傷3人・軽傷1人)が襲われる。熊(雌熊で、体重約200kg)は翌日射止められた。1960(昭和35)年10月上富良野町の世帯数3097戸。1万7101人。1962(昭和37)年6月十勝岳が噴火し、噴煙が高さ1万m以上に達し、62火口ができる(死者4人、行方不明1人、負傷者12人)。5月東中神社境内に「東中開拓者顕彰の碑」建立。1964(昭和39)年7月東中「専妙寺」老齢病弱により継承者なく廃寺となる。1969(昭和44)年6月東中へき地保育所(東中小の空き教室を利用)開所。1969(昭和44)年東中ラベンダー耕作組合青しそ部が発足。「青しそ」の本栽培に入る。東8線北19号に蒸留搾油工場を設け搾油を行う。1975(昭和50)年11月東中郵便局局舎新築落成。1977(昭和52)年12月東中中学校校舎改築落成。1978(昭和53)年12月東中地区簡易水道給水始まる。1980(昭和55)年4月東中「清流獅子舞」が発足。1980(昭和55)年6月東中土地改良区で、国営・道・団体営事業のかんがい排水、温水溜池、道営圃場整備、ヌノッペ幹線用水路、倍本用水路等の事業総合完工祝賀式を挙行。1985(昭和60)年10月上富良野町の世帯数3868戸。1万4127人。1988(昭和63)年4月東中に青しそ耕作組合が結成。
 1992(平成4)年1月東中倍本浄水場の通水式を挙行。1994(平成6)年11月「ラベンダー発祥の地記念碑」が建立(日の出公園・東中四東部落会館横)。1995(平成7)年10月上富良野町の世帯数4106。1万2881人。1998(平成10)年12月東中開拓百年記念誌「清流の里 ひがしなか」発刊する。1999(平成11)年1月東中開拓100年記念式典挙行。


1853(嘉永6)年、藤田良、蝦夷闔境輿地全図にトカチ山(十勝岳)を記入。
1857(安政4)年、春に箱舘奉行所足軽松田市太郎が石狩川探検の命を受ける。上川に至り、忠別太番屋(現・旭川市神居)に着く。番人小太郎、乙名クーチンコロ(松浦武四郎の踏査に何度も同行する上川の総首長)外アイヌ数名を伴い、3月18日発し、石狩川を遡り旭岳の北東より同山に登頂する。そこから忠別川の水源に出て、これを下り4月10日に番屋に戻った。さらに忠別川を遡り、石狩川水源と思わしき所を見分し、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰った。29日に忠別太に戻った。
1858(安政5)年、2月松浦武四郎十勝越えのためフウラヌイ(上富良野)に来る時点で、美瑛川支流のホロナイ(美瑛町美田第二)に露宿している。ビエベツ(上川郡美瑛町春日台間宮岳付近)の高地で、「硫黄の燃る烟実に目覚ましく天にさし上がりたり。」と十勝岳の噴煙を眺め上富良野町域へ足を踏み入れた。そしてポンカンベツ(江幌完別川)沿いに下り、フウラヌイ大川(富良野川)を越え、笹原の丘陵地を歩き、「一か国位とも見られる平野にして、土肥え暖気にて、雪少しもなし。実に一大良域と云うべきの地味なり」と述べている。クヲナイ(コルコニウシベツ川)を越えて、レリケウシナイ(旭日川)の川端に着くと「これより先は飲用できる水がない」というので、野宿する。
1887(明治20)年、道庁技師柳本通義、フラヌ原野の殖民地選定事業を行う。
1895(明治28)年、測量の役人に請ひ萱原を貰い受けて、現在の中富良野西1線北19号あたりに、伊藤喜太郎が単独入殖する。
1896(明治29)年、5月殖民地区画を設定する。9月三重県からフラヌ原野(現・上富良野)に、田中常次郎、川邊三蔵、島義空ほか数名が下見にくる。
1897(明治30)年、4月三重団体田中常次郎、田村栄次郎、久野伝兵衛、高田治郎吉、川田七五郎、吉澤源七、川辺三蔵、服部代次郎の一行8名が単身で上富良野の西3線北29号175番地に入地する。中富良野合力農場経営に着手。中富良野伊藤農場・鹿討農場・福原農場・岩本農場(後の有富農場)・吉井農場(吉井造林所)貸下げを受ける。7月歌志内村、富良野村を創立。歌志内村外1箇村戸長役場を歌志内に置く。12月歌志内〜(下)富良野間の仮設道路が開通する。中富良野鹿討農場事務所設置。人見農場・田中農場(上富良野)貸下げを受ける。
1898(明治31)年、1月高田派専修寺説教場(現・専誠寺)創立。4月福井団体の青山栄松・大嶋新松・野尻初太郎・徳岡平太夫ら入地。7月亀田政五郎村医として嘱託する。9月真宗大谷派説教場設立認可(現・中富良野町法栄寺)。旭川〜下富良野間に仮設道路開通。富良野村を上川支庁管内に編入する。東8線北15号で纓坂源三郎が雨紛産赤毛種籾1斗余を移入し、べベルイ川から揚水して、反当り1石2斗の米を収穫する。(富良野の稲作の起源)神田農場貸下げを受ける。牧野吉蔵が東中で鍛冶業を始める。森川房吉が旅人宿業を開業。
1899(明治32)年、3月島津農場創業する。神田和蔵が東中富良野簡易教育所を開く(現・東中小学校)。6月上川支庁管内所轄富良野村戸長役場を上富良野に開庁。(東1線北25号−現・本町1丁目1番付近)7月道庁福井技師により上富良野市街予定地測設。9月北海道官設鉄道(後の富良野線)旭川〜美瑛間開通し辺別、美瑛駅新設。11月美瑛〜上富良野間延伸開業し、上富良野駅新設。夕張郡から空知郡フラヌ原野(現・上富良野町)へ島津団体入殖する。倍本農場事業開始。中島農場経営に着手。纓坂源七始めて馬を飼育。島津農場の農神・守護神として「島津神社」創祀。
1900(明治33)年、6月真宗大谷派上富良野仮説教場(現・明憲寺)創設。福原農場(現・中富良野)経営に着手。8月上富良野〜下富良野間延伸開業し、中富良野・下富良野駅新設。9月東中富良野簡易教育所(現・東中小学校)を東9線北17号に校舎建築し授業を開始。真宗大谷派上富良野仮説教場創設(現・明憲寺 空知郡上富良野町西町1丁目)。東中に灌漑溝できる。
1901(明治34)年、7月上富良野市街地貸付け開始。10月西川牧場経営に着手。中富良野井形農場貸付けを受ける。新井牧場経営に着手する。安川某・松浦市兵衛が(現在の大町1丁目付近)石屋兼業で湯屋を始める。東中神社を建立創祀する。
1902(明治35)年、3月富良野神社(現・上富良野神社)創祀。5月真宗本願寺派西本願寺仮説教所(現・聞信寺)創設。7月上富良野尋常小学校開校。草分神社創立。東中で田畑浅吉が澱粉工場を始める。第一本間牧場貸下げ。第二本間牧場経営に着手。森農場入地開始(現・演習地)。丸谷常吉が十勝岳に高山植物の採取に出掛けた所、温泉を発見する。このとき吹上温泉を発見したと推定される。
1903(明治36)年、7月石狩国空知郡富良野村の南方を下富良野村とし、富良野村を上富良野村と改称する。真宗大谷派上富良野説教場の御堂を建替え移転する。日新神社創祀。渡辺牧場(日の出)開場。牧野吉蔵が蹄鉄業を始める。村木農場(江花)開墾に着手。江幌地区に奥野仙造を団長とした滋賀団体が入地する。
1904(明治37)年、山加農場(旭野)設立する。酒井農場(旭野、日の出)・山田農場(旭野)貸下げを受ける。岡部農場(日の出)・堀川牧場(草分)経営に着手。東中で豚の飼育を始める。静修(現・西12線北31付近)に福島団体入地する。
1905(明治38)年、7月上富良野尋常小学校を上富良野尋常高等小学校に改編。真宗高野山派説教所開設(東8線北18号)創立時の建物を弘照寺出張所「源照庵」として存置。東中富良野尋常小学校校舎を、東7線北18号に新築し移転する。
1906(明治39)年、1月中富良野に長岡牧場経営に着手。4月戸長役場を廃止し、2級町村制を施行。江幌に後藤貞吉を団体長とした岐阜団体が入地する。5月十人牧場(旭野)設置。上富良野村農会設立。中川三郎が、中川吹上温泉を経営する。芝居小屋田村屋が開業する。
1907(明治40)年、6月真宗大谷派上富良野説教所が「真宗大谷派光暁山 明憲寺」となる。9月落合〜帯広間が延伸開業により旭川〜釧路間が全通する。徳島県から空知郡フラヌ原野(現・空知郡上富良野町西11線北34号付近の上富良野最北地)へ原田徳次郎を団体長として阿波団体入殖する。同地区に守屋熊治を団体長として豊里団体入殖する。江花地区に大場金五郎を団体長として山形団体入殖。同地区に秋田団体・大野嘉を一団体長として土佐団体入殖。江幌地区に奥野仙造を団体長として滋賀団体入殖。静修地区に佐々木利左衛門を団体長として宮城団体・福島団体入殖。
1908(明治41)年、江花地区に越後団体入殖。翁温泉(現・富良野 思惟林・以前のヒュッテバーデン上富良野より上流500m付近)の上で硫黄の採掘はじまる。一色仁三郎が亜麻を始めて耕作する。
1909(明治42)年、10月釧路線(旭川〜釧路)とする。日新地区に佐川団体入殖。江幌地区に村上兵馬を団体長として衣川団体入殖。静修の熊野神社創祀。江幌神社創祀。東中ベベルイ地区に伊藤祐三郎を団体長として宮城団体入殖。
1911(明治44)年、11月上富良野郵便局で、電信電話の取扱いを始める。東中金比羅神社創祀。静修地区に岡山団体入殖。
1913(大正2)年、7月ヌッカクシフラヌイ川とデボツナイ川の合流工事着工。11月滝川〜下富良野間が開業する。滝川〜釧路間を釧路本線と改称し、下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。中川三郎十勝岳新噴火口の硫黄採掘に着手。
1915(大正4)年、東中斜線道路に砂利を敷く。東中で養蜂を始める。十勝岳翁地区で硫黄採掘と併行して、西村某が翁温泉宿を経営する。
1916(大正5)年、8月三重団体組織代表「田中常次郎頌功碑」を建立。(専誠寺境内)
1917(大正6)年、4月上富良野村を分割、中富良野村をおき、二級町村制を施行。世帯数は上富良野村1484戸。中富良野村1107戸。
1918(大正7)年、平山硫黄砿業所事業に着手。日本通運の前身であるー印上富良野運送社創立。
1919(大正8)年、4月下富良野村が富良野町となる。上富良野村一級町村施行、人口10691人(戸数1924戸)。村役場庁舎を建設(現・本町1丁目1番)。飛沢清治が、私財を投じて吹上温泉までの道路を建設に着手。除虫菊の作付け始まる。
1920(大正9)年、3月上富良野郵便局で電話交換業務を開始する。東洋製繊株式会社、日本麻糸株式会社亜麻工場を設立。村役場庁舎落成し、移庁式を挙行。12月富士電気鰍ノより、上富良野市街に電灯が付く。
1922(大正11)年、11月中川三郎氏が吹上温泉施設を飛沢清治に譲渡。ビート栽培本格化する。
1923(大正12)年、戸長役場を全廃し、町村制を施行。大日本麦酒株式会社(現・サッポロビール株式会社)直営ホップ園(上富良野村富原地区)でホップの試作栽培始まる。
1924(大正13)年、7月長谷川零餘子の句碑(現・吹上温泉保養センター白銀荘敷地内)建立。11月10日下富良野〜旭川間を富良野線と改称する。
1926(大正15)年、5月24日十勝岳大爆発により大規模な泥流が発生し、上富良野・美瑛・中富良野各村に甚大な被害を与え、死者・行方不明144人、被災戸数482戸、田畑全滅1187町歩。9月10日美馬牛駅新設。
1927(昭和元)年、2月飛沢清治の経営する吹上温泉宿が硫黄山駅逓開設(吹上温泉)となる。5月十勝岳爆発遭難記念碑を日新入り口付近に泥流により流されてきた巨石の上に建立。7月俳人石田雨圃子の句碑を十勝岳山麓中茶屋付近に建立する。水難予防鎮魂碑を上富良野神社境内に建立。
1928(昭和3)年、4月上富良野〜東中間に幌形客用車を運転開始。10月十勝岳爆発記念碑を十勝岳元山事務所付近に建立。
1929(昭和4)年、4月東中地区に佐渡団体入地する。5月門上浄照師が聞信寺で農繁期(農村)幼児託児所を開設。7月九条武子の歌碑を十勝岳中腹泥流跡に建立。東中市街地区に電灯がつく。
1932(昭和7)年、2月草分土地改良区江幌貯水池が完工する。吹上温泉株式会社創立。代表者山本一郎(終戦まで建物は軍用施設に転用される)。7月門上浄照、吉田貞次郎等が十勝岳連峰の縦走に成功する。日新ダムの奥地松井牧場解放の時に清富神社創祀する。
1933(昭和8)年、1月十勝岳山麓に「白銀荘」新築。上富良野村で大火。駅前竹料理店より出火し、駅本屋・物置・駅前飛澤自動車部・集乳所・住宅家屋等13棟15戸を延焼した。夏期間のみ飛澤清治が吹上温泉までバス運行を始める。十勝岳観光協会を設立する。
1934(昭和9)年、1月十勝岳山麓に「勝岳荘」新築。沼崎重平所有の沼崎農場開放記念式挙行。12月日新尋常小学校清水沢特別教授場(後の清富小学校)開設し授業開始。
1935(昭和10)年、大印自動車会社が富良野沿線バス開業。上富良野駅前〜東中〜鳥沼〜富良野駅前、上富良野〜中富良野〜富良野間を運行。10月島津地区(現・富町1丁目付近)に家畜市場設置される。富良野川河川敷にごみ焼却場を設置する。
1936(昭和11)年、6月島津農場解放し、小作農を自作農に開放した。
1937(昭和12)年、10月東中神社境内に西谷翁頌徳碑(西谷元右ヱ門)建立。12月東中郵便局集配業務を開始する。山本木工場創立。
1941(昭和16)年、4月上富良野産業組合の味噌正油醸造工場(現・栄町1丁目)新築落成。東中警防団を合併し、上富良野警防団となる。11月永楽座館を増改築し、上富良野劇場落成開業する。12月2次世界大戦勃発。
1942(昭和17)年、4月中堀医院を引き継ぎ渋江医院開業する。8月十勝岳山頂に「光顔巍々」石碑建立。日の出地区(現・西1線北28号付近)の粘土を原料に素焼き土管を製造する。
1943(昭和18)年、吹上温泉株式会社解散する。6月北日本木工製作株式会社創立。富原神社が創祀する。東中診療所が設置される。
1945(昭和20)年、7月15日富良野上空に米軍機が飛来し、空襲を受ける。上富良野には被害なし。吹上温泉は終戦まで軍用施設に転用される。
1946(昭和21)年、4月開拓地(現・上富良野町西2線北)を記念し「憩の楡」の碑を建立。
1947(昭和22)年、5月上富良野中学校・上富良野中学校東中分校が開校。上富良野中学校・上富良野小学校に併置し授業を行う。東中分校は東中小学校に併置。授業を行う。
1948(昭和23)年、東中でラベンダー苗7000本を植え付け、富良野地方でラベンダー栽培のはじめとなる。
1949(昭和24)年、4月上富良野中学校新校舎の一部が落成。6月上富良野市街地で大火。焼失家屋等112棟。12月上富良野中学校東中分校新校舎落成。
1950(昭和25)年、3月江花地区に電灯点く。9月上富良野中学校東中分校が「東中中学校」と改称し独立する。
1951(昭和26)年、8月町制施行し、上富良野町となる。町制施行記念式典を挙行。11月上富良野町公民館東中分館新築落成。清富でハッカの栽培をはじめる。旭川〜浦河間道路が2級国道(現・国道237号)となる。十勝岳スキー山岳会設立。
1954(昭和29)年、1月富良野川鉱毒水処理を目的として、日新ダム建設を促進する期成会を設立。7月富良野川・ヌッカクシフラヌイ川鉱毒防止促進期成会が設立。
1955(昭和30)年、2月ラベンダー耕作組合創立。9月陸上自衛隊が上富良野町に移駐(第二特科連隊・第二特車大隊他)する。沼崎重平翁彰徳碑を美馬牛駅前庭に建立する。
1957(昭和32)年、11月上富良野町上水道利用組合設立し、水道工事竣工式及び通水式を挙行。12月国鉄富良野線にディーゼル気動車の運行始まる。町内でアスパラガスの試作始まる。
1958(昭和33)年、5月十勝岳大正火口下にブロック造の避難小屋「シュナイダーハウス」新築。9月上富良野町立国民健康保険直営病院開院。12月自衛隊上富良野駐屯地に第308地区施設隊が旭川から移駐。
1959(昭和34)年、2月十勝岳山麓「勝岳荘」火災によって焼失。
1960(昭和35)年、日新地区・里仁地区・清富地区電化となる。11月会田久左ヱ門が十勝岳温泉凌雲閣の建設計画申請し認可が下りる。清富地区簡易水道工事着工し、翌年通水。
1961(昭和36)年、4月デージー食品工業株式会社上富良野工場が創業開始。6月美馬牛駅前庭に「沼崎重平翁彰徳碑」を建立する。7月十勝岳温泉旅館建設(38年完成)に着手。自衛隊第308地区施設隊が十勝岳産業開発道路工事を中茶屋から着手する。8月合同缶詰株式会社上富良野工場設立操業。9月佐川団体(新井牧場)の簡易水道工事完成。江幌・静修・旭野・日の出・草分地区の無電灯農家に電気点灯される。広島産肉牛黒毛和種37頭導入される。
1962(昭和37)年、1月上富良野駐屯地に第二対戦車隊が新編となる。3月上富良野駐屯地第2特科連隊が旭川へ移転。上富良野駐屯地に第4特科群が北千歳から移駐。旭野小学校閉校式挙行。上富良野小学校に統合となる。6月憩の楡跡記念碑を建立する。6月十勝岳が噴火し、噴煙が高さ1万m以上に達し、62火口ができる(死者4人、行方不明1人、負傷者12人)避難小屋「シュナイダーハウス」埋没する。8月十勝岳温泉株式会社設立。會田久左エ門が代表となる。上富良野駐屯地に第315武器野整備隊が島松から移駐。伊藤凍魚の句碑を自衛隊駐屯地営庭に建立する。
1964(昭和39)年、3月31日江幌中学校が閉校し、上富良野中学校に統合。空知郡中富良野村を町とする。5月深山峠に展望台が完成し、開園式を挙行。9月株式会社十勝岳観光開発公社設立。
1965(昭和40)年、2月第1回上富良野町雪まつりを開催。3月上富良野スキー連盟設立。5月「かみふらの十勝岳観光協会」発足。7月旭川電気軌道バスが十勝岳温泉凌雲閣前まで運行を開始する。10月町営国民宿舎「カミホロ荘」営業を始める十勝岳産業開発道路完成。12月上富良野高等学校校舎新築落成。
1966(昭和41)年3月31日日新中学校閉校し、上富良野中学校に統合。7月26日日新ダム工事着工、起工式を行う。11月清富小学校前の農業センター付近より土器と石器発見。深山峠「さくら園」に展望台できる。
1967(昭和42)年、3月上富良野町十勝岳山岳救助警備隊設立。3月31日江花小学校・創成小学校閉校。4月上富良野西小学校開校。6月役場庁舎新築落成。7月町営日の出山スキー場設置。11月十勝岳温泉地区に十勝青年の家「上富山荘」を建設し開業する。山本木材工業製材部を閉鎖し、山部に工場を移転操業を開始する。
1968(昭和43)年、4月上富良野農業協同組合と東中農業協同組合が合併「上富良野町農業協同組合」となる。新しい町内行政区画割でき、市街区は常盤・中央・西富・北栄・本町・旭・春日・住吉。郡部は清富・日新・草分・里仁・江幌・静修・江花・日の出・西日の出・島津・西島津・旭野・富原・東中となる。
1971(昭和46)年5月自衛隊上富良野駐屯地に第102装甲輸送隊新編。9月十勝岳登山口に「十勝岳産業開発道路記念歌碑」建立。
1973(昭和48)年、1月1日から市街地区上水道給水開始。3月里仁小学校閉校記念式挙行し、上富良野西小学校に統合となる。4月島津公園造成事業が着工する。10月深山峠に松浦武四郎顕彰之碑を建立する。
1974(昭和49)年、8月国営直轄かんがい事業十勝岳地区日新ダム竣功。
1975(昭和50)年、8月會田久左衛門の「歌碑」(十勝岳温泉凌雲閣前庭)建立。
1976(昭和51)年、1月三浦綾子著小説「泥流地帯」北海道新聞日曜版に連載始まる。
1977(昭和52)年、7月日の出公園設置。開基80周年記念事業「上富良野町郷土館」新築落成。
1978(昭和53)年、5月上富良野町郷土館開館。8月白銀荘(勝岳荘と合築)改築完成。9月第1回北海ホップまつり開催(後にラベンダーまつりとなる)。10月自衛隊演習場専用道路開通。島津公園噴水広場が完成。
1979(昭和54)年、3月31日日新小学校閉校し、上富良野西小学校に統合。5月国道237号線上富良野バイパス工事着工。12月上富良野町立病院改築落成、旧病院より移転。
1980(昭和55)年、9月十勝岳連峰カミホロカメットク山付近に避難小屋完成。10月島津公園が完成。12月上富良野町郷土をさぐる会設立。
1981(昭和56)年、6月第1回十勝岳駅伝大会を上富良野駅前〜十勝岳温泉凌雲閣前広場まで開催。
1982(昭和57)年、10月日の出ダム竣工(48年9月着工)。11月市街地東側地区が新住所となる。緑町・大町・南町・旭町・新町・東町・本町・宮町・丘町・向町・桜町となる。
1983(昭和58)年、11月市街地西側が新住所となる。富町・錦町・中町・栄町・泉町・扇町・北町・光町・西町となる。
1984(昭和59)年、3月町営国民宿舎「カミホロ荘」民間に委託する。第三セクター株式会社十勝岳観光開発公社が設立。自衛隊上富良野駐屯部隊に第301多連装ロケット中隊が新編される。5月十勝岳爆発災害復興60周年記念。三浦綾子著小説「泥流地帯」文学碑建立。9月北光電子工業創設。十勝岳温泉翁地区に「バーデンかみふらの」新築創業する。十勝岳翁森林公園造成事業が完成し開園する。
1985(昭和60)年、5月十勝岳62火口東壁中央に、新噴気孔が確認される。8月社団法人かみふらの十勝岳観光協会を新設。町役場庁舎改築改装工事完工。12月日の出山スキー場にスキーリフト(ロープトゥ式)完成。
1986(昭和61)年、4月町内市街区は緑町・大町・南町・旭・本町・宮町・西富町・中町・栄町・泉町・住吉町・東明町・丘町となる。郡部は清富・日新・草分・里仁・江幌・静修・江花・日の出・西日の出・島津・西島津・旭野・富原・東中となる。
1987(昭和62)年、1月ディジー食品株式会社上富良野工場閉鎖。富良野工場に吸収統合。4月国鉄が民営化されJR北海道となる。駅名が「JR北海道上富良野駅」に改称。12月日の出公園に展望台完成。
1988(昭和63)年、3月食肉センター施設を民間に売却。空知ミート鰍フ経営となる。9月国道237号線上富良野バイパス開通。12月16日十勝岳が噴火。12月24日十勝岳再噴火で避難命令が発令される。
1989(平成元)年、6月上富良野神社新社殿・付属施設等が完成。記念式典を挙行。
1990(平成2)年、7月町の字名を廃止。フロンテイアフラヌイ温泉完成。9月十勝岳温泉・吹上温泉などで47度のお湯が湧出していることが確認された。12月日本画家、後藤純男画伯 上富良野町東4線北24号にアトリエを新築落成。
1991(平成3)年、5月カミホロ荘の温泉ボーリング成功。湯温37度毎分120リットルの湧出。8月吹上温泉地区に、吹上憩いの広場・吹上露天の湯を整備。スガノ農機株式会社「土の館」が完成。
1992(平成4)年、6月フラワーランドかみふらの開園。7月「富良野ホップス・トーアスホテル」がオープン。スガノ農機瓦土の館」オープン。10月JR富良野線がワンマン運行となる。
1993(平成5)年、6月スガノ農機鞄yの館に、第3展示場「農機具伝承館」が完成。9月日の出5遺跡発掘調査を行う。10月千望峠「花と憩いの広場」完成。
1994(平成6)年、6月深山峠地区に「トリック・アート、ラ・ギルランダ美術館」完成オープン。11月「ラベンダー発祥の地記念碑」が建立(日の出公園・東中四東部落会館横)。12月十勝岳温泉凌雲閣が新装オープンする。
1995(平成7)年、3月第2戦車連隊が新編される。
1996(平成8)年、12月吹上温泉保養センター新築工事竣工し、翌年1月から開業。鉄筋コンクリート造2階建て2棟。
1997(平成9)年、1月11日吹上温泉保養センター開業。4月深山峠に「ハーブヒル富良野」オープン。7月深山峠にハンガリー仕込みの「上ふらのびいる館」がオープン。上富良野町開基100年記念式典を挙行。9月草分地区に「フラノーブル」オープン。
1999(平成11)年、8月国民宿舎カミホロ荘全焼する。10月日の出公園オートキャンプ場センターハウス新築落成。
2000(平成12)年、4月上富良野町郷土芸能資料館オープン。7月東中を中心に豪雨が降り、デボツナイ川が氾濫し被害が出る。9月日の出公園オートキャンプ場コテージ新築落成。11月国民宿舎カミホロ荘が再建オープン。
2001(平成13)年、7月日の出公園オートキャンプ場オープン。
上富良野町史・百年史参考
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