北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

長谷川零餘子句碑

住所 空知郡上富良野町吹上 白銀荘敷地内

かみふらの十勝岳観光協会

大正時代から昭和初期の日本の俳句界に多大の影響と足跡のあった俳人。
最初の来道は1922(大正11)年、旭川、浅茅野、栗山、札幌、小樽、室蘭、函館などの各地を巡り、石田雨圃子(俳人で旭川市慶誠寺住職)など多くの歓迎を受けた。
これをきっかけに大正12年に2回、大正13年に1回、大正14年に1回と北海道に来た。
零餘子の第1回来道の大正11年、ぜひ冬の北海道での馬橇(ばそり)の旅をしたいとの希望が雨圃子に伝えられており、1923(大正12)年2月、零餘子から雨圃子に、馬橇に乗りたいので案内を頼むとの連絡があった。
同年3月2日、長谷川零餘子は列車で11時頃、旭川から石田雨圃子の案内で上富良野駅に到着、門上浄照師の歓迎の挨拶を受けた後、橇に乗る。
この日は積雪が多く、天侯はだんだん吹雪になる様子だったが、上富良野駅前を出発。
このとき、赤川商店でパンを買い、一本松の所で昼食、中茶屋でうどんに卯をかけて食べたそうだ。
その後だんだん吹雪が激しくなり、馬橇を曳く馬も10m位進むと休みの繰り返しで、馬は発汗も激しく口から泡を出しており可哀想だったと言う。
このとき、黙々と歩む馬橇の中で詠まれた句が、「喰うものに パン二つあり 橇の旅」だそうだ。
悪天侯のもと馬と馭者の林勝次郎は、約12時間を費やして、夜中の23時過ぎ吹上温泉に辿り着いた。
翌日は、昨日の天気が嘘の様な快晴となり、本館から風呂場へ行く渡り廊下の窓から外の情景を見ながら詠ったのが、「鬼樺の中の温泉に来ぬ 橇の旅」である。
この句碑は、当時の聞信寺住職、門上浄照師が建立した。

鬼樺の中の温泉に来ぬ 橇の旅
1924(大正13)年、7月建立、当時の建立場所は、十勝岳吹上温泉玄関横。
1967(昭和42)年、改修し建立し現在地である吹上温泉保養センター白銀荘敷地内に建立。


終戦前に吹上温泉の建物が解体され、玄関の横に建っていた零餘子の句碑は、土砂の中に埋もれていた。
その後、句碑の碑面を下にして土砂に埋っていた碑石を発見し、1967(昭和42)年、上富良野町と上富良野町観光協会によって現在地に再建立された。

長谷川零餘子(はせがわれいよし)とは、1886(明治19)年5月23日 - 1928(昭和3)年7月27日、日本の俳人で立体俳句の提唱者。
群馬県多野郡鬼石町(現・群馬県藤岡市鬼石)生まれで、少年時より俳句に興味を持ち、富田翠邨と号して「秀才文壇」とか「新体詩集」に投句した。
1905(明治38)年、上京後に井上唖々永井荷風、伊藤竹酔等らと七草会を結成し、零餘子と号するようになった。
1909(明治42)年「国民新聞」俳壇(東洋城選)に句が入選。この頃薬学専門学校に入学し、英語の家庭教師先であった長谷川家(長谷川かな)の援助を得て、薬学専門学校を卒業、東京帝大薬学専科に進んだ。
1911(明治44)年、学費の扱助をしてくれた長谷川家の長女「かな」(俳人長谷川かな女)と結婚、長谷川家の養子となる。
1912(明治45)年、東京帝大薬学専科を卒業、品川の薬品研究所の研究員になる。
1913(大正2)年、「ホトトギス」の編集に従事する。
1914(大正3)年、「ホトトギス」地方俳句欄の選を担当し、「電気と文芸」の俳壇選者、「東京日日新聞」の俳壇選者にもなる。
1921(大正10)年、俳誌「枯野」を創刊主宰する。「立体俳句論」を提唱した。
1928(昭和3)年、10月長谷川かな女は「枯野」を「ぬかご」と改題して俳誌を発刊した。
1929(昭和4)年、11月俳誌「水明」を創刊主宰。

石田雨圃子(いしだうぼし)とは、1884(明治17)年1月13日 - 1952(昭和27)年1月13日、旭川慶誠寺二代目住職で俳人。
富山県西呉羽(現・富山県富山市呉羽町)に生まれ、本名は慶封。
富山の仏教中学を経て東京の高輪中学に転校。この頃より「万朝報」や「俳諧草紙」に投句をはじめた。その後早稲田大学の文科に進んだ。
1913(大正2)年、早稲田大学卒業後、布教師としてハワイに渡航していた。
1917(大正6)年、帰国する。
1919(大正8)年、父の跡を継いで、旭川慶誠寺(現・旭川市豊岡5条4丁目4−14)二代目の住職になった。
「枯野」の長谷川零餘子と親交を結び、「枯野」の課題句選者となる。
1923(大正12)年、4月に俳誌『雪舟』を創刊する。
1929(昭和4)年、ホトトギス系俳誌「木ノ芽」(のち「古潭」「石狩」)を創刊する。

大きな地図で見る
Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system